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愛媛のくらし(平成10年度)

(1)働き手として

 ア 大島

 大島では昭和の初めころは、田はほとんどなく、麦やサツマイモが主体で、後はツワブキが主産物だったそうである。漁は網漁で、東は播磨灘(はりまなだ)から、西は豊前(ぶぜん)(大分県)や日向(ひゅうが)(宮崎県)などの沿海に出ていた。漁業に携わる家庭では、3月の節句過ぎからは父の居ない日が3か月も続いていたという。そうした中で子守り、水汲(く)み、ランプの火屋(ほや)(ランプなどの火をおおうガラス製の筒)磨きは子供の仕事であった(写真2-2-19参照)。さらに、雨の日は山の仕事はできないから、親が家にいて、子供も一緒に縄をなうなどの手伝いをしていた。今も半農半漁ではあるが、網漁が多く一本釣りはほとんど居ない。農業はミカン、サツマイモとツワブキなどを栽培しており、麦作りはほとんどなくなったそうである。

 (ア)ランプの火屋磨き

 **さん、**さん、**さんに聞いた。
 「子守りをしながら、ランプの火屋磨きをしよりました。わたしは手が細かったから、火屋の先まで手が入るんじゃ。お母さんが、晩に畑からもんて(戻って)きて、火をつける時、ちゃんと掃除してなかったらしかられるんですよ。晩の皆の明かりですからね。
 ランプは、早く磨いとけば(磨いておけば)いいけど、子供だから、後でやろうと思って遊びに飛び出すでしょう。その内に、遊びの方が勝ってしもうて、『ああ、ほうじゃ(そうだ)と思い出して、慌(あわ)てて飛んでもんて一生懸命磨いても、夜、長い間使っとるやつは、すすが焦げ付くようにこびりついとるもんだから、なかなかのかんのです。水につけて、少しごしごしとこすったら、のきやすいんじゃけど(のきやすいのだが)、乾いた布できれいにふき取って、十分に乾かす時間を置いてないと、親がもんてきて火をつけた瞬間にファーッと真白になってパチーンと割れてしかられる。だから、簡単にのくいうても、横着な磨き方はできんのです。
 普通は、ハーッと息を吹き込んでは、手を火屋の中に突っ込んで磨くんです。息を吹き込むのも、ランプに顔を引っ付けて、火屋の中へ吹き込むんです。すっとのけばいいけど、かなりこすらんとのかないんですよ。火屋の大きさがあるから、小さい手の子供の仕事なんです。手が入りにくいと、太鼓のばちくらいの太さの木に布を巻きつけて、それをこすりつけるように回しながら、すすを取り、磨くわけです。これをきちんと磨いておかないと、明かりが採れないから皆が困るわけです。それを本当にきれいにするには30分ほどかかったね。」

 (イ)サーゲで水運び

 **さんに水汲みの様子を聞いた。
 「井戸の水汲みだけは生活と絶対に切り離せない、子供の毎日の仕事ですよ。1石5斗(1石は10斗、1斗は18ℓ)くらい入る水がめがあったんです。陶器のかめですよ。炊事や飲料水に使う水入れです。大島では、個人で掘ったり、近所の何軒かで掘ったりした井戸もありましたが、各家の全部には井戸がまだ無かったです。だから炊事用やふろの水も共同の井戸から汲んで来るんです。それが島全体で五つくらいあったでしょうか。その共同井戸は滑車を取り付けた、据え付けのつるべではなかったんです。それにしたら一人ずつしか汲めないから、何人もがかち合ったら、待ちよらんといけんでしょう。だから各人がつるべを持って汲みに行くんです。井戸は結構大きくて、直径が2m以上あったでしょうかね。だから4、5人が一緒につるべを落としても、それを引っ繰り返して汲むことができるんです。つるべ3杯分くらいの水が入る『サーゲ』という桶二つを満たして、それを天秤(てんびん)棒で担いで帰るんです(写真2-2-20参照)。わたしの家から共同井戸まで150mくらいありました。夕方になれば必ず家の水がめを満タンにして、さらに水を汲んでくる桶も一杯にして置かんといけんかったんですよ。夕方親がもんてきた時、しとかざったら(しておかなかったら)、夕飯の段取りが違ってくるから、それこそ怒られる。それが子供のわたしの役目なんです。」

