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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅶ -東温市-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 北方での農業

 川内地域の松瀬川(ませかわ)や北方で長く農業に従事し、現在も米や裸麦、イチゴ、ユリなどを作っているAさん(昭和4年生まれ)から、農家の仕事やくらしについて話を聞いた。

(1)農家に生まれる

 ア 建設業と農業との掛け持ち

 「私は、松瀬川の農家の長男として生まれました。もともと手作業が好きなので大工などの職人になりたかったのですが、昔は長男が家業を継ぐことが当たり前でしたから、農業を継ぎました。ただ、どうしても建設業に携わりたかったので、砥部(とべ)町(伊予郡砥部町)にあった建設会社に勤めながら農作業をする道を選びました。昭和40年代の半ばに松瀬川から北方へ移り住んでからも、買ったり預かったりした田畑で米や麦、野菜などを作りながら、会社へも毎日出勤しました。そして、会社での仕事や農作業の合間のわずかな時間で勉強をして施工(せこう)管理技士1級の資格(建設業法で定められた国家資格であり、建設業者の営業所や工事現場で、建設工事の施工計画の作成、各工程における品質の維持、安全管理などを行うための資格)を取り、最後は現場の責任者として65歳の定年まで働きました。ですから、農業を専業としたのはその後からです。
 勤めていた建設会社のあった砥部町で、昭和40年代から50年代の初めころにかけて大きな住宅団地の造成が相次いだこともあって、当時は、建設関係の仕事がたくさんありました。砥部町の国道33号沿いの、元は山ばかりで大きな建物がほとんどなかった所に、今は家々が立ち並んでいますが、それらを最初に手掛けたのは私たちでした。ですから、そのころ、会社の社長に気に入られ、社長の片腕のように働いていましたので、本当に多忙な毎日でした。それでも、農業が忙しいときには、会社の昼休み時間に、北方にある自分の田や畑へ帰って農作業をしていました。特に、収穫や出荷の時期には、昼休みになると、おにぎり一つを持って砥部と北方とを自動車で往復しました。そのため、一時期、『スーパーマン』というあだ名を付けられたことがありました。ある人が、北方で農作業をしている私を見た後に、別の場所に行くと、そこでも私の姿を見かけたらしいのです。後日、噂話(うわさばなし)の中で、『空飛ぶスーパーマン』という言葉が出てきたので、『それは誰のこと。』と私が聞くと、『あんたのことよ。』と言われました。確かに、仕事の掛け持ちをしながら働き詰めでしたが、建設業と同じくらい農業も好きでしたので、昼に休むのが惜しく、当たり前のように砥部と北方とを往復していました。
 それでも、一つだけ失敗したと思うことがあります。それは、会社ではずっと日給月給制(基本給等から欠勤分の賃金を控除する給与体系のこと)だったので、月給制の人に比べれば厚生年金の受給額が少ないのです。当時、社長からはいつも、『月給制にしてあげる。』と言われていたのですが、そのたびに断っていました。なぜなら、農業をしていると突発的に時間をとられることがあるので、月給制にすると、頻繁に休みを取るのが後ろめたい気持ちになると思ったからです。今では少し後悔もしていますが、それくらい農業が好きだったのです。」

