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愛媛のくらし(平成10年度)

(1)師走の空に

 ア 八人様

 大工町の奥に山田騒動(*35)で切腹した「八人様」と呼ばれる8人の忠士の墓所があり、今も地元の人の手で大切に守られている(写真1-3-40参照)。**さんに聞いた。
 「八人様には、月にいっぺんは必ず掃除に行っています。近所の老人クラブのお年寄りも出てくれるようになりました。大きなイチョウの木がありまして、葉が落ちるころはたいへんです。でもきれいですよ、黄色で。
 八人様が切腹をした日にあたる12月4日は、午前中に掃除をすませて、午後3時ころから宗昌寺の和尚さんにお経を上げていただき、そのあと暗くなるころまでおこもりをしています。和尚さんには、昔からただでお経をあげてもらっています。このときばかりは和尚さんもボランティアでお金はとりません。参加するのは、12、3人です。八人様のお祭りは、わたしの親父らが始めたもので、わたしらも小さいころから連れていかれよりました。今は、八人様を知っとる人も少なくなりましたなあ。」

 イ お火たき

 12月12日前後の土曜日の夜、元町の一乗寺で古くから「お火たき」が行われている。**さんに聞いた。
 「お火たきは江戸時代から続いている行事です。もともとは12月12日にしていましたが、今はその近くの土曜日にやっています(平成10年は12月19日に実施)。この日は、お塔婆やお守り、お札などを1年間お世話になったということで焼却供養し、その火でお餅(招福餅)を焼いていただくことにより、無病息災、延命、家庭の繁栄、心身の健康、学業成就などを願うものです。1年間お世話になったものを供養する針供養などと同じような行事と考えられます。以前は寺の境内でしていましたが、燃やすものが多くなり、危なくなったので、7、8年前から下の広場に移しています。
 準備は、主に『信行会』という檀家の婦人部にしてもらっています。当日配るお餅は、以前は自分たちでついていましたが、つき手が高齢化したことなどから、最近は業者に頼んでいます。前日までに10個入りの袋を300から500くらい準備します。
 また、やはり前日までに、お火たきをするところに半径2mくらいの穴を掘っておきます。穴は、ここから中には入られませんよという目印程度ですから、せいぜい20cmくらいの深さでしょうか。あんまり深く掘ると燃えにくいんです。当日午後、ここに木と竹で井桁(いげた)を組みます。下に木を組んで、それから竹を組んでいくんですね。その中にお塔婆などが入れられるんです。寺のあちこちにあるお塔婆も全部集めてきてます。それから、その外側に竹を四方に立てて、神事と同じように縄を張って御幣をつけます。わたしも一緒に作業をして、コミュニケーションを深めています。
 わたしは、1時間くらい前になると、正装して気持ちを集中させていきます。6時の寺の鐘を打つと同時に火着けをします。お経はそれより少し前に始めて、コーンという鐘の音から少しあとまで、計5、6分間あげます。お経の中に加持祈禱の経文があるんです。終わりは供養文というか、そこに来ている人たちの家族や親戚縁者の無病息災、延命、心身堅固等をお願いして経文を閉めるわけなんです。
 それが終わると、本堂に上がって、さらに30分から1時間読経します。そのあとは、着替えをして下に行くこともありますし、精神的に若干疲れたなと思うときには、お茶でも飲んでゆったりします。下は、だいたい檀家の方たちでやっていただけますんでね。
 この行事は、宗派にかかわらず町内の方々が来られますが、最近は高齢者が多くなりました。それと子供さんとその親御さんですね。火を囲んで餅を焼いたりする行事を体験させてやろうかな、というようなことでしょうか。
 お餅は、竹の先につけた針金にさして焼くんです。以前は、竹の先を割って、そこにはさんで焼いていたんですが、竹も焼けてしまうことから、針金がいいということになりました。始めのうちは火が強いですから、お餅はまっ黒にこげてしまいます。ですから、いわゆるあぶり初めみたいなことをして、あとは、自分のうちに持って帰って焼くという方が多いですね。1時間ほどたつと、火が落ちて、おき(木が燃えて炭のようになったもの)だけになってしまいますので、それからゆったりと焼く方もいらっしゃいますね。お芋を焼いたり、甘酒のサービスなどもありまして、終わるのは、だいたい8時半ころです。」