 (ウ)身だめの女中奉公

 **さんと**さんに話を聞いた。
 「(**さん)大島では男も、長男以外の者は独立せんといけんから、ぼつぼつ、出奉公に行きよりました。よその飯を食わせて修業をさすんです。もっとも、家族が多いから口減らしの意味もあったかもしれません。島の女はほとんど行ったですよ。女の子の場合は、経済的には行く必要がない家庭でも、行儀見習いの女中奉公に行きよったです。そこでは、晩に裁縫を教えてくれたりしました。ところが朝早うに起こされるもんじゃから、お裁縫しよるころになったら自然に船をこぐようになるんですよ。『ほれほれ、寝よったら縫えんぞね(縫えないよ)。』と注意されるんですよ。はっと気がついてやるんじゃけんど、また知らんまに眠りかけるんです。その繰り返しでした。」
 「(**さん)わたしは一人子じゃけん何でもさせてやるというて、父が縫い物を習わせてくれていたんです。でも、嫁にやる子じゃけん、1年でも奉公にやって窮屈なこともさせておかないといかん、というので奉公に出たんですよ。奉公先から1年間で120円もらいました。昭和の初めとしては、恵まれたお給料じゃったそうです。でも1年間勤めるのは、そりゃあ窮屈でした。奉公先では、朝早くから掃除、洗濯、御飯炊き、漬物作り、何でもやりました。奥さんが漬物のことは特にやかましい人じゃったが、お陰で今でも漬物作りは上手ですよ。野菜は畑があって、女中に行ってる者が作るんですよ。」
 「(**さん)わたしは上女中(かみじょちゅう)じゃったんよ。上女中というのは、子供さんの世話を全部するんです。掃除しても旦那(だんな)さんや奥さんのいる上の方の部屋だけ。坊っちゃんやお嬢ちゃんの世話が主で、奥さんが親せきの家へごあいさつに行く時には、奥さんの下駄をそろえて、お土産をわたしが持って後をついて行くんです。奉公へは高等科1年を終えてすぐ出たんです。奉公は1年が区切りじゃったから1年がすまんと帰れんかった。大島からは岡山、大阪、神戸あたりへの奉公が多かったね。」
 「(**さん)奉公は、身だめ(自分の身のため)じゃと言いよりました。奉公に行って人の『飯』を食うとったら、『割が入っとる(苦労しとる)。あの子ならどこへ行っても辛抱できる。』と言うて、嫁のもらい手も多かった。途中で、辛抱できずに、帰ってくると、『あれは無奉公(ぶほうこう)しとるからいかん。』と言われたりしたですよ。結婚するんでも今とは大違いじゃね。それにしても、今で言うたら、中学校の1年生か2年生だから、親元を離れたよそ様の家で、一人で朝早くからよう働いたもんですよ。」

 イ 八坂

 昭和10年(1935年)ころの八坂地区は、日常生活にかかわる商売をする店も多く、衣食住に関する職人、あるいは勤め人が住む町であった。なかでも唐人町1丁目から湊町1丁目にかけては、松山を代表する伊予絣(いよかすり)の製造元のほかにも、10軒ほどの伊予絣にかかわる仕事(糸を染め、反物に織る)をしている家があり、にぎわいのある地区であった。そうした中で、小学生の子供が決まってしなければならないという手伝いは、お使いなどの他はあまり無かったとのことである。

