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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅵ -上島町-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 佐島の回漕店

 佐島での回漕店の仕事やくらしについて、Aさん(昭和15年生まれ)から話を聞いた。

(1)家族で働く

 「私は、昭和34年(1959年)に嫁いできてから、主人と主人の義父と一緒に、酒や煙草(たばこ)をはじめ、米や食料品、文具、日用品などを販売する雑貨店と回漕店を経営してきました。同じ家に主人の叔父も同居していて、艀(はしけ)(波止場と本船との間を往復して貨物や旅客などを運ぶ小舟)を出すことや新聞配達などをして回漕店を手伝ってくれました。昭和50年代の初めころからは、縫製工場も経営していて、それらすべての商売を、大体は主人と私とでしましたが、途中からは、息子のお嫁さんが、育児の合間に、縫製工場で原料の布を仕分けしたり管理したりする仕事を手伝ってくれました。
 縫製工場では、常時25人位の人を雇っていて、工場を閉めるまでの約30年間に、延べ150人ほどの人たちに働いてもらいました。福山(ふくやま)(広島県福山市)にあった衣服製造業の会社の仕事を請け負って、初めのころは、主にジャンパー(袖口や裾が締まっている、作業や運動用の上着)などを縫っていたのですが、襟付が難しくて手間もかかったので、やがて、スラックス(ズボン)を縫う仕事に替えました。
 雑貨店や回漕店、縫製工場を経営しながら、少しの間でしたが艀(を出すこと)をして、しかも、その間に主人は、イモ(甘藷(かんしょ))やミカン、キヌサヤなどの農産物を農家から買って、それを青果市場や大きな青果問屋に納める仕事もしていました。もちろん私も同じように働いたのですが、お嫁さんにも、縫製工場での仕事だけでなく、作った製品を福山の会社まで納めに行くのを手伝ってもらったりしていました。今思えば、家族みんなでよく働きました。その後、私が平成16年(2004年)に病気で倒れて以降、平成20年(2008年)には、それまでしていた商売を全てやめました。」

(2)島の雑貨店

 「店に来るお客さんによく買ってもらったのは、お酒でした。お酒は姑(しゅうとめ)の代から扱っていて、酒造会社から仕入れて売っていました。昔の人はよくお酒を飲んでいて、ビールなどは、一軒の家で、本単位ではなくケース単位で、しかも何ケースも買ってくれていました。特に、年末年始はよく売れて、主人が軽トラックで一日中配達していました。店が一番忙しかったのは、日立造船(日立造船因島工場、本報告書の第1章第3節参照)の景気が良かった、昭和40年代ころです。日立造船に通勤する人たちが、店でよく買物をしてくれていましたし、お酒もたくさん売れていました。
 お酒を配達する軽トラックを購入する前は、運転席後ろの荷台部分が深くなった、『三輪車』と呼ばれる車で農産物などを運んでいました。三輪車を購入したのは昭和40年(1965年)ころで、それが佐島で最初に走った自動車でした。うちでは、主に、雑貨店や回漕店をしながら、農産物を生産者の方から買い集めて船継ぎをして売る、という商売も続けました。ミカンなどの柑橘類をはじめ、キヌサヤやエンドウ、除虫菊など、農産物は大体すべて扱いました。結婚後の、昭和35年(1960年)から昭和40年(1965年)ころにかけては、ミカン栽培が増えた時期なので、特に忙しかったこと憶えています。ミカンが多くなって軽トラックでは運びきれなくなり、新たに1.5t積みのトラックを購入して、買い取りの際に細い道を通るときは軽トラックを、大きな道を通るときには大きなトラックを、それぞれ使い分けました。毎朝6時過ぎくらいから集めて、それを朝のうちに船で運ぶのですが、短い時間で、400個から500個くらいのキャリー箱の引き取り作業を、大抵は主人と二人でしていましたので、朝から大忙しでした。
 しかし、店などの商売も、日立造船が不景気になった昭和60年(1985年)初めころから売り上げが落ち始めました。そして、平成8年(1996年)に弓削大橋ができると、次第に、佐島から弓削島へ車で買い物に出る入が多くなって、商品の売れ行きがさらに悪くなってしまいました。」

