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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅴ -愛南町-(平成25年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 郡内の航路

(1)御荘湾と内海を結ぶ航路

 ア 巡航船の記憶

 南宇和郡では、郡内の沿岸の集落をつなぐ定期船を「巡航船(じゅんこうせん)」と呼んでいた。昭和16年(1941年)の巡航船航路は、御荘湾-内海地域(旧内海村)、御荘湾内(中浦)、深浦-久良(ひさよし)、深浦-西海地域(旧西外海村)の四つがあった。
 戦後も20年近く巡航船が就航しており、昭和26年(1951年)の定期航路表には長崎(御荘)-魚神山(ながみやま)航路(第五中浦丸)、長崎(御荘)-中浦航路(第三・第五中浦丸)、深浦-麦ヶ浦(むぎがうら)航路(福久丸)の三つが記載されている(図表3-2-6参照)。このうち中浦への航路は、県道が整備された昭和27年(1952年)にバス運行が始まったため廃止になった。残りの2航路は、昭和30年代の終わりまでにそれぞれ廃止された。
 御荘湾を行き交っていた巡航船について、中浦で育ったDさん(昭和12年生まれ)は次のように話す。
 「私の祖父は長崎(愛南町御荘平城)出身で、長崎に親戚がいましたので、祖母が、子どもの私を連れて巡航船で長崎にたびたび行きました。長崎には、港から平城の町の方へ続く道沿いに商店街がありました。そこで下駄(げた)を買ってもらったことを憶(おぼ)えています。昭和30年(1955年)ごろでも、港の西側には家が少なかったように思います。
 本当は『じゅんこうせん』と言うのでしょうが、中浦の人は皆『じゅんこせん』と呼んでいました。『じゅんこせんが出るぞ、はよ浜に降りんかー。』と言っていました。巡航船は出港するとき、プップーと汽笛を鳴らすので、『待ってやー。』と走って行き、船に飛び乗ることもありました。朝と晩と2回くらい便があったと思います。自転車や荷物も積んでいました。」

 イ 中浦航路の巡航船

 また、巡航船の乗組員(機関長)であったEさん(昭和4年生まれ)は、次のように話す。
 「内海へは、船が2杯(はい)(隻)おりました。毎日家串(いえくし)まで行く船と、中浦まで行く船で、どちらも中浦丸でした。私が乗組員になる前、中浦丸は、ハナガシワ(柏崎(かしわざき)の海)でいっぺん(1度)しもって(沈没)しまいました。当時は、客を運ぶより荷物を運ぶ方が儲(もう)けがよかったようで、中浦丸は家串で麦を積み、客は乗っていなかったそうです。沈んだ船は、ワイヤーで編んだ網で引き揚げられ、造船所で直された後、昭和23年(1948年)に私が就職して乗り組みました。
 長崎から中浦までは、1日2往復していました(図表3-2-6参照)。船の運賃は長崎-中浦間で25円だったと思います。港ごとに問屋(といや)が切符を売っていましたので、切符を買ってから乗船します。荷物は、送り状を書いて問屋に渡します。赤水(あかみず)と長崎、中浦に問屋がありましたが、尻貝(しりがい)(鍬谷(しりがい))や猿越(さるごし)、高畑(たかはた)には問屋(船問屋)がなかったので、『船内切符』といって、船の中でも切符を売っていました。桟橋はほとんどなく、陸(おか)に直接着けていました。
 中浦では、映画館の裏にあった問屋場の前の空き地に横着けしていました。そこには、宇和島運輸の由良丸も着いていました(図表1-2-3参照)。あゆみ(船と岸壁とをつなぐ細長い板)を岸から船に架けて、船に荷物を運び込んでいました。問屋の建物は、切符を売ったり荷物を保管したりするくらいの小さなもので、待合所などはありませんでした。
 尻貝では、セイゾバ(魚類製造場)に着けていました。セイゾバには、魚を運ぶために船を着ける所がありました。猿越は砂浜でしたから、沖合の巡航船まで、テンマ(伝馬船)で客を運んで乗せていました。高畑は、横着けできる場所がなかったので、舳先(へさき)から真っすぐに着けて、そこから乗り降りをしてもらいました。赤水には岸壁がありました。平山の人は皆、自分の押し船(ぶね)(手漕(てこ)ぎ船)で長崎へ行っていましたので、平山へは着けていませんでした。
 南高(なんこう)(愛媛県立南宇和高等学校)に通学するために毎日乗船していた学生は、中浦から船に乗り長崎で降りて、そこから歩いて高校へ通っていました。当時は、御荘の病院に通うために船に乗る人はほとんどおらず、死ぬ間際に初めて病院へ行くのが普通でした。
 船の乗客が多かったのは、盆や正月のほかには、1月、3月、7月、10月にあったお大師さん(御荘平城の観自在寺(かんじざいじ)〔四国八十八か所40番札所〕の縁日)でした。船は、両サイドに7人ずつ、中へ20人余りが乗れたので、40人ほどの人を一度に運ぶことができましたが、船一杯に客が乗っていました。戻りには、満員の40人に加えてお土産を一杯積んでいました。
 エンジンが故障して、時間通りに運航しないこともよくありました。私が乗っている時、中浦を出て猿越の沖まで行った時、『あら、エンジンの音が妙だねえ。』と言ったら、機関(船の動力装置)が熱くなっていましたので、『こりゃいけん、焼けよる。』と言って機関を止めました。そして、機関を開けてみると、ぶわっと熱い煙が噴き出しました。ピストンとシリンダーの間にあって空気が抜けないようにする、ホワイトという部品が溶けてしまっていました。どうにもならないので、近くを航行していた船に中浦の事務所に知らせてくれるように頼んで、中浦から漁船を雇って救助に来てもらって曳航(えいこう)したことがありました。お客さんには迷惑をかけました。」