 (ア)カンテラ仕入れ

 「(**さん)わたしの家はガラス屋でした。わたしが子供の昭和10年ころは、電気はついていたが裸電球じゃった。郊外からは、まだまだランプの火屋やしんなどをよく買いに来とりました。納屋、牛小屋等で使うのか、カンテラランプも買いにきていましたよ。ある日、父親の言いつけで、カンテラを三津浜(みつはま)(松山市)まで仕入れにいったんです。当時の足は自転車ですよ。三津浜までおよそ2里(1里は約4km)たらずでしょうか。松山商業学校(今の県立松山商業高校)の前を通り、御宝町(みたからまち)へ出て、上一万、城北練兵場(今の愛媛大学所在地)から松山高商(今の松山大学)の北側を通り古町(こまち)へ出ました。やがて三津街道をえっちらおっちら自転車をこいで、三津浜の商店街へ入ったんです。『やれやれ、やっと着いたか。』という思いでしたよ。当時の三津浜商店街は、人足(ひとあし)も繁く、繁盛していました。仕入れ先の店はすぐに見つかったです。中へ入ると番台に一人の老人が座っていて、店内はいろいろなガラス器具、瀬戸物から船舶用品が所狭しと飾られてるんです。その品物の豊富さにはちょっと驚きました。『こんにちは、松山の**から来たのですが。』『おう、**のボンか。よく来たのう。茶を飲むか。』といきなり、ぐい飲みのような小型の湯飲みに茶を入れてくれたんです。のども渇いていたので一気に飲み干したら、これがうまかった。『もう一杯飲むか。』と言うんですよ。『ええ、いただきます。』とまた一息に飲んだことを覚えています。わたしは、今でもお茶は一日に10杯は飲むんです。どうもあの時の影響かなとも思ってますよ。この当時の運搬の手段は道路では、主として牛車、馬車ですから、自転車でどこを走っても安心でした。三津街道の難所、衣山(きぬやま)の坂道もペダルを踏んで往来したものです。実にのどかなものでしたよ。」

 (イ)わたしにも手伝わせて

 「(**さん)町中では、家の手伝いはほとんど無かったです。でも、**さんのおじさんが、フナを焼いて粉にして小鳥のえさを作ってました。くしにフナをさして焼くのを手伝いたくて、よく見に来てました。やらせてもらうとうれしかったですよ。また、近所の家でしていたんですが、タオルの縁の房をくくる手伝いがしたくてやらせてもらったりしましたよ。でも、それも遊びですよ。子供のころは、大人のやっていることは何でもやってみたくて、やらせてもらうととてもうれしかったですよ。後は、お使いに行くぐらいで、これといって、決まった手伝いは無かったです。それより遊ぶことに夢中でした。」
 絣を織るためのカセ糸巻きのことについて**さんと**さんに聞いた。
 「中の川筋には伊予絣の機屋(はたや)さんが大分ありました。糸を染める時に絣の模様にするために、カセ糸の、所々を糸で何重にも巻いてくくってあるんです(写真2-2-21参照)。その部分だけは染まらないで、くくり糸を解くと白く残るんです。織っていくと白と染めた色との模様になるんですよ。染める時には何百mもの1本の糸を、直径1mほどの束にして染めているんです。染めた後、そのくくった糸を解いて、カセと言う糸巻き道具(写真2-2-21参照)に巻きとっていく仕事があるんです。石手川土手の道路の内側の広い場所でそれをやってました。その時はもうくくり糸は解いていましたが、染め上がったカセ糸をカセに巻き取るために一度張り伸ばすんです。10mほどの間隔でくいを打って、それにカセ糸をピーンと張って伸ばしたのを、緩まないように張った状態で、歩きながら糸巻き道具のカセに巻き取っていくんです。家族でやりよったですから、子供らは皆手伝いよったですよ。見ていて面白いので、わたしらも邪魔じゃったろうけど『やらせて』と言ってしたことがありますよ。向こうの端まで巻いていくのに、なかなか、うまく巻けないので長い間かかりよりました。緩まないように巻こうと少し引っ張ると糸が切れてしまうんです。そんな時はおばさんが、すぐに結んでくれたりしました。ただ巻くだけなのに難しかったですよ。そんなので、土手の公園は一杯じゃったですよ。」

 ウ 日吉村

 山間部にある日吉村は、傾斜地がその大部分を占め、その90%以上が山林で平たん地が少ない。勢い山林を切り開いて畑を作って生活を支えてきた。せっかくの山林も奥地では大正期に車道ができるころまで、林業として成り立たなかったという(④)。4人の方の話では、子供のころは農家がほとんどであり、両親も祖父母も働けるものは皆、山や田畑へ出かけ、子供たちも家での子守りはもちろん、山や畑に出ても手伝うことはいくらでもあったという。現金収入の道も養蚕か製茶くらいで、普段の小遣いなどはほとんど無かったとのことである。

