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愛媛のくらし(平成10年度)

(1)母屋を譲る

 ア 愛媛の隠居制

 家長が老後実権を息子など継承者に譲り、隠居の境遇に入るということは、県内全域で一般に行われていた。しかし、「隠居制といえる慣行のあるのは、上浮穴(かみうけな)郡(*1)方面と南予地域である。(①)」という指摘がある。その隠居制の特色の一つに別居隠居が多いということが挙げられる。別居隠居とは夫婦の生活を基調にしたものであり、親子関係を根幹とした直系家族の維持を志向しながらも夫婦関係を重視した家族制度であると考えられる。河野正文氏は、「『父子婚所を共にせず』として、同一家族内に複数の夫婦が同居することを忌避しているかどうかによって、南予地方と東予地方とでは事情が違っていたことがわかる。南予地方では別居が当然とされ、だれもが同居を原則的に忌避しており、この慣行がむら社会のなかでひとつの制度となっていた。これに対して東予地方では常に同居を志向しているにもかかわらず、何らかの理由でやむを得ず隠居することの方が多かった。(②)」と述べている。また、『宇和地帯の民俗(③)(*2)』では、この地帯の隠居慣行の特色を次のようにまとめている。

   A たいていの家に常設のヘヤ(隠居所)があり、別居隠居の習慣が活発であること。
   B 嫁入婚にもとづく別居隠居で、本来隠居年齢は比較的低いとみられること。
   C ヘヤは寝泊まりだけで、食事や仕事はオモヤ(本宅)と共同にするのが一般で、隠居は別居・同食・同財型であるこ
    と。
   D ヘヤにはオトシタ(弟妹たち)を全部連れて行くが、そのヘヤをもって分家創立にあてる慣行(隠居分家)がないこ
    と。
   E 先に若夫婦をヘヤに入れ、後に世渡し・隠居に際して老夫婦と寝所を交換する、いわゆる嗣子(しし)別居の習慣があ
    ること。
   F 隠居者による講組織などが盛んであること。

 本来隠居制とは、別居、別食、別財であることを原則とするものであるが、その実状は、それぞれの地域の慣習、各家庭の事情によってさまざまな形態をとっていたように思われるが、このまとめは、宇和地帯ばかりではなく、南予民俗文化圏全域の隠居制を考える上で参考になる。以下『宇和地帯の民俗』に倣って本宅をオモヤ、隠居所をヘヤと片仮名で表記する。

 イ もんて来んか

 **さん(東宇和郡城川町嘉喜尾 昭和8年生まれ 65歳)
 **さんは地元城川(しろかわ)町嘉喜尾(かぎお)の出身、長い教員生活の後、現在町の社会教育指導員を務め、城川町の今昔を熟知している人である。

 (ア)くらしの変化と隠居

 「隠居する年齢については、ある程度の目安はあったと思うが、何歳になったらというようなことではなかったと思います。隠居する大きな理由は、『わしも年を取り、仕事も大儀になった。若いお前らに任せたい。もう休ませてくれ。オモテバリもようせんから(公的な地域との付き合いもすることができないから)やってくれ。』というようなことだったと思います。もともと自給自足のくらしをしていた地域だから、生きていくためには田畑に出て働き続けなければなりません。いくら鍛えた体でも年を取れば体力も衰え、一家を支えていくのはしんどい。一方、若い者(後継ぎ、特に長男)も小さい時から家族の中での位置付けがはっきりしており、後継ぎとして育てられていて、自覚ができているので、多少の不満はあったとしても、おやじの言うことに従って、一家の中心としての責任を果たすことになったのです。
 家の実権を譲って隠居した親は別棟のヘヤに移り、オモヤには後を継いだ息子とその家族が住むことになります。同じ屋敷内で親子別居の生活が始まるのです。その際、新たにヘヤを建てて住むか、もともと建っていたヘヤに入るか、どちらかだが、すでに建っているヘヤに移る場合、そこに先代の隠居がまだ住んでいれば、一緒に住むのが一般的でした。城川町の高川(たかがわ)地区では、隠居の年齢が低く、次の隠居ができると先代の隠居がヘヤを出て別の隠居所(閑居(かんきょ)という)に移ったという話がありますが、この3世代別居というのはめずらしい事例だと思います。ところで隠居をする親が比較的年が若い場合には、後継ぎ以外の子供たちを連れてヘヤで生活をすることもありました。その子供たちは、分家をしたり、嫁いだりした後、里帰りする折にはオモヤではなく(オモヤにはあいさつ程度)、ヘヤに帰ってきたようです。彼等にとっては生まれたのはオモヤでも、ヘヤがオリヤ(生活する家)になったのです。同一屋敷内のオモヤとヘヤの位置関係にも昔からの慣行があり、例えばオモヤの東側にはヘヤを建てないとか、オモヤより高い土地にはヘヤを建てないとか言われています。家はオモヤが中心だという観念の表れでしょう。財産などどうしたかと言うと、それぞれの家の事情によって当然異なりますが、オモヤが6または7、ヘヤが4または3の割合で分けるのが一般的だったようです。
 昔からの隠居の慣行は今でも息子夫婦とその子供たちがオモヤでくらし、隠居したじいちゃん、ばあちゃんがヘヤに住んでいるという形で残っています。しかし、以前に比べると少なくなりました。その原因の一つは農村社会の変化にあるように思います。昔は親子共同で農業をやっていた。貧富の差はあっても、食っていくため家族全員が力を合わせて働き、くらしを守っていた。それが崩れたのです。子供たちはよそに働きに出て行く。農業だけでは生計を立てることができないので、後継ぎの長男までも、農業を両親に任せて都会へ職を求めて出てしまい、そこで世帯を持つようになる。そうなると老夫婦は隠居してヘヤに移るというわけにもいかず、オモヤを守り続けることになります。現に、隠居したいのだが、長男がよそで生活していて戻るかどうか分からないので、ヘヤで静かにくらしたいという老後の計画が立たないと嘆いている人たちがいます。戻る気があるのかと確かめてみると、いずれは戻ると言う。しかし、いつになるかはっきりしない。また、働き盛りの後継ぎが帰ってきても農業だけではくらせない。どこか職場を探さなければならないが、就職先がおいそれとは見つからない。家をどう守っていけばよいのか、あれこれ悩んでいるお年寄りが案外多いのです。もう一つの原因としては、家というものに対する意識の変化が挙げられます。戦後、民法が改正され、良し悪しは別ですが戸主を中心とした家の制度が廃止(*3)されました。それに伴って家を継ぐとか家を守るとかいう気持ちが薄らいできました。必ずしも長男が家を継いで親の面倒をみる必要はないという考えも生まれてきました。もう子供には頼れない、自分たちのことは自分たちでというのが今の親たちでしょうかね。ともあれ、隠居制というのは、子供(主として長男)が家を継ぎ、親の面倒をみるという社会の中で続いてきた慣行だと思います。親子が近く(同じ屋敷内)に住んでいて互いに助け合っている姿を見るとうらやましく思うし、また、そのような家には何か安定感があるように思われるのです。」

