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愛媛のくらし(平成10年度)

(2)ハレの日の主役

 ハレとはケ(日常)に対する言葉で、ハレの日とは非日常の、改まった特別の状態でのめでたい日である。ごちそうを食べる、美しく着飾る、はめをはずす等々、子供たちにとっても、ハレの日は楽しく待ち遠しいものである。ここでは子供たちのハレの日の一つ、「トウド」と「亥の子」について聞いてみた。

 ア トウド(*7)

 トウドは地方により表現が異なるが、「京都を中心にしてはサギチョウ、ドンド、それより西はシンメイサマ、京都より東では、サイトヤキ(新潟)、サンクロウ(長野)、オンペヤキ(静岡)」と言い(⑦)、その他にも、トンド、ドンドンヤキ、ホッケンギョ、サギッチョとも呼ばれているという(⑧)。小正月(1月15日)に行われる火祭りで、正月のしめ飾りや松飾りを1か所に集めて焼く行事である。「その火に体を当てると、丈夫になる、若返る。」「餅や団子をその火で焼いて食べると病気をしない。」「火に正月の書き初めをかざして、それが高く舞い上がると書が上達する。」など、火を神聖視する信仰と結びついていたと言われる(⑧)。1月15日の未明に行われる新居浜市大島のトウドは、平安時代に始まり、江戸時代も盛んであったという。その伝統が連綿と続いてきており、しかも子供たちが、深く関与していた。
 『大島の昔あれこれ(⑨)』には、トウドは、「一辺が2.5mから3m、高さ6mから7mの四角錐(すい)を孟宗竹で組み、中心に10mくらいの心棒を入れ、これに大幟(のぼり)を立てる。側は、年末に使ったスス竹をしめ縄で巻きつける。3分の1くらいのところに横に2本の竹(こうがい)を通して小幟をくくりつけて終わる。大幟には部落の名前、小幟には男の子の名前を書く。材料は子供が集め『とうど』は大人が作る(写真2-2-12参照)。これは大島では古く平安以前からあったと思われる。徳川時代も盛んであった。」とあり、さらに「(1月7日の七草の)次の曰くらいから、とうどの大幟や吹き抜き作り、10日ころから、家の前に蓬萊山左義長と書いた紙幟が立つ。海岸には、各部落それぞれに、悪病吹き抜けと、吹き抜きが、紅白だんだらの長い足が、パチパチと寒風になる。」とあって、正月三が日が終わると、島をあげてトウドに向かっていた様子がよくうかがわれる。

 (ア)仮屋(かりや)