 (ア)貧しさの時代の中で

 **さん、**さん、**さんに話を聞いた。
 「日常の生活は、家族ぐるみで一家を支えていたですよ。当時は夕方になるといろんな音が各家から聞こえてきました。年がら年中ですよ。草履(ぞうり)作りや縄作りのためのわらをたたくトントンという音。普段の主食は麦やトウキビ(トウモロコシ)ですよ。そのキビを石臼(うす)(写真2-2-22参照)でひくガラガラという音。やぐら臼(足で踏んでつく臼)で麦をつくドスンドスンという音。これは主婦や子供の仕事じゃったね。それは嫌でもやらなければいけないものと思うてました。子供は、少ないとこで5、6人、多い家は10人以上の兄弟姉妹ですよ。物不足の時代で、子供が10人ほども居て、隠居さんまでおったら、着る物も履く物も皆に良い物なんか無理でしょう。どこの家でも兄や姉から順々にお下がりの古着をもらい、下の子が新しい物を着せてもらうことは、まず無いくらいでした。着る物は全部継ぎ当てをしたものですよ。冬になると、鼻汁を袖(そで)の先でふくものだから、そこだけテカテカ光っておったりしたです。そういう物を着たり、履いたりして学校に行ったですよ。草履も、小さい時は別ですが小学生の中・高学年になると自分で作って履きました。
 食べる物もイモかトウキビか麦。米はほんの少しで、トウキビの黄色いのを、卵の黄身に見立てて『卵飯』と言いよったな。たくあんの漬物は『卵焼き』と言いながら食べたものですよ。米を作っていて、たくさんあるところは、一日(おついたち)、十五日(おじゅうごにち)、三十日(みとうか)の三日間はお米を食べたようじゃが、普段は丸麦を入れて30分ほど炊(た)いて、麦がほどほどに軟らかくなったら米を入れてさらに炊いた。その割合は7(ひち)・3(さん)、8(はち)・2(に)とか言よったですよ。五分・五分(半麦(はんばく))の飯は、村でも少なくて『あそこは、半麦を食べよるんじゃと(食べているのだそうだ)。すごいなあ。』そんな声がありました。副食はみそと漬物がほとんどでした。正月やお盆の時には、イワシや塩サバなどがついてましたが、普段は梅干しやらっきよ、イリコがあれば上等じゃった。それでも、山のものは、わたしらも大人と一緒に採りに行って、よく食べたですよ。マツタケ、ウド、ワラビ、ゼンマイなど、それぞれ食べ方を工夫してな。肉なんか買ういうことはなかったんじゃが、親父(おやじ)が『わさ(わな)』をかけて、キジやウサギを捕ってきてくれよった。
 今もかも知らんが、その当時は、貧富の差がひどかったな。ここらでは現金収入というたら、ミツマタ、養蚕、お茶くらいでそれ以外にはほとんどなかった。そんな状況じゃから、親がどんなに苦労して育ててくれたかということは、子供なりに感じ取ってましたよ。だから家族の日常の生活を支えるために、親も子もみんなが働いたものです。」

 (イ)アソウザ

 **さんと**さんに話を聞いた。
 「わたしらの子供のころは、各家で牛を飼っていたんです。多いところでは3頭ほど、大抵1頭は飼いよったですよ。朝、夜が明けかかると、鎌と負いこ(写真2-2-23参照)を持って、牛にやるえさの草を刈りに行くんです。これをアソウザと言うとった。朝業(あさわざ)からきた言葉でしょうか。刈った草を束にして、子供でも5、6束も負いこで背負って帰るんです。それも夏の朝早く、薄暗いうちに行くんです。日が昇り暖かくなるとカツボ(ブユのこと)が出始めて刺されるとかゆくてたまらないんですよ。ハチも活動し始めるから、時には刺されることだってある。だから、それらが出ないうちに草を刈らんといけんのです。その、朝の草刈りを終わってから朝御飯を食べるんです。男の子は小学校の5、6年になると、朝どんなに眠とうても(眠たくても)起きんかったら、『お前、草刈りに行かんかったら朝飯は抜きじゃ。』と言われるんです。いやも応もなく、起きて行ったですよ。寝起きのアソウザだけじゃなく、学校から帰ると水汲みとか、薪寄せとかランプの掃除とかは、やっておかないとしかられるんですよ。子供も子供なりの仕事をせんと、みんなが生活できんのです。しんどいから、嫌じゃからせんでは済まんのですよ。」