 ウ 魚神山航路の巡航船

 「家串(いえくし)へは昭和20年(1945年)ころまで、中浦丸とともに、市杵島丸(いちきしままる)という船が運航されていました。中浦のキシヤ(屋号)が船を出していました。毎日、長崎から、柏(かしわ)、平碆(ひらばえ)、家串などへ着けていました。魚神山(ながみやま)へは、週に3回くらい行きよりました(図表3-2-6参照)。港に入る前に汽笛を鳴らして、船が来た合図をします。そうすると港に人々が集まってきて、船に乗ったり荷物を受け取ったりしました。
 長崎港では、巡航船は突出(つきだ)し(海の中に突き出した石の船着き場)に着けていました。そこは炭屋の裏手で、昔、小舟に炭を積んで運搬船に運んでいたのでしょう。古くは貝塚港でしょうが、私たちのころは長崎港と呼んでいました。長崎には、宇和島から宿毛まで行く天長丸も寄港していました。天長丸は着岸できなかったので、ダンベと言っていた、別の平たい船で客を天長丸へ運んでいました。
 柏でも、突出しに着けていました。柏崎には、3間(約5.4m)に5間(約9m)ぐらいの大きさの突出しがあって、そこに船を着けていました。平碆は、大きなセイゾバがあったので、そこに船を着けていました。家串までは毎日行っていましたが、家串では、大きな石を組んで造った岸壁に着けていました。
 油袋(ゆたい)では、セイゾバに着けていました。そのセイゾバの人が問屋もしていました。魚神山は設備が悪く、ちょっと波が立ったら船を着けるのが心配で、安心して停(と)まれる所がありませんでした。魚神山へ行くときは網代(あじろ)へも寄りました。網代では、大きな建物(魚類製造家屋)の近くに着けるのですが、突出しがないので、浜にある大きな石へ船を寄せて、石の上に飛び降りて上陸していました。
 運賃は、長崎から中浦までは25円、柏までは30円、家串と平碆までは40円だったように思います。乗組員は、船長、機関士、そして船内切符を切る人の3人でした。船にはトイレがありました。荷物は、煙草(たばこ)や小麦など、配給ものを運んでいました。積み荷にイモ(甘藷(かんしょ))は載せていませんでした。段畑は麦とイモを作っていましたが、切干(きりぼし)(イモを薄く切って日に干したもの)などは農協が雇った大きな運搬船で運んでいたので、巡航船では運びませんでした。牛も運んだ記憶がありません。
 客は、行商の人がよく乗っていました。中でも、魚神山の方からヒジキを売りに来る人がよく乗っていました。ツルジョウケ(竹で編んだ吊つりかご)や丸い手籠(てかご)、箕(み)などを売る人がいました。呉服屋もいました。結婚のときは、花嫁衣装の嫁さんらの一行が船に乗り込み、そのときに家具を運んでいました。『だましばくち』の人も乗っていました。船の中で、煙草の箱を使って、乗り合わせた人にお金を張らせて(賭(か)けさせて)、『残念。』と言って総取りするのです。切符を買っているので、乗せないわけにはいきませんでした。
