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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅴ -愛南町-(平成25年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 一本松のくらし

(1)イモを食べる

 「昭和20年代から30年代ころまでは、イモ(甘藷(かんしょ))やダイコンを薄く削り、それを串に通して、『ホテ』(藁(わら)を円柱状に束ねたもの)にその串を突き刺して切干(きりぼし)を作っていました。南宇和郡一帯の在方(ざいかた)(農村地域)ではその光景が見られましたが、浦方では、イワシを干すのと同じように木の棚に並べて切干にしていました。切干イモは、デンプンや酒用アルコールの原料品として出荷したり、自家用の食糧にしたりしました。食用の場合は、切干イモを臼(うす)に入て杵(きね)でつくと、粉状のものと『ツメ』と呼んでいた少し大きめの粒とができるのですが、ふるいにかけて上に残ったツメを、米などと一緒に炊きます。それを、在方では『ツ飯』、浦方では『カンコロメシ』とよく言っていました。ただし、米を作る農家の多い在方と少ない浦方とでは、イモに混ぜる米の量が違っていました。浦方では、ほとんどツメだけでカンコロメシを作ることが多くて、煮て液状になったツメを冷ますと羊羹(ようかん)のようになるのですが、それを包丁で切って、イワシなどの魚と一緒に食べていたそうです。それから、ふるいにかけた粉状の方は、さらに細かくしてから練って蒸し、薄黒い色をした『カンコロモチ』にしていました。蒸すときにモチの中に輪切りの生イモを入れておいて、イモ餡(あん)モチにすることもありました。私(Bさん)自身は、カンコロモチを食べた記憶があまりないので、ツメ飯は主食で、カンコロモチはどちらかと言えばおやつのような印象があります。
 イモは、寒さに弱くてしびれやすい(傷みやすい)ので、イモ壺(つぼ)の中に囲って(保存して)いました。在方では家の中の座敷の下にイモを囲うことが多かったのですが、浦方は、在方よりも海の影響で暖かいことや土地が狭いために比較的小さい規模の家が多いことなどから、家の外や畑などに穴を掘ってその上に筵(むしろ)などをかけたイモ壺を作ることも少なくなかったようです。一本松地域の農家は、稲作で生計を立てながら、主食用のイモもたくさん作っていました。私(Bさん)のうちにも、かつては大きなイモ壺があって、収穫後の11月ころには、そこが一杯になるくらいイモを入れていました。ただし、それでも、冬場に、2、3合(約360mℓから約540mℓ)ほどの米にたくさんのイモを入れたイモ飯ばかり食べていましたので、4月ころには大分なくなっていました。昭和20年代半ばころの話ですが、イモと米を一緒に炊くと軽いイモは浮いてしまうので、炊き上がってから少し混ぜなくてはならず、その時に、鍋底の方の、米が多くて焦げ目の付いたおいしい部分は父親の山仕事用の弁当に詰められて、当時、農学校(愛媛県立南宇和高等学校)に通っていた私(Bさん)の弁当は、ほとんどイモばかりでした。それでも母親が気を遣ってくれていたのか、弁当の上っ面に白い米飯が薄く被(かぶ)せられていたことを憶(おぼ)えています。そのイモも、やがて芽が出て食べられなくなると、夏場から収穫時期の10月くらいまではツメ飯を食べるわけです。
 私(Cさん)が小学生の時も、まだ給食ではなくて弁当でした。弁当の蓋(ふた)を開けるまでは中身が分からなかったので、人に見られないように蓋で隠しながら食べましたが、どの子も同じようにしていました。私たちが卒業した後、昭和37年(1962年)から給食は始まったのですが、そのころから生活のリズムや習慣が変わっていったように思います。
 一本松辺りで、イモやツメなどを混ぜない白飯を食べるようになったのは昭和34、35年(1959、1960年)ころで、『あそこの家は米を食うちょるぞ。』などと噂(うわさ)をし合っていました。それが、昭和37、38年(1962、1963年)ころには、大方の家で朝、昼、晩に白飯を食べるようになりました。ちょうど給食の始まりと同じころでしたので憶えています。多分そのころに、高度経済成長によって収入が増え、それに伴って食生活も豊かになったのだと思います。」