 (ウ)牛の鼻やり

 「(**さん)春の田植えや秋の麦まきのころになると、牛で田を耕すんです。その時、牛の鼻やりというのをやらされました。父がすきと牛綱を持って、方向指示をしながら牛を後から追うんです。わたしが牛の鼻輪の部分を持って、まっすぐ進むように引っ張ってやるんですが、恐ろしいもんですから、その鼻輪の部分に短かい竹をつけて、その竹で引いていたんですよ。ところが牛にもいろいろなのがおって、とてもわたしの思うようには動いてくれないんです。父は掘り起こしたり、畝(うね)を作ったりしようと思っても、牛が横へ動いて、まっすぐに動いてくれないと、それができない。もう一度そこをすき直さんといけんのですよ。その時には父に『恐ろしそうにするな。しっかり引け。』と怒られたりしました。後に、自分がすきを持って、子供に鼻やりをやらすとうまくいかんので、ついつい怒る。夫婦喧嘩の元になったり、そんな思い出もあります。」

 (エ)農作業の手伝い

 「(**さん)手伝いは何でもが嫌じゃった。麦の中の草引きは、麦が芽を出す1、2月の寒いころですよ。その時に、麦の下草引きをせないけなんだ(しないといけなかった)。なんぼ(どんなに)冷たかろうがその草引きをやらされたんです。お彼岸までにはそれを済ませておかんといけんですから、子供でもだれでも人手が欲しいんです。麦は何十俵も作りまして、臼でつかされましたよ。しんどいから、途中で止めると、『もう少しつかんか。』と言うてげんこつを入れられました。そうやってついたものです。臼は、やぐら臼と言って、シーソーのような形で、片方に体重をかけて踏んで、反対側を上げて、足を離すとドスンと落ちて麦をつくような形になっていたんです。それがしんどくて嫌だったですよ。でも『つかんかったら、御飯が無いぞ。』って言われたですよ。
 くれたたきもやりました。田の稲株を一つ一つ掘り起こしたのを『くれ』と言つてましたが、それをたたいて砕く作業がありました。力仕事で疲れるんです。嫌でたまらんかったですが、それでも食べるためだからと言われてやりました。それから、田の草取り、これも嫌でした。イネの根の回りの雑草を、一株一株両手で取り除いていくんです。ひざをつかずに田をはいずり回ってるようなもんじゃった。腰は痛くなるし、しんどいじゃの言うもんじゃなかったですよ。でもやらんといけんのですよ。山も手伝いの場でした。草を刈ることができるようになったら、山に追いやられたですよ。酒屋さん、お店屋さんの子らは毎日学校で遊べたんですが、山手におる者は、皆、親の手伝いをしたものです。ただ、遊んでばかりおったら、『あそこの子は極道されじゃ』と言われたりしたですよ。その『極道され』にならんためには、自分からやらんといけんという気持ちも幾分かはありました。小さいころは、大したことはできなくても、やっているうちに次第にできるようになっていくんです。しかも体で覚えたことは忘れんですよ。」

写真2-2-19 ランプ

写真2-2-19 ランプ

平成10年11月撮影

写真2-2-20 水運び用のサーゲ

写真2-2-20 水運び用のサーゲ

手前に並んでいるのがサーゲ。後方に見えるのが水溜めようの水がめである。平成10年11月撮影

写真2-2-21 絣織りのためのカセ(糸巻き道具)とカセ糸

写真2-2-21 絣織りのためのカセ(糸巻き道具)とカセ糸

平成10年12月撮影

写真2-2-22 トウキビや大豆などをひく石臼

写真2-2-22 トウキビや大豆などをひく石臼

平成10年12月撮影

写真2-2-23 荷物を背負う負い子

写真2-2-23 荷物を背負う負い子

平成10年12月撮影