 また、学校の行事などで、内海から御荘に子どもたちが行くことになり、特別に要請があったときにも運航していました。朝早くに家串を出て、魚神山へ着けて、長崎へ向かっていました。
 航行の危ない場所は、銚子(ちょうし)の口(くち)(御荘湾の湾口)とハナガシワ(柏崎の海)でした。特に、冬の風の強い時期が危険でした。銚子の口は急に狭くなっていて波が立つし、ハナガシワは潮が巻(ま)い(渦を巻く)ます。悪天候のときは大変で、御荘湾内ならともかく、湾の外で故障すると、陸(おか)に流されたり座礁したりする危険がありました。そういうときに船酔いする人も多く、酔った人は、デッキの鉄棒にすがりながら海に向かって吐いていました。
 昭和32年(1957年)ころ、中浦では、漁労長の月給が2万円くらい、船長や無線技士が1万5千円くらいで、巡航船の機関長の給料は1万2千円くらいでした。毎月支払ってもらうのではなく、生活費を毎月前借りして、年末とお盆の2回勘定でした。船には朝7時ころ乗り込み、焼玉エンジンをバーナーで温かくして、中浦を朝8時に出ます。船で寝起きすることも度々でした。船に寝袋のようなものを積んでいました。海水の温度もあって、船の客室は割と暖かいのです。昔は、仕事は時間制でなく、とにかく1日中船に乗っていました。
 昭和30年代の半ばころ、航路が廃止になり、私は巡航船の乗組員をやめて、生ボートの仕事に変わりました。生ボートは、『生船(なません)』ともいい、イリコを運んでいたように思います。カンコ(魚を積む所)だけの船でした。カンコにはガンブリ(船倉の蓋(ふた))がありました。生ボートとは言うものの、魚を生かして運んではいなかったように思います。」

(2)外海の航路

 江戸時代、南宇和郡南部の沿岸には、外海(そとうみ)浦のみがあって、慶安元年(1648年)の史料では、外海浦に沖ノ島(おきのしま)なども含めている。「外海」の名は、南宇和郡西部の「内海(うちうみ)」に対するものであろう。明治7年(1874年)に、沖ノ島・鵜来島(うぐるじま)・姫島(ひめしま)が愛媛県から高知県に移管されたことが、その後の漁業問題の発端となった。外海浦は、明治14年(1881年)4月に東外海浦と西外海浦とに分割され、明治22年(1889年)の町村制施行に際して東外海村と西外海村になった。昭和27年(1952年)、両村はそれぞれ東外海町と西海町になり、さらに昭和31年(1956年)、東外海町が城辺町と合併した。
 外海浦の中心は、庄屋所が置かれた深浦であった。深浦は、山地が海に迫っており、海岸からすぐ水深が深くなっていることから良港として栄え、江戸時代には船番所が置かれていた。明治になって郡外からの汽船が発着したのも、南宇和郡では深浦が最初で、南宇和郡の海の玄関口であった。
 巡航船の航路は、汽船の寄港地である深浦港を起点として、西へ延びていた。昭和16年(1941年)には、深浦-久良地区(眞浦・新浦)、深浦-西海地域(船越から福浦まで)の2航路があった。戦後も、深浦から西海地域への航路は、昭和39年(1964年)まで存続した(図表3-2-7参照)。

