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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅴ -愛南町-(平成25年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 柑橘産地の形成

(1)漁業から柑橘栽培へ

 ア 果樹農業への転換

 『愛媛県史』には、昭和35年(1960年)ころの平山地区について、「柑橘類の栽培は温州みかん約1ha・夏柑約10haを十数戸の農家がぽつぽつ試作し始めた程度で、みかん産地にはほど遠い半農半漁の集落であった。」と記述されている(①)。昭和29年(1954年)発行の地形図には、水田のほか針葉樹林、広葉樹林の記号が多く見られる。
 昭和30年ころ、平山地区では海苔(のり)養殖と真珠母貝養殖に取り組む人が多かった。『御荘町史』やAさんの話によれば、昭和27年(1952年)から片(かた)の浜(はま)と長洲口(ながすぐち)を漁場として本格的にアオサ海苔の養殖に着手しており、昭和30年(1955年)ころからは真珠稚貝養殖が本格的に始まった。そのような中で、漁業経営の不安定さを痛感したAさんは、果樹農業への転換を模索していた。
 Aさんは、次のように話す。
 「私は、復員後、家業の漁業に従事していましたが成功しませんでした。その失敗による苦い経験から、当時盛んであった真珠養殖の将来性に疑問をもち、不安定な漁業より、大地に根を下ろした果樹農業への転換を考えていました。」

 イ 甘夏柑栽培へ

 「昭和35年(1960年)11月に、学校の恩師から、『大分県津久見(つくみ)市の試験場を見に行かないか。』と誘われました。同年の11月に、当時自分が所属していた漁業組合の専務を含め3人で、津久見柑橘試験場に赴(おもむ)き、甘夏柑栽培について話を聞きました。その時、試験場長から、10年前から甘夏柑栽培を始めた熊本県芦北(あしきた)郡の田浦(たうら)農協の組合長を紹介されました。早速、その組合長さんに会いに行って話を聞き、平山地区に甘夏柑栽培を導入することを決心しました。」
 同年12月19日に、Aさんらは「平山柑きつ組合」を結成し、翌年、甘夏柑の苗木285本を大分県津久見市より導入し、栽培を始めた。その後は、福岡県の苗木店から購入した。昭和37年(1962年)、果樹農業振興特別措置法を活用して園地造成に着手し、55haを開墾して甘夏柑の苗を植えていった。
 「祖父母の時代には畑でイモ(甘藷(かんしょ))や麦を作っていたのを甘夏柑に代えました。開墾をする時、平山の土壌には果樹栽培に一番大事なリン酸がないので、土壌改良のためにリン酸を入れました。ツボ(穴)を掘って苗を植えるときにもリン酸、苦土石灰(くどせっかい)と鶏糞(けいふん)を入れました。昭和38年(1963年)からの3年間、農業構造改善事業が実施されましたので、その間に土壌改良をしながら開墾しました。
 柑橘栽培を始めた昭和35年当時、南郡(なんぐん)(南宇和郡)は真珠養殖による好景気の真っただ中でしたので、地区を巻き込んでの事業を失敗させるわけにいかず、成功のためには高値で取引される品物にする必要がありました。そのため、柑橘の質を揃(そろ)えるために、2月を過ぎたころ、栽培農家の皆で組合員の甘夏柑の木1本1本を見に行き、実を取って食べて酸が強くなければ、組合が独自に作った合格証の札を木ごとに括(くく)りつけました。1本の木に一度の食味で、その木の品質は分かります。おいしくない実をつけた木は、その場で切り除きました。組合員の集会の場で、『平山のバス停留所の近くで売っているチョコレートやキャラメルは、同じ物が東京でも売られている。甘夏柑も、どれを食べても酸っぱい商品がないように、同じ味の商品を作らないと、仲買人や消費者から信用を得ることはできない。』と何度も話しました。」
 味の悪い品の出荷を避けるために食味検査を行い、合格した木は登録証とともに台帳に登録された。食味検査のために6班の検査班が編成され、毎年2月に、初めて果実をつけた木(3年目の木)に対して検査が行われた。不合格となり切り除かれた後は、果樹園の持ち主が後で補植するが、そのための金銭的補償はなかった。
 昭和40年(1965年)、平山から東京の神田(かんだ)市場に70tの甘夏柑が初めて出荷された。

