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愛媛のくらし(平成10年度)

(4)精霊を迎えて

 8月は月遅れのお盆の月である。
 盆は正月とともにわが国の年中行事の双へきをなしており、古来、先亡精霊(せんもうしょうりょう)を迎えてお祀りし、それを再びお送りするという一連の行事が全国各地で行われてきた。ここでは、8月13日から15日までの3日間を中心に、吉田の盆行事をまとめてみた。

 ア 花市

 盆の前日の8月12日、今も吉田町では、「花市」という盆の飾り物や供え物を商う市が横堀沿いに立つ。こうした市は、かつては「草市」「盆市」などとよばれて全国各地で見られたが、最近は次第に姿を消しつつある。**さんと**さんに聞いた。
 「(**さん)お盆の前日の12日には、古くから花市といいまして、高光(たかみつ)(宇和島市)や喜佐方(きさがた)(吉田町)など、周辺の農家の主婦たちが、桜橋のたもとの横堀にお盆用の草花やおまんじゅうなどを持ってきて売りよったんです。今もまだ立ちより(立ってい)ますが、昔のようなにぎわいはありません。
 横堀一帯は、昔は三間へ抜ける街道、といっても人と荷車がやっと通れるくらいの道ですけど、それが通っていたんです。その関係で、そこが三間方面から港吉田を通って大阪などへ行くメインの通りでして、一番栄えていたことから市が続いていたんだと思います。」
 「(**さん)以前、東京から石原八束(*19)が来ましたときに、花市を見て『これは貴重ですね。全国でも、こんなに盆の市が立っているところはないですよ。これを何とか守っていくということは、結局、吉田町の文化を守ることになるので、是非、これを大切にしてください。』と言われたことがあります。今は、同じ日に本町で行われるサマーカーニバルの方がにぎやかになって、その華やかさが失われてきています。以前は、出店する人も昔からの場所で売り、買う人も必ずそこで買っていましたが、今はあらかじめ予約をとったりして家の方に届けたりするものですから、市に集まる人が少なくなり、たいへん寂しい思いをしています。わたしら子供のころには、店がずらーっと並んですごかったと子供ながらに記憶していまして、あれを何とかしたいと強く感じています。このまま寂れてしまうのは本当に残念です。」

 イ サマーカーニバル

 かつての花市のにぎわいから生まれたのが、12日に本町商店街で開催されるサマーカーニバルで、本丁の七夕夜市と並んで吉田の8月を代表するイベントになっている。そのにぎわいとそれにまつわる話を**さん、**さん、**さんに聞いた。

 (ア)サマーカーニバルのにぎわい

 「(**さん)サマーカーニバルは花市のにぎわいからスタートしたんです。『花市でせっかくあれだけ人を集めてもらっているんだからもったいない。地元でも何かできないか。』ということで、昭和40年(1965年)ころから商工会の本町会(現会員数48)が、本町通りで毎年やらしてもらいよるんです。
 サマーカーニバルは朝からやるんですが、暑い盛りですから、メインはやはり午後5時以降です。10時ころまでやっていますが、一番人出が多いのは7時から8時ころです。通りは道幅が5m50cmしかありませんので、その時間帯はかなりびっしりになりますね。5千人前後(本丁の七夕夜市が6千人前後、夏祭りが1万5千人前後)は出てもらっています。各店がパラソルを出して、商品を並べたりしていますが、お盆前で帰省客が多い関係で、じゃこ天(魚のすり身を薄い板状にして油で揚げたもの)などがよく売れています。また、ルーレットに人を乗せてクルクル回す『人間ルーレット』がこのときの呼び物です。」

