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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅶ -東温市-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 牛渕の町並み

 東温(とうおん)市重信(しげのぶ)地域(旧温泉(おんせん)郡重信町)は、市域の西側を占め、東は川内(かわうち)地域(旧温泉郡川内町)及び西条(さいじょう)市(旧周桑(しゅうそう)郡丹原(たんばら)町)、北は今治(いまばり)市(旧越智(おち)郡玉川(たまがわ)町)、南は上浮穴(かみうけな)郡久万高原(くまこうげん)町(旧久万町)、西は松山(まつやま)市に接する。ほぼ中央部を重信川が流れ、同地域の佐川(さこ)川、拝志(はいし)川、内(うち)川などの支流がこれに合流している。この地域が含まれる、横河原(よこがわら)北部の大畑(おばたけ)を扇頂(扇状地頂部)とする重信川扇状地は、松山平野を代表する扇状地である。重信川扇状地の水は扇頂の大畑付近で伏流するため平時は表流水が少なく、扇端部で泉となって湧出している。このような泉(湧水池)は開発の影響もあってかなり減少したが、重信川本流の両岸に沿って点在しており、上(かみ)重信橋付近の柳原(やなぎはら)泉、三ヶ村(さんがむら)泉、上村(うえむら)大橋付近の龍(たつ)(竜)沢(さわ)泉がよく知られている。    
 昭和31年(1956年)に温泉郡の北吉井(きたよしい)村(大字山之内(やまのうち)、樋口(ひのくち)、志津川(しつかわ)、西岡(にしのおか))、南吉井(みなみよしい)村(大字見奈良(みなら)、田窪(たのくぼ)、牛渕(うしぶち)、南野田(みなみのだ)、北野田(きたのだ))、拝志(はいし)村(大字上林(かみはやし)、下林(しもはやし)、上村(うえむら))が合併して重信町となった。重信地域は松山平野東部の農村地域であったが、昭和40年代以降、伊予鉄道横河原線や新旧国道11号沿線を中心に大規模な宅地開発がなされ、松山市のベッドタウン化が進んでいる。昭和48年(1973年)には愛媛大学医学部が開設され、幼稚園から大学までの教育施設が整備されたほか、医療・福祉施設も多く設置されている。また、平成6年(1994年)の四国縦貫自動車道(松山自動車道)開通にともなって、近年は流通、製造業等の企業進出が進んでいる。
 東温市牛渕地区は、江戸時代は浮穴郡牛渕村と呼ばれた区域である。牛渕の旧集落は浮嶋(うきしま)神社の南方にあったが、重信川の度重なる氾濫による被害を避けるため、神社の北方の現在地に移転したと伝えられる。『重信町誌』によれば、天和2年(1682年)に村移りを開始してから天保8年(1837年)に終了するまで、150年余りを費やしたという。この村移りにあたり、道音寺(どうおんじ)の僧侶が土地を碁盤状に区画してから村人を移転させたとされており、集落の景観は、道路や宅地が整然としている(①)。南吉井村時代の村役場は牛渕に置かれており、重信町成立後も、昭和39年(1964年)町役場が新築・移転するまでは、旧南吉井村役場が町役場として使用されていた。
 牛渕地区は、江戸時代以来、米作を中心とする農業集落であったが、戦後は果樹、野菜、花き栽培といった都市近郊型農業への転換が図られた。また、昭和40年代から50年代には、県営牛渕団地(以下、「県営団地」と記す。)が建設されたことにより、旧重信町の中でも人口の伸びが顕著な地区であった。
 牛渕地区の昭和30年前後の町並みやくらしについて、Aさん(大正15年生まれ)、Bさん(昭和3年生まれ)、Cさん(昭和4年生まれ)、Dさん(昭和7年生まれ)、Eさん(昭和20年生まれ)、Fさん(昭和24年生まれ)、Gさん(昭和28年生まれ)から話を聞いた。