 トウドにおける子供たちの役割は、トウド作りの材料集め、トウドの番をするための仮屋作りやその手伝い、トウドをはやす(燃やす)までの一晩のトウド番、そして大潮の干潮を見計らって、トウドをはやす時刻になると村中に触れて回り、村人みんなを参加させることである。この仮屋こそは、一晩中、だれはばからぬ子供たちの遊び場であり、子供たちの世界である。新居浜市大島の仮屋について、昭和10年過ぎまでの様子を、**さんと**さんに聞いた。
 まず大正期から昭和初期の様子を**さんに聞いた。
 「仮屋はトウドの番小屋じゃ。番小屋の中心には、高さ1尺(約30cm)くらい、土手の幅も30cmほどで、中の広さは半畳(約90cm四方)ほどの囲炉裏(いろり)を作る。番小屋は子供が作るのじゃないが、おじいやん、おとっつあんに教えられながら作るんじゃ。囲炉裏も『石置け、泥練れ』と言われて、泥を練って積み上げていく。それを木や板のような物でたたいていくんよ。その回りに30人ほどが入れるぐらいに十分に広さを取って、小屋の木を組んでいくんじゃ。『木と木はこう組み合わすんじゃ。ほら、それでは解ける。』『結び方は、足で踏んどいて(踏んでおいて)こう締めるんじゃ』とか、『十文字にするのはこう締めるんじゃ。』『上に乗せる木は重ねて締めるだけじゃなく、木の間に縄を通して、真ん中を締めてやったらゆるまずにくくれるんじゃ。』などと一つずつ教えてくれるんよ。じゃけんど(しかし)、肝心の隅の太い柱は、大人がしっかりと締めてくれよった。囲炉裏の上だけは煙抜きに開けて置いて、莚(むしろ)を屋根や壁代わりにするんじゃ。冬の最中じゃけん(だから)、囲炉裏で火をたかんと莚だけじゃから寒い。莚を2枚も3枚もくくったりしたな。子供らはそれぞれに、綿入れを着て、首巻きや、頬(ほお)かむりして集まったもんよ。潮の引くのは夜中過ぎるから、それまで餅を焼いて食べたり、話したり、外では相撲をしたり、追わいやいしたりしながら、トウドの番じゃ。トウドの幟、旗があるじゃろう。それを何枚破ってやったなどと言って、よそのトウドの壊しやいをしたりもしよった。だから、よそのが壊しに来ると、『西(西の町)のやつが来たぞ。長州(ながす)(上の町)が来たぞ。』と言って、石を投げて追っ払うんよ。仮屋で食べる物の煮炊きは、世話人があって、お母さんたちがしてくれるんじゃ。そこで炊いてくれた御飯を、すしをつけるはんぎり(底の浅いたらい状の丸い桶)を持って取りに行くのよ。その準備ができたら、『仮屋へ飯食いにこーい。』と触れて回る。そしたら、おかずは、自分とこにあるイリコじゃの、おこんこ(たくあん漬け)じゃのを持って、それにはしや茶わんを持って集まってくるんよ。そうした時に、食い抜けや大将らが、集まってきた小さい者から先にちゃんと食べらしてから、自分らが食べるように差配しよった。仮屋では御飯だけ用意するんじゃ。特別のごちそうなんか無くても、みいな(みんな)で食べるのがうれしかったんじゃろ。小さい子はにこにこしながら集まって来よったし、世話する者も気分も良かったんじゃろ。小さい子は『にいやん、にいやん』と言うて慕いよったな。仮屋の中は小さい子供たちもいることじゃし、お茶はこぼす、茶わんも転ぶ、地域中の子供たちのにぎやかな集まりじゃ、楽しかったものよ。今は仮屋を作らんし、食べに来ることもない。御飯炊いてくれるとこへ行きよるわ。子供たちだけで上の者が下の子を世話するようなことものう(無く)なってしもうた。」
 続いて**さんに昭和10年代の仮屋の様子を聞いた。
 「トウドの組の子供らは年齢によって、13歳が水くみ、14歳で新入り、15歳が大将、16歳で食い抜けと言いよりました。ですが、年によって子供の人数も違うから、小学校3年生でも入れたことがありますよ。食い抜けは高等科(*8)の2年生で、一番上です。経験者として、総監督のようなものです。大将がその次で、実際上は全部差配するんです。水くみや新入りは、小走り、使い走りの雑用係ですが、大将の指示でよく動きましたよ。
 仮屋作りは1月14日の一日だけではできんのです。仮屋はわたしどもが新入りのころから、今は埋め立てたから無くなってしもうたが、入り江の砂浜へ壕(ごう)を掘って作ったんです。この仮屋の広さは、40人ほどが入れるくらいの大きさで、深さは子供が中腰になったら頭が隠れるくらい掘るんよ。その真ん中に、火をたく囲炉裏を更に30cmあまり掘り下げる。そこは夜通し、薪をくべて暖が取れるようにするんです。だから暖かいけど、すすや煙で、目が痛くなるんじゃ。掘り下げて壁のようになった所へ笹竹を立て並べて風よけにするけど、天井は何もない。座る所には莚を敷きました。体をもたせかけるところにも莚をはって、所々くいを打ってとめたね。その中で、一晩過ごすんよ。風よけの笹は、正月前から山へ切りに出かけたですよ。でも必ず、大将が中心になってやるので、低学年だけで準備させるということはなかったですね。仮屋作りは、全部子供たちでやりました。当時は仮屋でぜんざいを食べましたよ。それは当屋(とうや)(頭屋。その年のトウドの世話をしてくれる家)のお母さんたちが炊いて持ってきてくれよったです。仮屋で食べる子も当屋へ食べに行く子もおりました。もちろん仮屋の番をする者以外の小さい子も、はしと茶わんだけ持ってきて、ふうふう言いながら食べてましたよ。小さい子に食べさせたり、トウドの番の交代などは大将たちが指図するんです。この一晩はお互いの地区で立てたトウドの壊しやいをするんですよ。だから番をしないといけない者10人ほどは、いつもトウドの側におらないといかん。目を離せんのです。トウドと仮屋はわたしの組は30mほど離れとったじゃろか。外にいると寒いからトウドの回りで相撲取ったり、自分たちで作った小さなトウドまがいのものを燃やしたりしながらの番ですよ。皆、綿入れやねんねこのようなものを着て、首巻きなどをしてました。風邪を引いて少しぐらい熱があっても来ずにおれんのですよ。皆が一緒に夜通し遊ぶじゃのいうのは1年に1回トウドの時だけじゃから。この仮屋での一晩は、食い抜けや大将が全部差配するんです。大人は直接には関与せんので、子供たちが責任を持ってやるんです。これがやがて大人の社会へ入っていくための訓練でもあったんだと思いますよ。」