(3)艀で人を運ぶ

 ア 15日間の艀の仕事

 「現在、佐島の元の農協(旧JA越智今治佐島出張所)前はコンクリート護岸となっていますが、昭和35年(1960年)ころは砂浜でした。当時は、その沖合に、定期船として、因島汽船(株式会社)の『土生(はぶ)丸』(尾道(おのみち)〔広島県〕-今治航路)や土生商船(株式会社)の『観音(かんのん)丸』(宮窪(みやくぼ)-三原(みはら)〔広島県〕航路)、愛媛汽船(株式会社)の『愛媛丸』や『うきしろ』(いずれも今治-尾道航路)といった客船が停泊します。それらの船の舳先(へさき)(船首)ではなくて艫(とも)(船尾)のほうへ艀を着けて、艀から客船へ『歩み』(人が歩くために船から船へ渡す板)を掛けると、お客さんはそれを伝って、艀から客船へ、客船から艀へと、それぞれ乗り移っていました。
 その艀を出す役目をしていたのは、主人の叔父と別のもう一人で、二人が半月交代で艀を出していました。叔父の担当は月の前半だったと思うのですが、昭和35年のある月の15日間だけ、叔父に代わって私が艀を出しました。どのような理由だったかは憶えていませんが、何らかの事情で叔父が急に出来なくなり、家族の中の誰かが代わりを務めなくてはならず、主人は農産物を扱う商売で忙しかったので、私が引き受けざるを得なかったのだと思います。
 艀は、長さが3間(尺貫法における長さの単位で、1間は約1.8m)以上あって割合と大きく、20人くらいまでは十分に乗れました。浜から本船(定期船)までの、艀を走らせる距離は、大体70m以上はあったように思います。艀の上では、座っている人もいましたが、立っている人の方が多かったです。私が代理で艀を出した時期は、それほど暑くはなくて、しかも海が穏やかだった記憶があるので春ごろだったかもしれません。佐島は風がよく当たり、海が時化(しけ)ることがあって、今でも、時化のために定期船を港に接岸することが難しいときは、抜港(ばっこう)(予定していた港へ寄るのを取りやめること)して次の港へ行ってしまうことがありますが、私が艀を出していた間は、そのようなことはありませんでした。私は少し勝気な方で、いつも走っているような活発な子どもだったので、小舟の櫓(ろ)を漕いで海でよく遊んでいましたが、遊びで舟を出すのとはわけが違い、お客さんを乗せて安全に送り迎えをする艀の仕事は、わずかな間だったとはいえ、本当に大変でした。今でも、『あれは、ようほんまにやったなあ。』と、不思議に思うのと同時に、自分の勇気と行動力に我ながら感心することがあります。」

 イ 艀を出す

 「弓削へ行くのは、佐島の三ツ小島(みつこじま)から『渡し』(渡船)が出ていたので、それに乗れば行けましたが、尾道方面や今治方面へ行くには、佐島港に寄港する定期船に乗らなくてはならず、どうしても、艀を使って本船(定期船)へ乗り移る必要がありました。ですから、艀に何人のお客が乗るかは日によって違いますが、少なくても1回に5、6人は乗られます。そして、定期船は、尾道行きと今治行きがあったので、1日に5、6回は艀を出していました。艀の仕事は一人で行うので、初めての日は、『どうしようか。』と思いながら、相当に不安な気持ちでしたし、沖で待っている本船(定期船)の艫へ、艀の舷側(げんがわ)(船の側面)をうまく寄せるのにかなり苦労しました。本船の船長さんも、私が新米だと思って気を利かしてくれて、艀を漕ぐ距離ができるだけ短くなるように、いつもより岸に近いところに停泊してくれました。
 最初のうちは、なかなかうまく接船できず、何遍もやり直しました。接船できると、両船に梯子(はしご)のような板を渡すのではなく、お客さんには、艀の舳先(へさき)部分の少し広くなった所から、本船と艀との行き来をしてもらいました。そのときには、本船の船員二人が手伝ってくれました。一人が艀に乗り移り、本船に残ったもう一人と綱を引き合って艀が離れないようにしながら、乗り移るお客さんの手を引いてくれました。
 艀から本船に乗るお客さんがいても、本船から艀へ降りる人がいないときもあります、逆の場合もあります。どちらにしてもお互いに合図を送りました。本船から、『プッ、プー』と音が2回すれば、本船から降りる人がいる、という合図で、『プー』と1回の音のときは、降りる人がいない、という合図でした。その、1回の音の場合で、艀の方にもお客さんがいなければ、私の方はタオルを振りました。
 艀を佐島の岸壁に着けるときは、大潮であれば高い方の岸壁に寄せ、小潮のときは舟が傾かないように気を付けながら岸壁の際まで近付けました。着岸作業は大変でしたが、段々と慣れて、最後の方はスムーズに着けられるようになり、15日間で終わるのは惜しいな、と思ったりもしました。
 しかし、その艀も、私が手伝った1、2年後くらいにはなくなりました。私のうちの前の海岸に突堤ができて、そこの岸壁に客船が直接着くようになったからです。その後、叔父は、艀を出すこと以外の、回漕店の仕事を続けましたが、昭和50年(1975年)に亡くなり、それからは、私が回漕店の仕事を引き継ぎ、20年間くらい続けました。」