 イ 松瀬川での農業

 「松瀬川で農業をしていた20歳代から30歳代ころは、稲作をはじめクリの栽培、肉牛と乳牛の飼育、炭(木炭)作りなどをしながら会社勤めもしていました。それだけ働くのは苦ではなくて、むしろ楽しいくらいでした。
 稲作は、8反(たん)(土地の面積の単位で1反は約992m²)分くらいまでしました。昔は、農作業を近所同士で一緒にすることが多くて、田植えも早乙女(さおとめ)(田植えをする若い女性)たちがまとまって行っていました。松瀬川は山間地なので田植え時期が早く、よその地域からすれば、田植えの終わった松瀬川の人たちの手を借りたいので、早乙女たちの中には、よその地域の田植えの手伝いに雇われる形で、順々に西(松山方面)に向かって移動して行く人もいました。その場合は、男の人が何人かの女性を連れて行き、雇い主との交渉や宿泊所の手配などをするのですが、私も20歳代のころにその仕事をしたことがあり、遠い所では、松山の和気(わけ)辺りにまで行きました。早乙女たちに5人くらいのグループを作ってもらい、横河原(よこがわら)(旧重信(しげのぶ)町)から電車やバスで移動していきました。宿泊のことで憶えているのは、久米(くめ)(松山市)の青年団と交渉して公民館に泊まらせてもらったことがありました。田植えは、ぬかるみの中を移動しながら、腰を屈(かが)めた状態での作業を長時間行う、という重労働なので、謝金も割合と良く、昭和30年代前半ころ、公務員の給料が1万数千円くらいのときに、最低でも1日に4、5千円はあって、私も同額の謝金をもらっていました。1か所の田植え作業は2、3日で終りますが、一度繋(つな)がりができると、その雇い主から、『また来年も来て。』と声を掛けてもらうことが多く、行き先は次々と増えていきました。田植機が普及する前は、そのように早乙女たちがいろいろな所で活躍していました。私が北方に越してきた昭和40年代半ばころも、早乙女が手植えをする田が残っていて、自分のところでも、松瀬川の女性に手伝ってもらって田植えをしたことがありました。
 松瀬川では、クリやカキなどの落葉果樹を栽培していた農家もあって、私のうちもクリの木がありましたが、クリタマバチの幼虫による虫害などで木の寿命が比較的短かった(多数寄生された場合はクリの生産に影響し、さらに木全体が枯死することもある。)ことや、クリ畑が夕日の当たる場所にあったことなどから、たくさんは作っていませんでした。朝日の当たる所は、冷えた土地が温まり、夕方にはまた冷えるのに対して、夕日の当たる所は、昼間の乾燥に追い打ちをかけるように温度が上がるので、特に、夏場などは、作物の生育に良くないのです。
 また、昭和20年代から昭和30年代の初めころは、松瀬川の多くの農家が炭作りをしていました。私も、モノを作るということが好きでしたし、家から通える場所にうちの炭焼き窯もあったので、炭作りに関する講習を受けながら勉強をして本格的に取り組みました。しかも、農協(川上農業協同組合)で炭を取り扱っていたので、作った炭は農協に出荷していましたが、割と(思ったよりも)お金になりました(もうかりました)。
 それから、昭和30年代の終わりくらいまでは、松瀬川のどの農家にもだば(山などにある、草木の生い茂った所)があって、そこで牛を飼っていました。農家によっては、役牛(えきぎゅう)(農耕や運搬などの仕事に使う牛)だけの所もありましたが、私のうちでは10頭ほどの乳牛を飼っていた時期もありました。私の子どものころには、博労(ばくろう)(牛馬の仲買商人)の世話を受けながら、父親が朝早くから周桑(しゅうそう)(周桑郡)の方へ出かけて行って、中山越(なかやまご)えで松瀬川まで、子牛を連れて帰っていました。そして、その牛を農耕や運搬などの仕事に使いながら育て、ある程度大きくなったら返す、ということをしていました。しかし、それも、昭和40年(1965年)くらいになると少しずつなくなってしまい、やがては、田を耕すのが、牛ではなくて耕耘機(こううんき)(エンジンを載せたフレームに耕耘〔土を掘り返したり反転させたりして耕すことをいう耕起(こうき)や砕土などによって土壌を整地すること〕のためのロータリーを連結し、人が後部からついて歩く形態の農業機械)に代わりました。松瀬川は小さい(狭い)田が多いので、耕耘機が便利でした。」

(2)新たな土地で農業を営む

 ア 松瀬川から北方へ

 「私が今住んでいるのは、北方の中でも宝泉(ほうせん)という所で、宝泉川の東側地域のうち、医王(いおう)寺の北側辺りの地区です。以前は松瀬川に住んでいましたが、昭和42、43年(1967、1968年)ころ、私が松瀬川小学校のPTA会長をしていた時に、ちょうどその松瀬川小学校が川上小学校に統合されて閉校になったので(昭和43年3月閉校、児童数61名)、それを機に、子どもの教育のことも考えて北方へ移り住みました。
 宝泉地区は、その名のとおり、良い水の出る所だったらしいですが、扇状地特有の傾斜地なので、かつては稲作用の水の確保に苦労したとも聞いています。私が住み始めたころもまだ、灌漑用水の心配をすることが少しはありましたが、重信川の菖蒲堰(しょうぶせき)からの取水に加え、周辺にある大小の溜め池や宝泉川からの取水によって、渇水の苦労はほとんどありませんでした。
 北方へ来た最初ころは、1反くらいの田で米作りをすることから始めました。それが、少しずつ小さな田を買ったり、方々の地主さんたちから、『自分の持っている田で米を作ってくれ。』と言われて、それを請け負ったりするうちに、徐々に耕作地が増え、今では、北方全域のいろいろな場所で合わせて4町(1町は10反)くらいの田で稲作をしています。自分で言うのもおかしいですが、几帳面(きちょうめん)な性格なので人に頼られることが多く、しかも農業が好きなので、いろいろな人から声を掛けられたのだと思います。私が40歳代後半だったので、昭和40年代の初めから半ばくらいだったと思いますが、農業機械が耕耘機からトラクター(耕起などの作業用機械やトレーラーを牽引する車)に代わりました。当時のトラクターは今のものに比べれば小さかったのですが、宝泉辺りの田はどれも小さいものばかりで、特に、北側の、扇状地の上の方にある田は、傾斜が急なので段畑にならざるを得ず、田一枚がとても小さくて、小型のトラクターでも使いにくいようでした。しかも、そのような小さな田がたくさんあったので、それらの濯漑用水路の保守点検も大変でした。だから、私か50歳くらいのころから始まった基盤整備のおかげで、トラクターを使いやすくなったし、水路の管理もしやすくなりました。」