 (イ)トウドおくりの準備

 同じく**さんにトウドの準備の様子を聞いた。
 「1月14日の朝、子供が学校の始業前に、各家用とせんち(便所)用の、すす払いの竹ぼうきやしめ縄を別々に集めて、トウドを組み立てる所に持っていくんよ。トウドで燃やす物は、どの家でも、ちゃんとくくって出してくれていたんです。トウドもセンチトウド(せんち用の竹ぼうきやしめ縄で作った小型のトウドのこと)も大人が作るんです。全部竹で組み立てるから、すす払いの竹だけでは足らんので、子供たちが正月前から竹を切って来よったです。わたしの子供のころは、トウドは、浜までかいて出しよったから、比較的軽く作ったけど、いかにして、よく燃やすかですよ。四角錐の形をしているトウドは中が空洞です。その中へ入れるものとして麦わらと、松葉を集めよったんです。まず5月の麦刈りの時に、たき付け用に麦わらを確保するんですよ。だから、その年の大将か食い抜けの家の人に頼んで、そこの納屋の一角に納めて、正月まで保管してもらうんです。それは子供たちがやるんです。次に松葉の確保です。冬になると大島は一年間分の薪を準備するんです。そのために木山(地域の人が生活のために薪などを切り出す山)から木を切り出すので、松の木を切り出した時に、松葉の束を、10束くらい分けてもらうんです。それをトウドの中へ入れるんです。それをしんにしてよく燃えるようにしとったですよ。」

 (ウ)トウドおくり

 続いて**さんにトウドおくりの話を聞いた。
 「夜半を過ぎて、3時か4時ころ、潮が引いて、トウドを燃やす時間が来たら、子供たちが『トウドかき出すきに(かき出すから)皆出てこーい。』と言うて触れて回るんです。『おーい、トウドかき出す言よるぞ。皆行こぞー。』と誘い合いながら、思い思いの格好で村中の大人も小さい子も皆出てくるんよ。1辺が3mほどで、高さ6、7mほどのトウドを担ぐのは大変じゃけんど、15日の大潮でように(よく)引いた砂浜へ、『よーんこい、よーんこい。』と言いながら、大人が皆でかき出してくれるんです。そして据えられたトウドの中には、松葉の束や各家から出された物を入れて、すその所に麦わらの束を立て掛けていくんです。そして大人5、6人が周囲にいて一斉に火をつけると、同時に火の手がパーっと上がるんです。勢いよく燃え始めると辺り一面が照らし出され、やがて、パーンパーンと竹のはじき割れる音が響きわたって、一層みんながどよめくんです。そうやって砂浜で焼いたんですよ。砂浜じゃから、潮が満ちてきたら、焼け跡もきれいに掃除してくれるんです。海はすべての不浄なものを洗い去ってくれるんです。」
 このトウドから火の手が上がる場面については『大島の昔あれこれ』の中で次のように記されている。

 「各部落のとうどが、前後して火をつける。夜風にあふられて、パチパチと気ぜわしく燃え上がる。子供の清書が、ひらひらと舞う。子供たちは声をかぎりに。
   『とうどやさぎちょうや もちのかげも きょうばかり きょうばかり』
パン、パン、パパンと鳴る度に、手足の取れた市松人形、壊れびな、古びた神札が飛び出る。七分がた、燃えると、明(あ)き方(ほう)(その年の歳徳神〔その年の福徳をつかさどる神〕のいる方角で恵方とも言う)に倒される。燃え残りの竹を、手頃に切って、お餅の上に灰を置いて帰る。竹は屋根に上げて、火災よけ。餅はぜんざいに。」

 **さんが食い抜けをした昭和14年(1939年)、大島の小学生は高等科2年までを含めると311人が在籍していた。若者も多くて島の人口も1,200人ほどであったとのことである。大島では今もこの火祭りの伝統は受け継がれているが、現在(平成10年)中学生8人、小学生15人という少子化や人口の減少の中で、かつてのような仮屋での生活も消え、長年続いてきた5地区のトウド送りそのものも、平成11年は4地区になった(*9)。