(2)他品種の栽培

 昭和43年(1968年)に温州ミカン、翌年には夏柑の市場価格が暴落し、愛媛県では、夏柑から他の品種への更新が行われるようになった。供給過剰に伴う価格暴落による所得の減少を予測して、マルエム青果(マルエム青果農業協同組合)では、甘夏柑以外にも美生柑(みしょうかん)などの導入に積極的に取り組んだ。

 ア 美生柑の栽培

 美生柑とは、平山のマルエム青果が出荷する河内(かわち)晩柑(熊本市西区河内町で発見された収穫時期の遅い品種の柑橘)のことである。Aさんに話を聞いた。
 「東印東京青果株式会社(現在の東京青果株式会社で青果物卸売の会社)の人から、『熊本県の河内に原木がある河内晩柑がおいしい。あれを生産してはどうか。』と勧められました。河内の船津(ふなつ)へ行き、船大工の方の家の裏にあった河内晩柑を15kgのダンボール入りで4箱購入しました。2箱を愛媛、1箱を林フルーツ、1箱を東京果物商業協同組合へそれぞれ送りました。
 東京果物商業協同組合理事長でもあった林フルーツの社長からは、『これはいける(売れる)。産地をつくれ。』との言葉をもらい、『美生柑』と名付けてくれました。また別の小売店の店主からは、『ミカン1、2品種だけではだめだ。組合員が少なくても5、6品種作らなくてはだめだ。よい商品を作って、特徴を出していったら必ず売れる。我々もそういう商品が欲しい。』と言われました。また、田浦(たうら)(熊本県)の甘夏柑の販売力は強力でしたので、何か別の商品をと考えていたので、河内晩柑を導入しました。」
 昭和47年(1972年)ごろに平山地区に河内晩柑が導入され、昭和51年(1976年)から東京に出荷された。

 イ 新たな農作物の模索

 Bさんは、家業の小網をしていたが、その後、Aさんに誘われて甘夏柑の栽培を始めた。Bさんは、次のように話す。
 「私は、甘夏柑の栽培もしながら、柑橘以外の作物も作ってきました。まず、ソラマメを30年前(昭和50年代終わりから60年代)に栽培していました。他所(よそ)の産地と出荷時期が重ならなかったので、特に稲作栽培をしていた人には、稲作の合間に作ることができるよい作物でした。組合で利用していた運送会社のトラックで東京に出荷すると、表面が焼けて真っ黒になっており、最初の出荷は失敗でした。先進地の農協に相談すると、『おたくにある低温倉庫で予冷していますか。』と言われ、予冷の方法を教えてもらいました。
 続いて、25年前(平成に初めころ)にはイチゴを栽培しました。千疋(せんびき)屋(東京に本店のある果物販売店)に行った時に、高値で販売されているイチゴを見て、栽培を始めたのがきっかけです。出荷は、松山から東京までのフライト便でした。荷物が多くあるときはいいのですが、少ないときには運賃が掛かり過ぎるので、松山のデパートと交渉して、販売したこともありました。
 キヌサヤ(サヤエンドウのこと。エンドウの未熟な莢(さや)を食用する場合の呼び方。)は、25年から22年ぐらい前(平成の初めころ)に栽培しました。昭和40年代から色々な作物の栽培をしましたが、結局、今は柑橘だけを栽培しています。
 一方、マルエム青果では、昭和50年(1975年)からキウイフルーツの試験栽培を開始しました。今は、甘夏柑1,000t、河内晩柑がよいときで1,200tの収穫があります。平成に入って、薩州(さっしゅう)ポンカンやデコポン、レモンの栽培も始まりました。」