(2)有線電話でつながる

 「昭和30年代の後半から昭和40年代ころ、一本松地域全域に流れる有線放送(農事有線放送、昭和34年〔1959年〕開始)は、なくてはならないものでした。当時の役場近くにあった有線放送室では、共有電話の交換もしていて、電話回線を切り替える交換器の元口には、一口ごとに親番号が振られ、さらに、その一口を共有していた何軒かには、それぞれに子番号が割り振られていました。
 当時、私(Cさん)の家には『15の4』という番号が付けられていましたので、有線放送で『15の4番に電話です。』と呼び出しがかかれば、自分の家の受話器をとっていました。そのときには、『15』を親番号とする全ての家に放送が聞こえていますので、うちに電話がかかってきたことはどの家にも分かります。ですから、私の家が留守の場合は、他の家の人がその家の受話器を取って、留守であること伝えてくれたりもしました。一方で、うちが電話をかけ続けると、電話の元口を共有している他の家が使えないので、話している時間が少しでも長くなると、『長話はやめなはい(やめなさい)。』と親によく言われました。
 私(Bさん)の家の場合は、一口に12軒が加入していて、どの家も電話をよく利用していましたので、有線放送での呼び出しがしょっちゅうかかっていました。有線電話で町外の人に連絡をするときには、一本松の有線放送の交換担当者を通じて、かけたい地域の交換所に電話を切り換えてもらい、そこの交換担当者を通じて相手方に繋(つな)つないでもらいます。ですから、有線電話を町外にかけると待ち時間が長くなって電話を使い続けることになり、他の家に迷惑をかけてしまうので、特に遠方に電話をかけるときには、郵便局まで行って、今でいう公衆電話のような、一般の人が利用できる電話を使うことが多かったです。
 当時はまだ、一軒だけで使う個人電話に加入する家は少なくて、大方の家は電話を共有していました。ただし、町内の他の家に時々連絡をするくらいであればそれでもいいのですが、商売をしていると自由に電話を使えないのは不便なので、商店の場合は個人電話にしているところが多かったと思います。私(Aさん)の家も、自転車店をしていましたので、昭和25、26年(1950、1951年)ころに個人電話に加入しました。電話番号から考えて、一本松地区内で20番目から30番目くらいだったと思います。やがて個人電話の加入が増えるとともに、有線電話はなくなりました(一本松郵便局内の局線電話のダイヤル化にともなう局線加入者の増大により、農事有線放送のうち、電話機能が昭和51年〔1976年〕に終了した)。」