 イ みんなで取り組んだ圃場整備

 東温市の発行した『重信町誌・川内町新誌続編』には、旧川内町内の圃場(ほじょう)整備事業について、次のように書かれている。

   農業経営の近代化を図るためには、まずその生産基盤となる圃場整備と用水路や溜め池、農道等の整備充実を図ることが
  必要である。圃場整備事業とは、狭小な農地を整形・拡大するとともに、農道や用排水路を整備することで、農業の生産性
  を向上させ、意欲と能力のある担い手に農地を集積させることを目的とし、農業の構造改善を図るために実施された事業で
  ある。旧川内町では昭和58年度から平成元年度にかけて、南方西南地区の12.7haの圃場整備事業を実施し、続いて川内北
  地区の県営圃場整備事業100haを昭和60年(1985年)から平成8年(1996年)の間に実施した(③)。

 「圃場整備は、所有者が異なり大小さまざまで歪(ゆが)みもある田が入り組んでいる上地を整形し、農作業がしやすいように新たに区分けするわけですから、それぞれの田の持ち主みんなが協力しないとできません。もし全員の合意がなければ、飛び地になった部分が残り、耕地の整形ができないだけでなく、その部分の水路や道路もうまく造れなくなります。私の田があった区画も、20数年前に北方地区で最初に圃場整備を行ったのですが、25人くらいの所有者全員が参加したのでうまくいきました。ただ、どの時期に工事をするかについては議論をしました。稲作では夏の時期が一番大切ですが、その夏場に圃場整備をすると工事が早く終わるのです。結局、その年の米作りはあきらめて夏施工に決めると、当時、私も、圃場整備を早く始めるべきだと考えて積極的に活動した一人だったので、『先頭は犠牲にならないといけない。』と思って、うちの田を最初に掘り返しました。それでも、その後、『圃場整備をしたおかけで、農作業が楽になって本当によかった。』とみんなで喜びました。」

 ウ ビニールハウスでイチゴを作る

 (ア)高設栽培

 「私がイチゴ栽培を始めたのは、今から約30年前の昭和60年(1985年)くらいです。当時、露地(ろじ)(屋根のない地面)に畝(うね)を作り、そこにイチゴの苗を植え付け、2月くらいになるとその畝の部分だけをビニールなどで卜ンネル状に覆って育てる、トンネル栽培をしていた農家もありましたが、私は、既に主流だったビニールハウスでの栽培を選んで、医王寺の北側の1反あまりの土地に、幅約6m、長さ約60mのビニールハウスを3棟建てました。トンネル栽培にもいろいろなメリットはあるのですが、3月くらいから、日中はトンネル内の温度が上がって蒸れてしまうので、朝、ビニール状の覆いを上げて、夕方にそれを下げる、ということを毎日繰り返さなくてはならず、しかも、その作業を中腰で行うので大変だと思います。その点、ビニールハウスの場合は、機械で温度管理を行うので、そのような作業はありません。しかも、10年くらい前に、高齢になったときのことを考えて、腰を屈めて仕事をしなくてもよいように、地面よりも高い位置に組んだ棚の上でイチゴを育てる高設栽培を始めたので、作業がさらに楽になりました。水やりなどは、チューブから点滴が落ちるようになっていて、その量や時間を機械がコントロールしています。それから、今は、ビニールハウス内の通路にレールを敷き、座って作業のできる高さの台車を自分で作り、レールの上を移動できるように細工して、それに座って仕事をしています。」