 ウ 歳末大売出し

 12月の声を聞くと、商店街では歳末大売り出しが始まる。**さんに、吉田商店街の歳末風景と着物への思いを聞いた。
 「歳末大売り出しは、吉田商工会では、例年12月1日から30日までやっています。会員さんが431軒おるんですが、去年(平成9年)の場合、参加してもらったのは92軒でした。準備、宣伝、福引きなど、商工会でとりまとめをさしていただいてます。福引き会場は、本丁、桜丁、本町の3地区に設営させてもらっています。吉田の場合、この4年間、特賞は10万円が3本です。ただ、歳末売り出しをしたからというて、それが売り上げ増進につながるという感覚は今はだれもないと思います。お客さんの方も、券をもろたけんありがたいという感じはあまりないんじゃないかと思いますね。
 呉服の場合は、昔から6、7、8月は一応閑散期なんですが、年末が特によく売れるというものでもありません。
 わたしとこの着物の柄は、わたしが考えて京都の染め屋(染め物屋)さんに頼むんです。下絵が送られてきますので、ここはこうしてくれというふうに直して返しますと、今度は青花(あおばな)いうて、白生地の上に特殊な染料で柄を描いてきます。青花いうのはのりですから、全部のくようになっているんです。それを見て、『これならいける』いうことになったら、正式に色を指定して、出来上がるのを待つわけです。ただし、そこには阿吽(あうん)の呼吸(気持ちがぴったりあうこと)いうのがありまして、たとえば、わたしの言う朱色と染め屋さんのいう朱色がイコールじゃないと着物づくりはできんのです。『こいつの朱はこれよ。』とわかってもらうまでの人間的つながりがないと。ですから、いろんな染め屋さんが言うてくるんですけど、新しい人にはほとんど頼んでおりません。いったんわかりあえれば、電話一本で『朱にしてや。』と言うだけで、『ああ、あれの好きな朱は……。』ということになるんです。阿吽の呼吸のお付き合いができるような人間的なつながりがないと別染めはできません。
 わたしは自分には感性はない、あるのはこだわりだけやと思っています。というのも、一般的な柄を染めたんではありきたりの店になって、都会の資金力のある店にはとても太刀打ちできません。こんな地方で呉服屋をやっていて、しかもお客さんに足を運んでもらおうと思ったら、都会のお店と同じことをしていたのではやっていけません。お客さんにうちに来てもらえるということは、たまたま自分の好きな柄がここにあるけんなんです。ですから、染め屋さんと話すときにも、『わたしとこが仕人れるんですから、好きなようにやらしてください。』言うんですがなあし(言うんですよ)。どの世界でもそうだと思うんですけど、すぐそこでオーケー言う染屋さんはまずだめです。容易に引き下がらん染屋さんの方がええ品ができますなあ。
 着物の用途としては、この宇和島圏域では、結婚式が6割、お茶会が2割、お七夜、お節句、年祝い、同級会などが残り2割くらいになると思います。今後、着物の需要が伸びるということはまずないと思います。今は、金もうけだけなら呉服屋はやめたほうがええくらいの時代です。しかし、呉服屋というのは、考え方によっては夢のある業種やなと思うてます。このお客さんにはこういう柄を、ということで作って、それがピッタリいって喜んでもらえたとき、これはもう、もうけ云々(うんぬん)ではないものがあります。商売冥利(みょうり)に尽きると思います。商売させてもらいながら、喜びをともにするというんですか、それがなかったら、呉服屋やめたほうがええと思うとります。」

