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愛媛のくらし(平成10年度)

(3)あばれ牛鬼と練り車

 吉田町では、11月3日に町内の神社で一斉に秋祭りが行われ、旧町内でも、氏神にあたる立間の八幡神社の秋祭りが行われる。寛文4年(1664年)に始まるというこの秋祭りの神幸(しんこう)は、供奉(ぐぶ)に加わる練り物の壮麗さ(*29)から、南予随一と称されて盛大をきわめたが、最近は参加する山車(だし)の数も減り、往時の姿を想像することは難しくなったといわれている。**さん、**さん、**さん、**さんに聞いた。
 「(**さん)秋祭りも、今はみこし、牛鬼、四つ太鼓、七つ鹿、それに練りが3、4台出るくらいじゃないでしょうかね。魚棚は、1区は人手がありませんので、練りは出ません。3区は七福神が出ます。うち(2区)は、今は大きいのがなくなり、亥の子車を改良して上にホタ(*30)の頭を乗せて回っています。車をひくのにそれでも2、30人出てもらっています。車は普通は集会所に入れていて、祭りの前に組み立てます。このときも、たくさん出てきてもらって、お神酒などをいただきながらコミュニケーションをはかっています。秋祭りは、立間の八幡神社の祭りなのですが、地の利のええ安藤神社もお参りがありますんで、幕を張ったりしてきれいにしています。」
 「(**さん)吉田は3万石の陣屋町ですので、秋祭りには江戸時代から山車が出ていました。わたしとこ、本町1区(丁目)の山車は『三国志』の関羽(かんう)(*31)で、普段は公民館分館(本一会館)の倉庫に入れています。組み立ても、巡行もうちの町内(28軒)は一応全員参加ということになっていますが、高齢の方も多くなり、原則通りにはいきません。
 山車というのは、けっこう大きいんです。中に何人も乗って、三味線をひいたり、太鼓をたたいたり、練り歌を歌ったりできるようになっていまして、今でも実際に三味線をひいているのは、うちの山車だけじゃないでしょうか。木の車が付いていて、20人前後で動かすんです。まっすぐ進むのはいいんですけど、曲がるときは、特に後ろの者がたいへんです。
 本町を9時ころに出て、本丁通りに集まったあと、10時ころに出発します。以前は、行列の順番が決まっていて、その順に回らんとうるさかったんです。一軒一軒門付けして御祝儀をいただくんですけど、順番はきちっと守られますから、後ろの方は、ずらずら並んで待つようになるんです。本丁、桜丁、本町と回って、さらに裡町、魚棚をやって帰るんです。2時すぎには終わりますかなあ。終わりましたら、直会をさしてもらっています。
 地区によって違うんですが、ここ本町1区の場合、祭りの世話は、区長、副区長、総代がしています。副区長が総代をやって翌年区長に上がるようになっていますので、実際は、よくわかった区長と総代の二人が祭りの世話をするようになるわけです。山車の組み立ては、勤めの方もおりますので、たいてい祭りの前の日曜日に行います。しまう方は、山車に巻いとる幕、『腰巻』いうてますけど、あれはほこりや雨の日だと湿気が来とりますから、少し置いて、1日か2日後にしています。
 昔は祭りいうのが、吉田町内でも10月25日と11月5日と分かれていましたから、祭りの日にはお給仕さんを雇うても間に合わないくらい、お客がたくさん来よりました。わたしとこは呉服屋ですが、昔は呉服屋には顔を出さないかんという習慣があったそうで、『この人、どこの人』というような人もたくさん来よりました。今は、近在の祭りが全部いっしょになりましたので、うちに限らず、ほとんどお客さんがなくなりました。」
 「(**さん)昔のお祭りはそれこそ派手で、すごかったですよ。横堀の河原には、サーカスとか見せ物小屋が建ち並び、通りは前向いて進めんくらい大勢の人があふれ、そのにぎやかさは南予で一番でした。それが、統一祭りになってからは、お客さんを呼んだり呼ばれたりがなくなって、家でもお祭りせんようになりました。お練りとかもたくさんありましたが、それもほとんど出なくなりまして、今は普段よりも静かなくらいで、昔を思うとうそみたいです。
 お祭りの料理いうたら、フクメン、タイメン、フカの湯ざらし(*32)。そのほか、刺身や酢づけなどはどことも同じです。あと、盛り合わせいうて、かまぼこやようかん、タルトなどのお菓子類、果物などがありました。吉田の方は鉢盛りですから、それが5鉢くらい大鉢に盛られていて、それを銘々皿(めいめいざら)についで渡しよりました。この辺の郷土料理いうたら、そんなものです。
 お客さんも、表を通りよる顔見知りの人に手当たり次第、『座敷へ上がれ。』言うて呼び込むのが、この辺独特でしたね。ですから、それこそ座敷がいっぱいになりよりました。とにかくお客様のためのお祭りでして、家の者は残り物を食べよりました。昭和13、4年(1938、9年)ころまでが、全盛やったように思います。ほんとに楽しかったですよ。」
 「(**さん)吉田のお祭りに独特のものにホタいうのがありました。ホタは、いつころまで続いていたかはっきりしませんが、昔は、祭りの前の晩に一晩中、町内を一軒一軒回りよったんです、御祝儀いただいてね。ホタは、町内の単位(区)とは関係なしに、勝手に好きな者が集まって宿を作ってやっていました。一般のホタは、中学生や高校生がしよったんですけど、大人も八幡ボタいう大きなのをしよったですね。ホタは角が1本やったですけど、角が2本あるのもおったように思います(角が2本が雄のホタで、1本が雌だとの説もある。)(②)。
 吉田の牛鬼は暴れるので有名でした。みこしの先駆けをする牛鬼は、家々に首を突っ込んで、悪魔払いをするんですが、桜橋のところでは、暴れ狂うのが恒例になっとったんです。ですから、そのあたりでは、家がこわされないように道路端に木で柵(さく)を作っていましたが、その柵めがけて牛鬼が突っ込んでいくんです。見物人も『危ないからよけとけ、よけとけ。』言うて、柵の中から見よりましたが、なかに、てがうのがおって、よう(よく)けが人が出よりました。」