 (イ)お狸さん復活

 「(**さん)サマーカーニバルのときにお狸(たぬき)さん(喜八狸(*20))のお祭りをしています。この狸は、昔、丸井座(*21)という芝居小屋の回り舞台の下(奈落(ならく))に祀られて、旅芸人などが拝んでいたものらしいです。お狸さん自体は、ろうそくですすけて真っ黒になっていたらしいんですが、丸井座が映画館に改装されるとき、ある女性がそのお狸さんをもらい受けたとのことです。その後、その女性の夫になった神主さんが、しばらくの間、輪抜け(茅の輪くぐり)をしたりしてお祀りしていたらしいんです。お狸さんは火事を防いでくれるとか、戦争で命を落としそうになったとき、お狸さんが現れて命が助かった、などという話も伝わっていますが、いつのころからか、お祭りもさた止みになり、お狸さんもどこへ行ったのか、行方不明でした。それを、昭和50年(1975年)ころだったと思うんですが、サマーカーニバルのときにお祀りし始めたんです。まあ、サマーカーニバルで何かおもしろいものはないか、ということから、いわば、イベントとして復活させたわけです。本物のお狸さんはありませんので、今は焼き物の狸を飾っています。昔使っていたお札の版木が残っていましたので、それを使ってお札を作ったりしています。」
 「(**さん)わたしが若いころには、まだ丸井座というお芝居小屋が残っとりましてねえ、そこに『喜八さん』という頭が禿(は)げてしもうた古いタヌキがよう出るということを聞きよりました。これが、丸井座の回り舞台の下に来ては、よう人をだますんですなあ。みんな、『喜八さん、てがわれんぞ(からかうなよ)。てごうたら、やられるぜ。』と言よりました。けど、『喜八さん、大きな金玉やのう。』なんか言よったら、もうだまされてしもて、外へ出たときには石の中に頭突っ込んだりしとるんです。裡町いうとこは石屋が多かったですけんねえ。方々に石を積み上げとるんですが、その石の間へ頭突っ込んどるのがおって、『なんしよるのぞ。』言うたら、『うちにいによる(家に帰りよる)のよ。』と言うたというような話をよう聞かされました。ですから、丸井座では悪さされんように、お狸さんを祀ったりしよったんでしょうなあ。
 ほかにも、そのころ吉田ではタヌキにだまされたという話がたくさんありましてなあ。
 ある人が魚を担いで三間の方に売りに行きよったそうですが、大工町の奥の方の小川のとこで、行ったり来たり、行ったり来たりしとるんだそうです。それで、『おいおい、何しよるんぞ。』言うたら、『三間へ魚売りに行きよるんよ。』と言う。ところが、『おまえ、魚1匹もありゃせんじゃないか。』というようなことで、魚はみな、タヌキに取られてしもうたんですなあ。その辺は、タヌキがようけおりましたそうです。」

 ウ 仏様事は主婦の仕事

 吉田では、盆に精霊棚(しょうりょうだな)(*22)を立てて先祖の霊を迎えるという風習が、今も主に家庭の主婦の手で続けられている。**さんと**さんに聞いた。
 「(**さん)神様事は男がするとこが多いですが、仏様事は、お供えにしても何にしても、女がすることが多いんじゃないですか。お盆はうちでは、男が香箱(こうばこ)(香を入れる木の箱)をもってお墓に行って、お線香をあげて、仏さんに『おいでください。』言うて、女がうちで迎え火をたきます。送り火の方も女がうちでたいて、男は、夕方お墓へ行って『お帰りなさい。』言うてお線香あげて、香箱をとって戻りよりますらい。」
 「(**さん)お盆が近づいた8月10日ころ、お墓の掃除をし、墓前にシキミ(シキビ、櫁)を生けます。これは春秋のお彼岸のときも同じです。
 お盆の買物は12日にします。お供え物用のスイカ、イモ、ナシ、ブドウ、そうめん、それに落雁(らくがん)などの干菓子のほか、お迎えだんご、送りだんご用のだんごの粉やお霊供用のサトイモ、カボチャ、ゴボウ、シイタケ、干ピョウ、豆腐、揚げ、ナス(ビ)、キュウリなどを買います。さらに、花市でササ、アサガラ(オガラ)、ハスの葉2枚、バショウの葉2枚、コイモの葉、カキとクリの枝、ソウハギ(ミソハギ)の花、それに盆花としてオミナエシ、ハゲイトウ、ハスの花、センニチソウなどを買います。
 13日の朝はお墓に行って、灯ろうにろうそくをともしてわが家へのお迎え火をたきます。そのあと、精霊棚を組み立てます。わたしのところでは、精霊棚は三界萬霊(さんがいばんれい)さん(すべての死者の霊)をお祀りするもので、お位牌(いはい)などは仏壇の方に置いたままです。棚はお座敷のお床に置き、掛軸もお盆用のものに換えます。
 精霊棚の正面には三界萬霊さんの掛物(先祖や親戚、お寺関係の戒名が記されている。)を掛け、四隅にはササとアサガラを飾ります。ササを長くアサガラを少し短めにして長さをそろえて切り、黒と白のもっといで縛って四隅の柱に立てます。アサガラの残りは、お盆の間、お霊供のはしに使います。また、小さなものは、15日の送り火用に取っておきます。側面には、以前は赤、青、白の短冊(たんざく)をつるしていました。この短冊には梵字(ぼんじ)(古代インドのサンスクリット語を記すのに用いられた文字)が書かれていましたが、古くなりましたので、今は使っていません。棚の前面左上に、イモの葉とカキ、クリの枝を逆さにつるします。
 棚の上には、バショウの葉を2枚裏返しにして敷き、その上にお供えなどを並べます。一番奥の列には、お迎えだんごやそうめんを置き、左端に盆花を生けます。また、真ん中の列には、落雁などのお菓子をお供えします。前列には、スイカやイモ、ナシやブドウなどをお供えします。お供え物は、だいたい高坏(たかつき)(脚つきの台)に載せて出します。棚の前には小卓を置き、その上に線香やろうそく、鉦などを置いておきます。
 14日の朝、棚の正面一番奥にお水とお茶を、また、真ん中の列の右隅と前列の正面にもお茶をお供えします。右隅のものはガキサマ(餓鬼様(*23))にお供えするものです。また、小卓の上には、ハスの葉に御洗米(ごせんまい)とナスを細かく刻んだものを載せておき、その横には水を入れた器を置いておきます。水にはソウハギの花が添えられていて、拝むときには、ハギを水につけ、ナスと御洗米に2回水をかけてから拝みます。
 14日のお昼にはお霊供をお供えします。わたしの方から見て、お霊供膳の右奥に御飯、左奥にみそ汁、右前に酢もの、左前に煮物、真ん中に漬物を置き、一番奥にアサガラのおはしを置きます。御飯は、一度お茶碗についだものをひっくり返して、山盛りになるようにします。みそ汁にはツイモクキ、ナス、豆腐を入れます。酢ものにはキュウリ、揚げ、シイタケを、また、煮物にはゴボウ、カボチャ、シイタケ、干ピョウ、小イモを入れます。このお膳を一対(2膳)、精霊棚の前列正面にお供えします。と同時に、家のお仏壇の方の御本尊へも同じように一対お供えします。また、御飯と煮物を一対、精霊棚の右隅のガキサマにもお供えします。お膳は夕食時には下げて、家族でお下がりをいただきますが、ガキサマのものは、すべて捨てます。
 14日には、お寺様(和尚さん)が来られるので、お布施なども用意しておきます。また、親戚の方の来訪には茶菓子などを用意します。逆に、わたしの方でも親戚や知人のお墓参りをします。初盆の家には8月1日からお盆までの間にお初盆見舞いをします。
 15日の朝と昼は14日と同じです。夜は、送りだんご(おかさ)をお供えします。だんごは直径が2、3cm、厚さが2、3mmくらいで、それをお膳に盛りつけて、一対、精霊棚にお供えします。やはりアサガラのはしをつけます。御仏壇とガキサマにもお供えします。
 夕方には家の門の外で送り火をたきます。」

