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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅵ -上島町-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 佐島のくらし

(1)佐島のくらし

 佐島は三ツ小島を挟んで弓削本島の南西にある南北に細長い島で、北に生名島、西に赤穂根島があり、島の大半は標高50m以下で、ほとんど耕地化されている。

 ア 舟作りと伝馬を使う

 「私(Aさん)が生まれた昭和2年(1927年)に亡くなった祖父は、細工納屋といっていた大きな納屋で、昔の漁師が使っていた打瀬船(うたせぶね)を造っていました。弟子が3、4人いたそうです。父親も祖父の弟子として舟を造っていたのですが、当時は佐島からアメリカ合衆国へ仕事を求めて移住する人もいて、私の父もアメリカへ行って大工を20年間していましたので、私白身は父親が舟を造っているところを見たことがありません。父親は時々家に帰っていて、やがて昭和12年(1937年)ころに佐島に戻ってきたときには、自分で使うための小さい舟を一艘だけ造りました。
 戦争の前ころには、佐島には精米や精麦をする所がなかったので、作った麦を粉にするために搗(つ)いてもらうためには、因島の田熊(たくま)の精米所まで持って行く必要がありました。そのため、島の人たちから麦などを預かって、まとめて田熊まで運ぶことを仕事にしていた人もいました。当時は拡声器などがないころなので、その人が、『今日は田熊に行きますぞー。』と、呼びながら家々の間の道を回りながら歩くと、精麦を頼みたい人は、麦などを港の舟まで持って行き、いくらかの手間賃を払って預けていました。船は手押しの伝馬船でしたので、櫓(ろ)を漕(こ)ぎながら因島まで運び、田熊の精米所に持って行ってくれました。当時は、精麦を頼む人も多かったので、その仕事で生活ができていたのだと思います。
 佐島に海岸道路がない時分は、家から畑がかなり離れた所にある人は、農作業するために毎日舟で通っていましたが、私(Aさん)のうちでは畑に農具などを置く小屋があったので、普段は歩いて行き、収穫した作物があるときだけパッパ船を使用していました。手押しの場合は『伝馬』と呼び、機械で動かす場合(焼玉エンジンの船)は『パッパ船』といいました。舟は砂浜に着けて、長い歩み(歩み板)を舟から浜に掛けて、乗り降りをしていました。
 佐島には医院がなく、弓削には1軒ありました。昔は健康保険がなく、重症のとき以外は病院へ行く人はいませんでした。家には富山の置き薬があり、薬売りの人が、荷物を担いで来ていました。弓削に宿を取って、佐島を回っていたのだと思います。私(Aさん)の場合もそうだったのですが、急病になったときに客船の便がない場合は、家の伝馬に乗って連れて行っていました。伝馬が家にない場合は、近所の舟を持っている方にお願いして舟を出してもらう事もありました。病気次第ですが、悪いときには弓削ではなく因島の病院まで行っていました。私(Dさん)の子どもが小さいときに、夜中に熱を出して、隣に住む人に伝馬を出してもらって弓削の病院へ行ったことがあります。真っ暗な中で船を漕いでもらうので、申し訳なかったと思っています。」

 イ お昼の弁当

 「私(Dさん)のうちでは、米を作っていました。朝はイモを食べて、弁当には米の御飯を持って行きます。おイモを朝蒸すときに、おイモの上に、お米が入った鉢やどんぶりを入れて、イモと一緒に蒸しました。そしてできた御飯を弁当箱に詰め、そこに梅干しや漬物を入れていました。だから、わざわざ米だけを炊いてはいませんでした。弁当の中に塩こぶや卵は滅多(めった)に入ることはなかったです。金糸昆布や塩こぶ、卵焼きなどがあったら大御馳走(ごちそう)でした。遠足とか、運動会とかには、ゆで卵が入っていました。遠足のときにリンゴが入っていることもありました。私(Aさん)の家では鶏を飼っていたので、弁当に卵が入っていることもありました。弁当でイモを持って行った記憶はありません。家が店を営んでいる人は、よく弁当のおかずに佃煮を持って来ていました。」