 エ 誓文払い

 歳末大売り出しと期を一にするものではないが、かつて誓文払(せんもんばら)い(*36)の謝恩セールというものが行われていたことを記憶している人が、まだまだいるのではないだろうか。吉田でも今は行われていないが、人々の記憶の中には誓文払いが行われていた日々が息づいている。**さんに聞いた。
 「昔は誓文払いいうのがありました。年末にしよったように思いましたが、『親父の口のはた、みそだらけ』いうて子供らが町中を練り歩きながら、大きな声で言いよりました。ダイダイの中身を抜いて、縄を通して投げては、ポンポンいうて音をさしたりしとりました(*37)。この日は、田楽(でんがく)(豆腐)やこんにゃくに味噌(みそ)つけて食べよったですね。わたしらが覚えとるんですから、さあ、昭和の初めころまではあったんでしょうなあ。
 わたしらが生きとる間というのは、わずかな間じゃけど、くらしぶりはだいぶ変わってきましたもんなあ。小正月(こしょうがつ)や藪入(やぶい)り(*38)なんかも、わたしが子供時分には何かしていたように思いますが、今ころはもうしませない(しません)。家庭で餅をつこうかいうとこなんかも、ほとんどありません。ですから、もち米も、赤飯やなにかをしたり、祝い事なんかのときにぼつぼつ出るくらいで、大量に出るいうことはありません。『もち米を1斗』なんかいうところは、今は1軒か2軒しかありませない。最近は、もう何もかも平日とつい(同じ)になってしもうたけんなあ。特別の日というのがなくなりましたわい。
 わたしとこは米屋ですけど、米というのは年中コンスタントに売れるもんですから、季節季節でどうこういうことはありません。
 わたしが親父から米屋を継いだのは、昭和29年(1954年)の暮れですから、はや、45年ほど前よな。そのころは米穀通帳いうのがありましてなあ。戦時中、米が配給制になったときにできたもので、これがないと、米が買えんかったんですよ。つい最近までは、米屋の資格を取るのがかなりうるさくて、『おまえとこで米を買うぞ。』ということで登録してもらった数で決まりよりましたけんな、その証明書代わりに、通帳を米屋が預かっとりました。米の流通も、以前は米の卸屋さんが県内に3軒か4軒ありまして、そこらを通さないと、米は買えなんだんですけど、それも今は全部ばらけてしまいました。
 もう米屋いう商売は成り立ちませんなあ。昭和40年代から50年代は米屋はものすごくよかったんですが、やっぱり、米が余りだしてからはようありません。わたしとこは、米は玄米の状態でとってそれを精米します。昔は、つく日は1日に10俵くらいはつきよりましたけど、今はいけますかい(いけるもんですか)、売れ具合を見て、一遍に1俵か2俵ついたらええんですけん、始末がつきませない。機械もだいぶ遊びよります。
 玄米をつくと、ふつう10%ほど重量が減ります。これがだいたいヌカになります。ヌカも、以前は油を取るいうので、毎日集めに来てくれよったんですけどな。今はたいてい家畜の飼料で、値段も以前の5分の1じゃけん。いずれはこちらが金を出さないかんようになるじゃろと思うとるんですらい。
 わたしとこは、別に米屋やけんというわけではないんですが、今でも米をよう食べます。三度が三度、米で、パンを食べることはありません。うどん食べてもやっぱりそのあとで米食べますし。米は、栄養面でもパンよりもはるかに上でしょう。かといって、食べすぎても、どこかに(健康に)悪いとかいう話はまだありませんしなあ、米には。」


*35:吉田藩初代藩主宗純の寵愛をほしいままにしてその専横ぶりが目に余った、時の筆頭家老山田仲左衛門に対して、天和
  3年(1683年)足軽長兵衛ら8人がその殺害を企て、失敗し切腹を命じられた事件(②)。
*36:誓文払いとは、旧暦の10月20日に、商人が京都四条京極の冠殿に参詣して、商売の駆け引きでついたうその罪を払い、
  神罰を免れることを願ったのが、その起源とされている。なお、江戸では、この日は正月10日とともに「えびす講」の日
  で、商売繁盛を祈念するならわしがあった(⑤)。
*37:サザエの殼に縄を通してひきずりながら歩いたという話もある(②)。
*38:小正月とは、旧暦の正月15日、またはその前後の3日間のことで、元日を正月とする大正月が儀式ばった行事が多いの
  に対して、小正月は予祝行事や子供の行事など、生活に即した行事が多い。藪入りは、1月と7月の16日に奉公人が休み
  をもらい親元に帰ることをいう。近畿地方ではこの日を嫁の里帰りの日としてロクイリとよんでいる(⑤)。

写真1-3-40 八人様の祠

写真1-3-40 八人様の祠

平成10年11月撮影