 エ 先祖供養

 盆に祖霊や無縁仏を供養するのは、家庭だけに限ったことではない。8月は、寺でも種々の供養が行われ、忙しい1か月である。**さんと**さんに聞いた。

 (ア)お舟流し

 「(**さん)お舟流しは、先祖と新亡(しんもう)(この1年間に亡くなった仏)の供養にお舟(写真1-3-29参照)を流すということで、一般にはお盆の行事とされていますが、わたしのところ(長福寺)では、お盆の翌日の16日に施餓鬼法要に合わせてやっています。
 この行事の起源はよくわかりませんが、おそらく江戸時代からやっていると思います。わたしがここの住職になったのは昭和32年(1957年)ですが、そのころには三間など遠方から来られる方もありました。今でも吉田ではお舟流しというと長福寺という感じがあるんじゃないかと思います。浅川地区はうちの檀家でもなんでもないんですが、新亡の縁につらなる人たちが必ず集団でお見えになります。それもやっぱり、昔の名残だろうと思います。
 お舟流しは午後1時から始め、夜は8時ころまでです。人数的にはそんなに多くありませんが、けっこうにぎわいます。来た人が自由に舟を池に流すんです。
 舟は長さが30cm、幅が10cmくらいの木製です。それを120ぱいくらい用意しますが、例年だいたいなくなります。舟型に切った板に柱を立てて、それに紙を貼ってあんどんを作り、線香を立てたり、幡(はた)を立てたり、まあ、飾りもちょっとつけたりというようなことです。幡には『何々家先祖代々供養』とか『新亡だれそれの霊』というような戒名や俗名を書いた紙を貼って流します。舟を作ったり、字を書いたりするのは、総代さんにお手伝いをお願いしています。舟の組み立てはけっこう時間がかかりますが、7月20日過ぎからぼつぼつやっておけば、まあ間に合います。
 池は、今は長さが10mくらいで幅が2m50cmくらいになっていますが、昔はずっと向こうまで堀になっとったんです。長さが100mくらいで、幅も3mくらいあって、下りていけるように雁木(がんぎ)(桟橋の階段)などもありました。川につながっていましたので、水が流れていて、当時は柳もあって、釣りもしよったようです。池の回りには、竹を立てて五色の短冊にお経を書いて飾りつけます。これも総代さんが前日に準備をしてくれます。」