 ア 深浦のにぎわい

 巡航船や県外航路の汽船が発着した深浦のにぎわいについて、深浦に住むAさん(大正11年生まれ)と、旧城辺町内に住んでいたBさん(昭和4年生まれ)は、次のように話す。
 「南郡(なんぐん)(南宇和郡)の外海沿岸航路の船便を、巡航船とか内航船と呼んでいました。私(Aさん)は子どものころ、祖母に連れられて巡航船に乗り、福浦の親戚へ行ったことを憶えています。久良(ひさよし)から船越(ふなこし)、樽見(たるみ)と寄港していました。福浦には突堤があり、そこに着けていました。道路を通ってではなく、皆船便で行っていました。巡航船は小さい木造船でした。深浦や福浦、船越など南郡中に造船所が10社以上あり、船大工もたくさんいましたので、地元で造った船だったでしょう。
 『お大師さん』と言って、年4回ある御荘平城の観自在寺の縁日には、外海の人々は船で深浦に来て、深浦から平城まで客馬車に乗ったり、歩いたりして行っていました。
 昭和30年代まで、城辺の商店街の物資は全部、深浦港から揚げられていました。砂糖やセメント、釘(くぎ)なども樽(たる)で運んでいました。揚がった荷物は、荷馬車で城辺まで運ばれました。反対に、城辺の小西酒造の酒を荷馬車で積んで深浦まで来て、だんべに載せて船に運び込み、神戸まで送られて『灘の酒』になっていました。南郡で造られた酒が『灘』のブランドで売られていました。南郡の物資と旅客の出入りは深浦が中心で、荷物や貨物が多く運ばれ、人々が行き交っていました。
 深浦と城辺の間は、人力車と客馬車がよく使われていました。人力車に客が乗るときは、『ボウ引き』と言って、車夫がくじ引きをして、当った車夫が運んで行きました。人力車は、車夫の人間に加えて、犬にも引っ張らせていました。大きい犬を慣らして、坂道を上がるときは前で引っ張り、坂道を下るときは後ろで突っ張っていました。戦後もしばらくは、人力車を引く犬を見ました。
 人力車は風に弱く、客が乗っていないときに風が吹くとすぐひっくり返っていました。田んぼに落ちた人力車を起こすのを手伝ったことがあります。昭和30年代になって、二輪車が出始めてからは、人力車ではなくスクーターに乗るようになりました。
 僧都(そうず)(僧都川上流の集落)では朝、炭などを荷馬車に積んで深浦へ運んでいました。そして帰りは『揚げ荷』といって、船から降ろした荷物を運んで、それが収入になっていました。馬の餌(えさ)は、ドンゴロス(麻袋)にイモなどを詰めて持って行きました。荷馬車運びの仕事は、樽であれば1樽20貫(約75kg)もありましたので、力がないと務まりませんでした。頼まれたら、樽が三つなら三つ、五つなら五つ、頼まれた全部を一度に運びます。
 荷馬車については話があって、深浦から城辺へ行った荷馬車の人(運送業者)が、城辺の小西町(こにしまち)で酒を飲んで酔っ払ってしまい、深浦へ戻るまでずっと寝ていたのですが、馬が家まで連れて帰ったと聞いたことがあります。中には、帰り着いてもそのまま酔って寝ているので、馬はクツワを外してもらえないで、朝までそのままじっとしていたという話もあります。
 昭和30年代には三輪自動車がありましたが、それよりも馬車の方が馬力があったので、馬車に荷を載せて運んでいました。三輪自動車で運べる3倍ぐらいの重さを運んでいたように思います。」

