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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅶ -東温市-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 扇状地の農業

 東温市がその東部地域を占める松山平野は、一級河川の重信川とその支流の堆積作用によって形成された扇状地性及び三角州性の沖積(ちゅうせき)平野で、北の高縄山地と南の石鎚(いしづち)山系に挟まれた細長い三角形状の低地帯である。その中で、重信川上流に形成された扇状地は、東温市大畑(おばたけ)の標高170m地点を扇頂とする平均勾配(こうばい)1,000分の18、半経2.9kmから6.5kmの、本県を代表する扇状地で、東温市の横河原、北方(きたがた)、南方(みなみがた)、見奈良(みなら)などに広がっている。見奈良の付近で表川(おもてがわ)と合流する重信川は、その合流点までは通常の表流水は極めて少なく伏流しているため、扇央(扇状地の中央部)に位置する地域が乏水(ぼうすい)地域である一方で、扇端(扇状地の端)部分の地域には湧泉(ゆうせん)(わき出る泉)が多くみられる。そのため、扇央部と扇端部では濯漑(かんがい)(農作物を作るために、田畑に必要な水を人工的に引いて土地を潤すこと)の方法が異なり、例えば、東温市川内(かわうち)地域(旧川内町)で扇央部と扇端部にそれぞれ位置する北方と南方とでは、北方が大小新旧の溜(た)め池の利用と重信川やその支流の川からの取水であるのに対して、南方は、湧き出る伏流水を朧漑用水とするために開発された数か所の泉を利用している。
 川内地域の農業は、稲作をはじめ野菜や果樹、花き、畜産、養蚕等の幅広い経営が行われてきた。旧川内町も、農業を地域の主産業の一つに位置付け、急速に近代化している農業に対して、基盤整備や担い手の育成、新作物の開発、生産性の向上による魅力ある農村づくりを促進し、農業の経営規模の拡大や経営の複合化による収入の向上と安定の道を追究してきた(①)。しかし、日本の農業や農村を取り巻く、若年労働者の他産業への流出とそれに伴う農業就業者の高齢化、急増する輸入農産物との競合、農産物価格の低迷による農業生産の相対的地位の低下等の情勢は、川内地域においても例外ではなかった。中国四国農政局愛媛統計情報事務所松山出張所が平成6年(1994年)に発行した『川内町の農林業』には、川内地域の「農業生産構造」について、農家数の減少が続き(平成2年〔1990年〕の総農家数は昭和35年〔1960年〕に比べて32%減少)、しかも、総農家数に占める専従者のいない農家の割合が約7割を占めて農家の兼業化が進んでいること、農家人口も昭和35年から平成2年までの30年間で半減し、高齢化が進んでいること、農業労働力に関しては、昭和45年(1970年)と平成2年を比較すると女性への農業依存が高まっていること、土地に関しては、米の生産調整の実施に伴う畑や山林への転用や、住宅や工場用地への転用等で、昭和50年(1975年)から平成4年(1992年)にかけて、総土地面積に占める耕地面積の割合が年々減少しており、農作物作付延べ面積も減少傾向にあること、などが書かれている(②)。
 本節では、川内地域の農業を取り巻くそのような情勢の中、北方と南方で、その土地の特性を生かしながら農業を営んできた人に焦点を当て、土とともに生きる人々の仕事やくらしを、聞き取り調査や文献調査によって探った。