(4)佐島の海上交通を支える

 ア 回漕店の仕事

 「昭和50年代から平成の初めころにかけて、佐島港に着けていたフェリーは、愛媛汽船や因島汽船、芸予(げいよ)汽船(旧芸予観光フェリー株式会社)、土生商船などが経営していて、私は、それらの船会社からの仕事を請け負う形で、回漕店を切り盛りしました。回漕店の仕事を、午前中は私がしていたのですが、お店や縫製工場での用事もあり、午後は人を雇って仕事をしてもらっていましたので、回漕店としての儲(もう)けはほとんどありませんでした。仕事としては、『配達賃』をもらって、荷送りと荷受け、それぞれの手続きや中継ぎをしたり、乗客に乗船切符を売ったり、自動車運賃が車の長さによって違っていたのでそれを確かめたりするなど、いろいろな業務がありました。それを、今のように立派な待合所ではなく、船を待つ乗客用の椅子が置かれただけの小屋でしていました。私が回漕店をしていたころは、乗船切符を売ればその1割が手数料として収入になるくらいでしたので、それほどの儲けにはなりませんでした。
 佐島から船を利用するお客さんの多くは、船の出発時刻の間際に来られますが、私は、出発時刻の7、8分前には、自転車の前かごに切符と運賃入れ用の缶を入れて、船着き場へ行っていました。待っているお客さんには切符を売れるのですが、ぎりぎりの時間に走って来られたお客さんには、切符を売る時間がないので、『船の中で買って。』と頼みました。預かった荷物は、私が送り状を添えて船員に渡しました。当時の定期船の便数は、上り(佐島発)と下り(佐島着)を合わせると1日に6便くらいはあったと思うのですが、今治行きの定期船の場合は、佐島への一番目の寄港時刻が朝の6時50分で、最終寄港時刻が午後9時50分でした。最終便の時間になると、真っ暗がりの寒い中で船を迎えるのですが、佐島から乗る人がいないときは、乗客がいない、という合図として、船に向けて懐中電灯を振っていました。ですから、体調が悪くても、急ぎの用事があっても、船の寄港時刻になると港に出ていなくてはならず、年中無休でした。
 それでも、回漕店をしていれば、島を離れた人が久しぶりに里帰りをしたときなどに、必ず顔を見ることができるので、『ありゃまあ。あの人まだ若いなあ。』と眺めたり、『わあ、久しいねえ。』などと声を掛けあったりして、いろいろな人に会える楽しみがありました。懐かしい人の元気な姿を見るとやはりうれしかったですし、喜びでもありました。」

 イ 仕事は楽しい

 「仕事が忙しいときは、寝る間もありませんでした。特に、雑貨店と回漕店のほかに縫製工場をしていたころは、夜中の2時ころに寝て、4時には起きて、学校に通う子どものお弁当を作っていました。佐島に人がたくさんいて、島に活気があったころは、私もそのような生活が続きました。
 しかし、私たちの生活を潤してくれていた日立造船が不振になるころには、島の様子や生活も変化して、いろいろな商売が下火になり、その後、私自身が病気で倒れてしまったので、ちょうどよい頃合いだと思って、店をそれぞれ閉めました。20歳代から60歳代にかけては、本当に忙しい毎日でしたが、主人と一緒に働いていましたし、若かったので、それを当たり前のように感じて、仕事が辛いとはそれほど思いませんでした。佐島の人からも、『あんたは、よう働いたなあ。』と言われますが、忙しくても、今考えれば、あんなこともあった、こんなこともあったと、良い経験ができたと思います。やっぱり、仕事は楽しかったでず。」