 (イ)作物と話をする

 「イチゴの栽培で一番気を付けなくてはならないのは、イチゴだけにみられる萎黄(いおう)病に感染していないかどうかを見極めることです。もちろん、予防として苗の植え付け前後に薬液を使うことをしますが、それでもその病気に感染することはあり、そうなると、生育が遅れるだけではなく、ひどい場合は枯れて死んでしまいます。しかも、萎黄病の原因となる菌は土の中に残るので、そのままにしておくと全部のイチゴが枯れてしまう恐れもあります。ですから、萎黄病に感染した株が多くなりそうだと、ビニールハウス内の温度を太陽熱で50℃以上に上げて徹底的に殺菌しなくてはなりません。そうならないためにも、病気に罹(かか)っていないかどうかを調べるために葉を見ます。イチゴの葉は3枚の小さな葉から成っているのですが(複葉(ふくよう)〔2枚以上の葉身(ようしん)からできている葉〕)、感染するとその中の1枚が黄色くなってきて、徐々に小さくなっていくからです。そのような細かい変化を見逃さず、病気に感染した株をできるだけ早く見付けるために、葉を調べる作業を毎日繰り返します。不思議なもので、毎日見ていると、作物と話ができるようになった気がしてきます。イチゴが、『何かいかん(具合が悪い)なあ。』と言っているのを感じ取れるようにならないといけません。」

 (ウ)おいしいイチゴを消費者の元へ

 「ビニールハウスの中の温度は、5℃から28℃の間に収まるように常に設定しています。温度が低くなるとイチゴの色づきが悪くなるので、冬場の温度調節には暖房用のボイラーが自動的に作動します。ボイラーの種類によって燃料は灯油や重油、ガスに変わりますが、値段の比較的安定している灯油を使っても、1月や2月の寒い時期になると燃料代が相当にかかります。色づきが一番良くなる温度は25℃から26℃くらいなのですが、温度を上げるほど、その分燃料代もかかるのでなかなか温度を上げられません。ビニールハウスは薄い膜で冷たい外気にさらされている上に隙間(すきま)もあるので、温度を1℃上げるのもなかなか大変なのです。
 ビニールハウス栽培のイチゴの出荷時期は、11月から翌年の5月くらいまでで、その間は毎日、イチゴを100パックから150パック分くらい収穫して、それを松山市農協(松山市農業協同組合)に出しています。私のところでは、出荷時期を五つに分け、それぞれの時期に収穫できるように栽培を調節していて、3棟あるビニールハウスの1棟目の収穫が終われば2棟目の収穫を始められるようにしています。ただし、五つの時期を設定しているので、その間の気候変動による温度調節や灌水(かんすい)などの管理が難しく、時々バランスが崩れて、それぞれの時期の繋がりがうまくいかないこともあります。出荷の最盛期は3月ころで、5番目の出荷が終わるのが5月くらいです。そのころになると気温が上がるので、ビニールハウスの中の温度を下げるために、ハウスの横側のビニールを巻き上げて換気扇を回し、空気を入れ換えることで温度が上がらないような対策をします。
 イチゴ栽培は、いつも様子を見ていなくてはならないほどのデリケートな作業が必要になるので、専業でなければ取り組むのは難しいと思います。ですから、我ながら、会社勤めをしながらよくやったものだと感心しますが、そのころは若くて元気があったからできたわけで、年を取った今ではもうできません。」

 エ 農業を伝える

 「現在、孫と一緒に二人で、米4町、裸麦3町、イチゴ1反、ユリ1反を中心に、合わせて10町くらいの耕地でいろいろな農作物を栽培しています。十分な広さの耕地があるように思われるかもしれませんが、農作物によっては同じ土地で連作ができず、5年間くらい間を空けなくてはならないものもあるので、それらの農作物を毎年同じくらい作るためには5倍の耕地が必要になります。ですから、まだまだ耕地は足りませんし、しかも、農業施設や農機具などにかかる経費が高額なので、経営は決して楽ではありません。そういう中で、今は年を取ったのでやめてしまいましたが、販路の拡大を目指して、野菜などを産直市場に直接出荷したり、何人かの米の生産者でグループを作って、松山市内の食べ物を作る店と販売契約を結んで直接配達をしたりと、営業にも力を入れたことがあります。最近の若い農業経営者の中には、自分が作ったものを自分で売る人も多くなりましたが、間に人や業者が入らないので収入が上がるというメリットがある反面、クレーム対応などを自分でしなくてはならないという苦労もあります。ただ、『いろいろな人の中で生きる』というのは良いことだと私は思っていて、ほかの商売と同様に農業でも、消費者のクレームをこれからの農作業に活かしていって欲しいと思います。
 私は、会社を定年退職することを見据えて、安定した収入を得るためにイチゴ栽培を始めました。今でも、経営が一番安定している農作物はイチゴです。イチゴは手間をかけた分だけ見返りのある作物なので、イチゴを作る以上は努力をしなくてはなりません。私がいつも、『努力、努力。』と言うので、みんなから笑われますが、イチゴ栽培で一番大事なのは、難しいことですが、『努力する。』ということだと思っています。」