 イ 亥の子

 亥の子は、旧暦10月の亥の日に行う稲の収穫祭的色彩の濃い行事である。西日本一帯から南関東まで分布し、主に北関東に分布する十日夜(とうかんや)の行事と共通するものである。また、子供が藁(わら)ボテや丸石で家々をついて回るのは、藁ボテや石に呪力(じゅりょく)を認めて、悪霊を鎮圧し、大地の生産力を増そうとするものであろうと言われている(⑪)。本県の亥の子はゴウリンをつく石亥の子と藁ボテをつく藁亥の子がある(写真2-2-16参照)。ここでは北宇和郡日吉村上大野の石亥の子の様子について、**さんに聞いた。

 (ア)亥の子をつく

 「亥の子の役割としては、大将、先導、御殿持ち、会計、石持ち、幟持ち、笹の飾り持ちなどがありました。大将は高等科の1年生です。小学校6年で進級をやめた者や高等科以外の上級学校へ行った者は亥の子の組に参加する資格がなかったんです。わたしが高等科1年の時には、たまたま、大将はわたし一人でした。何となく心細くもあり心配もしましたが、伝統的なことでもあり、下級生が手伝ってくれてほっとした覚えがあります。大将は全体のことに気配りし、大事な仕事は、先導、御殿持ち、会計、石担ぎなどでした。こうした役は、その年の人数によって、上級生から順次その役目を決めていくんです。当時は、道の舗装もされてなければ道幅も1m足らずの細い道ですから、亥の子をついて回る時には、1列で動きました。まず先導、その後が幟持ちです。その幟も、だれが先頭で次がだれというように決めていました。続いて短冊飾りの笹持ち、亥の子石、御殿持ちの順番で、その後に飾りを持たない者たちが御殿を守るように並んで回ったものです。先導は、亥の子をついて回る順番を調べて、先導するわけです。わたしのころは、一軒一軒亥の子をついて回るのに、低いところにある家から高いところにある家の方へ、下から上へと、つき上げていって、決してつき下げるようについて回ってはならなかったですね。家々が広見川の両側にありましたが、片側をつき上げてから一度下に下って、また反対側をつき上げていくようなことをしたんです。この原則は必ず守りました。その順番を決めるのが先導なんです。御殿は、幅3、40cm、高さ50cm、奥行き30cmほどの小さな箱に屋根を乗せた形のもので、その中に、恵比寿様、大黒様の木像が並んでいるんです(口絵参照)。屋根の下に竹の棒を通して前後を担いで回るんです。当時の御殿は、銀紙とか色紙で飾っていました。各家に着くと、2体の御神体の前にろうそくをともし、お供えをしてその家の人に拝んでもらうんです。ろうそくは亥の子をつき終わると消し、それから、次の家へ御殿を担いで回るんです。その時、御祝儀をもらって帰るわけです。幟は、白、ピンク、黄色、赤とかの地色で、その上に、お亥の子様、恵比寿様、大黒様とか福の神とかの文字を、大人に墨で書いてもらったのを持って歩きました。幟は竹につけるんですが、竹の長さは1.5mほどで、多くても5本くらいだったでしょうか。幟は古くなると、篤志家(とくしか)がいて、寄付してくれていたように思います。笹飾りは、直径2cmほどで、長さ2mほどの笹に短冊をつけたものです。それを2、3本作って持っていくんです。短冊は色紙を切ったものや、色紙で様々な形を作ったもので、できるだけにぎやかにつけてました。ゴウリンさんは直径2、30cmほどの丸い、鏡餅の2段重ねのような形です。中央部がくびれていて、そこに鉄輪がはめ込まれ、その鉄輪の回りに更に小さな鉄輪が10個余りついています。その小さな鉄輪に縄をつけて、それを手にした子供たちが放射状に広がり、ゴウリンさんを一斉に引き上げてはつきおろすわけです。その時の亥の子唄(うた)がいろいろありました。亥の子唄は組ごとに異なっており、村内にも10種類近くあったと思います。上大野の唄は次のようなものでした。