 (イ)施餓鬼供養

 「(**さん)8月の1か月間、寺の方ではこの1年間に亡くなった人の供養をします。棚を作って、スイカ・カボチャ・ナス・キュウリなど旬の野菜やそうめん・シイタケなどの精進物(しょうじんもの)をお供えします。まあ昔はそのくらいしか食べ物がなかったですから、そんなものをお供えしていた、その受け継ぎだろうと思います。
 盆の三が日(13、14、15日)はお檀家回りをします。棚経(たなぎょう)をあげて回るんです。また、夜は鳴物(ドラなど)をもって山(墓地)を歩いて回ります。霊がいなくなったところへ悪霊が入らないようにという悪霊払いです。
 8月23日、24日には施餓鬼をします。このときは各家々全部お塔婆(そうば)(卒塔婆(そとば)ともいい、墓の後ろに立てる上部が塔形の板)を作って、本堂に並べて清めて、一軒、一軒読み上げて供養していくんです。お塔婆は200本ほどありますので、書くのもなかなかたいへんですよ。裏と表のお経の部分は7月中くらいに書き上げておいて、施主と『何々家先祖代々施餓鬼供養』という文字だけを最後に入れるようにしています。以前は、檀家の人が何人か書いてくれてたんですが、書ける人がいなくなりましてね。裏のお経も決まった文句はなくて、その時に思いついたものを書きます。どうしても自分の得意な経文とか慣れた字があって、四つか五つくらいのパターンになってしまいます。
 わたしは、日本人の宗教は、仏教が伝わる以前のものが中心になっとるように思います。アニミズムといいますか、山や海や森には必ず神様がいて、その中で人は生きさせてもらっておるんだといった気持ちが、今もなお受け継がれているということはすばらしいことだと思います。宗教的な儀式が、なぜ今の形になったかはあいまいな点が多いんじゃないかと思うんですけど、それはそれとして、そこに脈々と息づいているものは何かということの方が大事だと思いますね。わたしは、そういうものを大事にしながらやっていきたいと思っています。」


*19:俳人、随筆家(1919~1998年)。昭和36年(1961年)、俳誌『秋』を創刊し、同誌を主宰。『石原八束全句集』をは
  じめ、著作も多い(⑫)。
*20:タヌキは、風格がひょうきんで人情味があり、為すところが無邪気で明朗であるということから、霊妙不可思議な神通
  力を持つものとされて、古来、多くの伝説や挿話を生み出してきた。タヌキにまつわる話の研究家、収集家として知られる
  富田狸通(1901~77年)がまとめた『伊豫之国狸伝説大番付』によれば、愛媛県下では、新居浜市一宮明神の小女郎狸と
  松山市荏原金森明神の金平狸がそれぞれ東西の横綱にランクされているほか、壬生川(東予市)喜之宮社の喜左衛門狸、松
  山市榎大明神の八股お袖狸など、全部で66の狸がリストアップされている。なお、吉田の喜八狸は、この番付では西前頭
  3枚目に位置している。
*21:裡町3丁目にあった劇場。その前身は、明治21年(1888年)ころ宇和島から芝居小屋を移築した「衆楽場」で、明治
  30年代の初めに上甲万吉が買収して、その屋印である丸に井の字から「丸井座」と名づけた。以後、丸井座は町内最大の
  娯楽の殿堂として吉田町の大衆文化の変遷を見つめてきたが、昭和15年(1940年)、おりからの映画熱の高まりに押さ
  れて、映画常設館に改装され、名前も「吉田劇場」と改められた。吉田劇場は昭和22年(1947年)に火災で消失した
  が、まもなく再建された。しかし、昭和30年代のテレビの登場以後は斜陽化し、昭和40年代になってついに閉場した
  (①)。
*22:吉田では一般に「ショウライダナ」とよぶ。「盆棚」ともいい、盆のときにお迎えした精霊を祭る祭壇である。
*23:厳密には、仏教でいう六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の一つ餓鬼道に住むもののことであるが、一般には、
  非業の死を遂げた者や祀る人のいない無縁仏など、無事往生できずさまよっている霊を指す場合が多い。盆には、祖霊のほ
  かに、このような霊がやってくると考え、それがもたらす災いを封じるために、ねんごろにもてなして送り出したと考えら
  れる。盆における餓鬼供養としては、盆棚のかたすみに供物をおく例と盆棚とは別にガキダナなどとよぶ無縁棚を設ける例
  がある(⑤)。

写真1-3-29 お舟

写真1-3-29 お舟

長福寺にて。平成10年12月撮影