*29:天保6年(1835年)の『伊予吉田藩八幡宮祭禮絵図』には、鉄砲、弓矢、鳥毛の長柄、馬(以上、足軽組)、御舟(御
  船手)という御用練りの後ろに、塔堂車(大工町)、御神餅(裏町3丁目)、関羽(本町1丁目)、楠正成(本町3丁
  目)、武内宿禰(裏町1丁目)、恵比須様(七福神)(魚棚3丁目)、御旗(青龍、朱雀、白虎、玄武の四神)(本町2丁
  目)、神功皇后(裏町2丁目)、八幡太郎(魚棚2丁目)、太閤秀吉(魚棚1丁目)という町方の練りが続き、そのあとを
  町役、七つ鹿、牛鬼、みこし三体が巡行している様子が描かれている(⑭)。
*30:頭は牛鬼に似ているが、くすんだ赤ら顔に角が一本ある。両耳が大きく、顔の中心にはみごとな鼻がでんとあぐらをか
  いている。前は、あごから下にカンレイシャを長くたらし、後頭部には半紙などを御幣のように切って長くたらしている。
  一般のホタとは別に「八幡ボタ」とよばれる大きなホタが2頭、群衆をかきわけて神幸の場を浄めながらみこしの先駆けを
  する。「宝多」とも書く(②)。
*31:生年不詳~219年。中国の三国(魏、呉、蜀)時代(220~280年)に蜀の劉備につかえた猛将。その武勇は民衆の尊敬
  を集め、各地の寺院に守護神として祀られている。また、道教と結びついて、「関老爺」とよばれる財神となり、各地に
  「関帝廟」が建てられている。
*32:フクメンは、せん切りにしてしょう油と砂糖で薄味をつけたこんにゃくに、白身魚でつくったそぼろやネギなどを盛り
  つけたもの。タイメンは、固ゆでにしたそうめんの上に煮つけた大きなタイをのせたもの。また、フカの湯ざらしは、フカ
  (サメ)の切り身を沸騰した湯で軽くゆでたのち、冷水でさらしたもので、みがらし味噌をつけて食べる(⑮)。