 『ござっだ、ござっだ、お大黒様がござった。
 一に俵を踏まえて、二ににっこり笑うて、三に酒造って、四つ世の中良いように、五ついつもの如くに、六つ無病息災に、七つ何事無いように、八つ屋敷をうち広め、九つ小倉をうち建てて、十でとって納めた。
 西行の西行の、四国西国回れども、一夜の宿さえとりかねて、梅の木小枝で昼寝した。昼寝の夢には何を見た。奥の奥の奥山の、いざなぎ小藪の楠の木を、元伐り離して船に取り、枝枝おろして艪(ろ)に取り、船は船頭や艪は黄金、黄金柱をうち立てて沖の門中へ押し出した。沖の門中で艪が折れた、艪でもいかねば、櫂(かい)でやれ、櫂でもいかねば綱でやれ、綱でもいかねば歌でやれ。チンチンガラリヤ、ナンナンガラリヤ。鳴るは滝の水の音、今年の稲の出来ようは、殼が三尺、穂が二尺、唐箕(とうみ)にかければ二千石、お飯に炊けば増えの山、お酒に造れば泉酒、こいつでおいとま申しましょう。福はこの家へ納め置く。』

 唄は出だしから、『十でとって納めた』までを速いテンポで歌い、『西行の』から『綱でも行かねば歌でやれ』までをゆったりと歌い、つく速度を落とす。その後は、もう一度テンポを速めて、最後の部分はぐっと声高らかに力強く歌い納める、といった調子で緩急をつけていました。この唄を歌いながらついて回るわけですが、当時50軒ほどを全部つくと結構時間がかかるんです。子供にとっては亥の子はみんなが一緒について回ることも楽しみでしたが、それ以上に御祝儀をもらうのが楽しみですよ。それで、本当は上大野の中だけをついて回ればいいのですが、広見町との境にある滝谷(たきたに)と言う所までつきに行きました。そこは裕福な家が10軒足らずあり、1軒で50銭くらいもらえるんです。1円ということもありましたが、それが最高でした。わたしが昭和18年(1943年)に役場に就職した時の日給が80銭でした。わたしが大将の時が昭和16年ですよ。ですから1円もらうというのは、今で言えば1万円くらいもらったようなうれしさで皆で万歳と言うたものですよ。ですから、遠くてもそこからつき始めるんです。その結果、遅くなって夜11時ころまでついて回ることになるんですが、そこをのけられん(除くことができない)のです。そんなに遅くなるもんですから、夕食も自分の家に近いところで食べに帰り、残りの者で交代しながら続けるわけです。3軒ついて回る間に食べてこいなんて言ったものです。回って行くと、お亥の子唄は大人たちは皆知ってるでしょう。だから、子供たちが、間違ったり、飛ばしたりすると、大人の方から、『こらーっ、飛ばしたらいけんどー。』としかられるわけです。村の中は全部回らんといけんし、終わりごろになると疲れてもくるし、眠たくもなったですよ、それでも、回らんことには、御祝儀にはならんし、かと言って、適当にごまかそうとしたら、『しゃんとやれー、ごまかしよったら銭やらんどー。』なんか言う人が居るわけですから、途中でやめるわけにもいかず、また力を入れて最後まできちんと歌い納めたものですよ。そうやって、村のみんなが見守っていて、しかったり励ましたりしてくれたんでしょうな。わたしらも、最後まできちんとやらにゃいけんと思うたですよ。だから疲れとっても山の奥の一軒だけのとこでも、きちんと回ったですね。」

 (イ)初亥(はつい)の子までの準備

 **さんの話によると、亥の子の本当の楽しさは、当日だけではなくその準備と後の慰労会そして御祝儀の分配にあったとのこと。準備には1週間ほど前からかかったという。
 「学校から帰って、その年の宿になってもらう家に集まるんです。御殿を担ぐ竹を切ってくる、節も削っておく、笹飾りの短冊を切って飾る、そのためには皆肥後(ひご)の守(かみ)というナイフをポケットに入れてその準備に当たったものです。幟は竹に横木を付けて垂らすんです。そのために横木を差し込む穴をナイフで開けるんですが、穴の大きさをうまく開けないと、横木がぐらぐらしたり抜けたりするんですよ。ナイフの使い方も覚えたものです。案外みんなが手間取ったのが笹飾りのためのこより作りでした。こよりを初めはよることができない。しかし、教えられて段々に、よる術(すべ)を知っていくんです。何でも実際に自分でやることで覚えていくもんです。
 宿になってくれる家は、大体裕福な家でした。そういう家には大抵、蔵がありました。小学校の1、2年生のころは、お亥の子唄をまだ十分覚えていないんですよ。その子たちをその蔵の石段に座らせて最初から歌わせるんです。上級生は、その前に立ったり座ったりしながら、みんなの口の開き方を見よって『よし、お前はええ。』と順々に許可を出して、きちんと覚えてない者を残していくわけです。だれも残されるのは嫌だから一生懸命になって覚えたですよ。小学生でも責任をもってやることは結構できるんです。それに下級生も自分のことだから一生懸命になるんですかね。この1週間ほどは、疲れもしましたが、皆が一緒ですから楽しかったですよ。」