 イ 久良での往来

 久良(ひさよし)にも戦前、巡航船が寄港していた。久良に住むFさん(大正15年生まれ)、Gさん(昭和4年生まれ)、Hさん(昭和22年生まれ)、Iさん(昭和24年生まれ)、Jさん(昭和26年生まれ)、Kさん(昭和32年生まれ)、Lさん(昭和50年生まれ)らから話を聞いた。
 「昭和8年(1933年)ころ、久良から深浦を回る定期船のことを巡航船と言っていました。20人乗りぐらいの三浦丸という船で、網代(あじろ)(久良の小字地名、新浦(しんうら)の一部)の三浦杉松さんが経営していました。昭和10年代も巡航船は、網代から眞浦(まうら)(久良の地名)に寄って深浦に行っていましたが、時には日土(ひづち)に着けることもありました。深浦からは、天長丸と宇和島丸が宇和島との間を往復していたので、宇和島へ行く用事があると、久良から深浦まで三浦丸に乗って、乗り継いで行っていました。
 眞浦には桟橋がなく、浜に真っすぐに着けていました。『今日は巡航船が出るぞ。』と聞いたら、朝7時半なら7時半に浜に出ていなかったら、船が出港してしまいます。ここで時間待ちなどはしませんでした。
 戦前、久良から深浦へは、大体は船で行って、山道を通っては行きませんでした。自分の家の伝馬船(てんません)で櫓漕(ろこ)ぎでした。私(Gさん)は、10代の終わりころに一丁櫓(いっちょうろ)で久良から深浦まで漕いで行きました。私(Fさん)は、15歳の時、日土で船を借りて、当木(あてぎ)島(當木島)まで行ったことがあります。
 久良では、お金で買い物をするより物々交換をする方法が普通でした。終戦後から昭和30年代まで物を売りに来る商売船が来ていました。切干(きりぼし)(イモを薄く切って日に干したもの)を出して、麦や米、そのほかの物と交換していました。裏山の段畑で麦やイモを作りましたが、麦は食べるので交換せず、イモや切干を交換に出しました。昭和30年代の中ごろまでは、イワシのシオキ(干物)とイモを食べるのが普通の食事でした。ツメ飯(2、3割の米または麦の上に、7、8割切干を入れて炊く)は甘くてうまいです。段畑や海に働きに出たときは、ツメ飯とイワシのシオキを持って行って食べました。私(Iさん)が小学校3年生ころまでは、朝はいつもイモ粥(がゆ)でしたが、小学校の高学年になったら米飯になりました。カツオ船に乗って久良から土佐清水に行ったときも、切干と物々交換するのを楽しみにしていました。
 久良は、陸(おか)の付き合いよりも海の付き合い(内陸部より沿岸部の交流)が主で、広がりがありました。戦後になっても沖ノ島(高知県)と交流がありました。」
 戦後、南宇和郡と宇和島や宿毛など郡外とを結んだ航路や、南宇和郡の内海と外海の集落を行き来した巡航船の航路は、人々の生活の足として大いに利用された。しかし、それらの航路は陸上交通の発達とともに姿を消し、浦々の中心部の海岸にあった船着き場の多くも、今は埋め立てられたり撤去されたりしてその痕跡(こんせき)をとどめておらず、人々の記憶からも忘れ去られようとしている。


<参考引用文献>
①明治41年12月5日付け愛媛新報
②昭和3年7月12日付け海南新聞、昭和15年12月1日付け海南新聞
③『西海町誌』に「昭和43年6月はるかぜ丸廃航」とある。
④村上節太郎『愛媛県新誌』日本書院 1953初版、1959改訂版

図表3-2-6 内海地域の巡航船航路(昭和26年)

図表3-2-6 内海地域の巡航船航路(昭和26年)

『四国海運大鑑1951年度』及び聞き取りから作成。

図表3-2-7 外海地域の巡航船航路

図表3-2-7 外海地域の巡航船航路

『昭和33年旅客航路事業現況表』及び聞き取りから作成。