(3)子どもの学びと遊び

 ア 通学路と遠足

 「私(Bさん)は、一本松小学校に通算で15年間勤務しました。中川、小山、広見、増田のそれぞれの地区で子どもたちが多かったころは、1学年3学級で150人、それが6学年ですから900人ほどの児童が通っていました。校舎内や運動場は満員で、子どもたちの賑やかな声がいつも響いていました。どの子どもも自宅から一本松の学校まで歩いて登下校していましたが、中には、かなり遠くから通っていた子どももいました。
 私(Cさん)は、子どものころに増田の八人組(はちにんぐみ)に住んでいましたので、遠くから通っていた一人だったと思います。片道が約4kmで、小学校1年生の時には歩いて1時間半くらいかかっていました。ただ、私よりも遠くから通っていた子どももいて、私の家よりも山手の方に住んでいた子は、2時間くらいはかかっていただろうと思います。それでも、皆で楽しく登下校をして、夏場などは、学校から家に帰る間に何度も川へ寄り道をしては、水浴びをしながら遊んでいました。その私でも、年に1回の遠足で脇本(わきもと)(旧城辺町)へ行くのは大変でしたが、その脇本やさらに遠い中玉(なかたま)(旧城辺町)から一本松の小学校(高等科)へ毎日通っていた子どもたちがいたというのには驚きます。
 明治の終わりから昭和の戦前にかけての話ですが、脇本や中玉の小学校には高等科がなかったので、それらの地区の子どもたちが、高等科のあった一本松小学校(明治34年〔1901年〕に高等科2年制を併置。一本松尋常(じんじょう)高等小学校は、一時期まで、村内で高等科を設置していた唯一の学校)へ、山道を越えながら通って来ていたのです。それから、遠足についていえば、一本松の小学校と中学校では、年に1回、決まって脇本の浜まで山道を通って行っていました。
 遠足のことは、私(Cさん)もよく憶えています。学校を朝出発して、急な山道を越えながら1日がかりで行っていましたので、小学校1、2年生の時には結構辛(つら)かったです。それでも、山の上から海が見えてくると、皆が歓声を上げて喜んでいました。
 遠足の山道は、距離が長いことに加えて上り下りも急なので、小学校低学年の子どもたちにとっては大変だったろうと思います。ですから、小学校1年生だけは保護者が同伴して、時々手を引っ張ったり背負ったりしていました。私(Bさん)も、3年生の子どもを背負って山の頂上から学校まで帰ったことがあります。当時は、自動車が普及していなかったので、いろいろな所へ気軽には行けず、一本松の子どもたちが他所(よそ)に連れて行ってもらえるのは『お大師(だいし)さん』(御荘平城(みしょうひらじょう)の観自在寺(かんじざいじ)〔四国八十八か所40番札所〕の縁日)くらいでした。ですから、子どもたちは、道中は辛くても、珍しい海を見ることのできる遠足を楽しみにしていました。年度初めの家庭訪問が終わる4月末から5月の初めころに行っていた遠足は、一本松の小学校と中学校にとって大きな行事の一つでした。」

 イ 子どもたちの遊び場

 「私(Cさん)は山の中で育ったので、野球のようなスポーツをして遊んだという記憶はあまりありません。それよりも、アケビやヤドリギを採りに行ったり、ハゴ(わな)をかけて小鳥をとったり、川で魚を釣ったり、池の水を抜くときにコイやフナを掴(つか)みに行ったり、田んぼでテナガエビやウナギをとったりと、いつも自然の中で遊んでいました。
 昔は、田植えの後によくウナギをとっていて、田んぼの畔(あぜ)を回ればいくらでも見つけることができました。私(Cさん)たちの間では、ウナギをとることを、ウナギを『突く』ではなく、『切る』と言っていました。田んぼでは金突(かなつき)(魚を突く道具)が使えないので、鋸(のこぎり)を持って行って、歯ではなく背の方でウナギを叩(たた)いてとります。ですから、叩くとはいえ、鋸を使っていたので『切る』になったのだと思います。子ども同士で、『ウナギを切りに行くぞ。』と言いながら、田んぼに出かけていました。中には、一晩で68匹のウナギをとった子どももいました。とったウナギは持ち帰って、自分の家で食べたり、近所の家にあげたりしていました。
 以前は、よく田んぼの畔に大豆などを播(ま)いて育てていましたので、ウナギをとろうとして畔を歩いていると、『昨日、豆を植えたんやが。』と怒られたりしました。子どもたちがぞろぞろ歩くと、せっかく植えたものが踏み潰されるので、農家の人も仕方なしに言ってきたのだと思います。
 よくとっていたテナガエビは、一時期少なくなりましたが、最近はまたよく見かけるようになりました。でも、ウナギはほとんどいなくなりました。当時は、今のようにおもちゃを与えられることもなかったので、身近な山や川や池や田んぼの中で遊ぶ方法を子どもたち自身が探し出して、楽しんでいました。」