 ウ イモや麦おやつ

 「戦時中は、カンコロ団子といって、干したイモを粉にして作ったものをおやつとして食べていました。真っ黒い団子をおイモの上に乗せて食べていたように思います。ちょっとした甘味のあるおやつでした。
 ヘイクリイモは、屑(くず)イモとして扱う小さなイモを釜で炊(た)いて、柔らかくなったものを、天日(てんぴ)干しして、それが少し固めになると1cmくらいに厚みに包丁で切ります。切り方はイモを縦に切る長切りと、輪切りにする丸切りがありました。大体私(Dさん)は長切りにしていました。焼いて食べると美味(おい)しかったでず。それから豆もおやつでした。なかには裸麦を自分のうちのコウラ(物を煎(い)るために使う土製の用具である〔ほうろく〕のことをさす方言)で煎って、臼で引いて作ったハッタイ粉を、白い包みの中で砂糖と混ぜて、麦藁(わら)をストローの代わりに使って吸い込んで食べていました。時々むせてしまうこともありましたが、昔の麦は煎ると香ばしくておいしかったです。
 昔はイモや麦ばかりを食べていたので、もう食べ飽きて、イモを見るのも気分が悪いという人もいます。ですから、懐かしいという人と、見たくもないという人が、それぞれおられます。」

 エ 自然の食材

 「昔は、普段は粗食でした。だから正月に、米の御飯を炊いたり、鶏を絞めて、鶏肉をすき焼きにしたりすると、いい香りがして、畑から急いで家に戻っていました。
 また、時期ごとに浜へ行って、磯物(いそもの)を採るのが楽しみでした。今は、イギス(浅海の岩礁につく紅藻の一種)やトコロテン草などの海藻がまったく採れなくなりました。それから岩の間に付くツボ(サザエやニナなどの石灰質の殻をもった貝類や磯にみられる巻貝などのこと)も見なくなりました。イシブタ(巻貝の一種)もいません。アワビやナマコもいなくなり、田舎の昔の料理ができなくなりました。」

 オ 生活様式の変化
 
 (ア)松葉を集める

 「薪(まき)とか割り木は、一年に必要な分を冬に作っておきます。山にある木は松ばかりで、落ちた松葉のことを『ソクダ』と言っていました。山から木を切ってくるのは男性がしていました。割り木には黒松の木を切ってきて、大体御飯を炊くのに使っていました。冬になると、女性でも斧(おの)を持って薪割りをしていました。風呂を焚(た)くのに必要な松葉やシダを冬の間に採っておき、乾燥させていました。自分の山を持ってない家は、『山日』という日があり、その日は、村の山の木を切ることは禁止されていましたが、落ち葉だけは採ることが出来たので、ガンジキ(熊手)で寄せ集めてそれを、持って帰っていました。松葉を四角形になるように束ねて、その束を綺麗(きれい)に重ねて、背中が隠れるぐらいのたくさんの松葉をオイコで負って帰っていました。風呂を焚くのにガスを使うようになった昭和40年(1965年)より前までは、そういう姿が見られました。」

 (イ)お風呂と台所の変化

 「昔のお風呂は、『もらい風呂』といって、何軒かの家の人が、井戸とお風呂がある家のお風呂に入らせてもらっていました。もらい風呂の場合は、入るのは終わりの方なので、お湯の上に浮いている垢(あか)をすくいながらお風呂に入っていました。かつては薪を使っていたお風呂も、今ではガスや電気で焚くようになりました。私(Aさん)のうちでは普段風呂をガスで焚きますが、ミカンを作っているので、剪定(せんてい)などで薪(たきぎ)が出ると、それらを焚いてお風呂を沸かすこともしています。
 昔の台所は家の外にあったので、少し風や影があるような所で料理を作らざるをえませんでした。ですから朝起きたら、割り木を細かくして、薪を燃やすための焚きつけを作るのですがなかなか大変でした。お茶を沸かすときは、まず火を焚いて、後でその火を七輪にとってお茶を沸かしていました。その七輪は魚を焼くのにも使っていました。私(Dさん)が33歳の時、電気釜とガスコンロの両方を使うようになりましたが、外で焚きつけを作るなどの家の仕事から解放され、しかも家が煙で燻(くすぶ)らなくなってうれしかったことを憶えています。」


<参考引用文献>
①岩城小学校『岩城村郷土史』 1953
②弓削町『弓削町誌』 1986