 (ウ)宿でのお祝い

 「上大野の地区の場合は、その年の最後の亥の子(*10)が終わった次の土曜日の午後から宿に集まって、亥の子石を洗い、笹や幟の始末など後片付けをして、晩には宿でお祝いをして皆で泊まり込むんです。翌日の日曜日には一日中遊ぶんです。これが何よりの楽しみでした。お祝いは、大将や会計が宿の人と相談して、何人いるか、御祝儀をいくらずつ分けられるかを検討するんです。宿の人が、その残りで賄ってやろうということになると、ごちそうなどは一切お任せするわけです。なによりも、米の飯をたらふく食べさせてもらうんです。うまかったですよ。御祝儀でもらった米は全部渡すわけです。でも、とても足らんかったと思います。20人ほどの子供が土曜日の夜と日曜日の朝、昼と食べたんですから。みんな一緒に泊まり込んで、かるた、しり取り、しっぺや、隠れんぼなどいろいろ遊んだものです。泊まり込んでるから朝食べる。日曜日は、お昼までお宮などの広場で、みんなが一緒に遊んで、昼飯も食べさせてもらう。年に1回のことじゃからということで宿の人が気を遣ってくれたんでしょうな。宿の人にはずいぶん迷惑をかけたと思いますが、今でも懐かしいし、感謝もしています。とにかく亥の子宿というのは大きな存在でした。その宿を決定するのは大将の仕事なんです。ずいぶん子供なりに気を遣いました。20人以上の者が泊まるし、迷惑をかけるわけですから。でも、めったに無いということで、その番が当たった宿の方は、みんな張り込んでくれて、ごちそうも作ってもらいました。わたしのころは子供が多かったですから、周辺10軒ぐらいで十分遊べましたよ。ですから、地域全体の小学校1年から高等科1年までがそろうて遊ぶというのは、その日ぐらいですよ。大将以下皆一緒に集まって、同じ物を食べ、同等に祝儀を分け、この一日だけは、手伝いから完全に解放されて遊びました。今の子供には想像できないくらい楽しい一日でした。」
 一度、途絶えていた亥の子が、今、地域おこしなどで復活し、愛護班の活動の中で受け継がれているところも多くなっている。ただ、子供が少ないこともあって、親が関与しなければ続かない状況もあるようで、**さんは、「せっかくの子供の行事だから、形骸化しないで、子供たちが、自分たちで計画し、自分たちなりにやり通してみることで、苦労も楽しみも味わってみる、そんな形で受け継いでほしい。」と語っていた。


*7:『新居浜の文化財(⑩)』によると大島の「とうど」は、新居浜市の無形民俗文化財に指定され、その名称は「とうどお
  くり」であるが、本報告書では民俗用語表現として「トウド」の片仮名書きを採用した。
*8:明治41年(1908年)から昭和15年(1940年)までの小学校には尋常科(義務教育6年制)と高等科(原則として2年
  制)が置かれていた。
   高等科へは、中等学校(中学校や高等女学校など)への進学者や全く進学しない者以外の者が進学した。
*9:大島は5地区あって、東から、上の町(昔は長州と言った)、中の町、築の町、西の町、宮西町である。そのうち、築の
  町は高齢化や人口の減少で、トウドの作り手が少なく、平成11年からは作らなくなった。子供たちも少なくなり、昔のよ
  うに5地区での仮屋の番はできない。今は、子供の一番多い宮西町の集会所に島全体の子供が集まり、一晩を一緒に過ごす
  ことでかつての仮屋生活の名残りをとどめている。
*10:乙亥のことを言う。1か月のうちに亥の日が年によって2回または3回ある。それを日吉村では初亥(はつい)、中亥(な
  かい)、乙亥(おとい)と言う。2回しかない年は中亥が無い。

写真2-2-12 はためくトウド

写真2-2-12 はためくトウド

平成11年1月撮影

写真2-2-16 亥の子に使うゴウリン(上)と藁ボテ(下)

写真2-2-16 亥の子に使うゴウリン(上)と藁ボテ(下)

平成10年12月撮影