 (イ)ヘヤの新築計画

 「わたしが子供のころ、両親は野良仕事や山仕事で忙しく、祖父母が面倒をみてくれていたので、おじいちゃん、おばあちゃんのいるヘヤにはよく行き、泊まることもありました。わたしが親になって思ったことは、孫をみてくれるおじいちゃん、おばあちゃんがいるということは親にとって大変助かるということでした。小学校から帰った時、おじいちゃん、おばあちゃんは必ずいてくれる。ずいぶんかわいがってもらいました。ですからヘヤというのは、わたしにとっては子供のころの思い出がいっぱい詰まっている懐かしい場所です。ヘヤには仏壇があり、祖父母が先祖を祀(まつ)っていました。ただし、小さい時に死んだわたしの弟の位牌(いはい)はオモヤにあり、父母が供養していました。
 わたしの父は亡くなりましたが、母は健在です。父が亡くなった時、現職の教員でしたから、お願いして実家から通勤できる学校に転勤させてもらい、母親と一緒に住むことにしました。その際、母親のためにヘヤを建て替えようと思い、『ばあちゃん早いことつくらないけんなあ。』と言うと、母親が『一緒におらさんか。』と言うので、無理にヘヤを建てて一人ぐらしをさせることもないので、同じ屋根の下でくらすのはよいが、世間でよくある嫁と姑(しゅうとめ)の問題が起こるかもしれない、それでもいいかと一応念を押して、それ以後ずっと一緒にくらしています。母は現在86歳、いまさらヘヤで隠居ということもない。むしろ母の体のことを考えると、一緒にくらしている方が何かと安心です。
 ところが、今度はわたしの方がぼつぼつ隠居を考える年になりました。わたしの息子は現在大洲市でくらしているが、『お前どうぞ(帰る意志はあるのか)。』と聞くと『帰る。』と言います。それならばヘヤを建てなければならないと思い、山から木を切り出し、製材して、いつでも建てられるように大工さんにも話をしています。ところが、それからもう3、4年たつので、大工さんからは、『先生、もうあの木は相当乾いたぞな。はよ(早く)建てりゃいいのに。』と催促されています。『まあ、もうちょっと待ってくれや。』と答えている現状です。息子の仕事のこともあり、孫の教育のこともあってなかなかうまくいきません。
 オモヤとヘヤとで別々にくらすといっても同じ屋敷内だからわずらわしいことがあるかもしれません。しかし、親子が近くにいていつも会えるというのは互いに心丈夫です。互いに助け合うこともでき、親から子へいろいろ伝えることもできます。息子の嫁にとっては多少息苦しいことがあるかもしれないが、完全な同居ではないからそれほど気を遣う必要はない。それが別居隠居のよさでしょう。このような隠居の慣行をできることなら残しておきたいとわたし個人としては思っています。
 いずれヘヤを建てることになりますが、わたしはやはり昔風の家が好みですから、その折には、土壁のぬくもりを感じる和風建築にして、しかも年寄りにとって住みやすいヘヤをつくりたいと考えています。」

 ウ 年寄りの心情

 **さん(宇和島市石応 昭和4年生まれ 69歳)
 宇和島市石応(こくぼ)は、市街地を離れた西方に位置し、海を隔てて目の前に九島(くしま)を望む旧九島村(昭和9年〔1934年〕宇和島市に合併)に属していた地域である。**さんは、石応に生まれ、現在まで同地に住み続けている生粋の石応の人であり、この地の人々のくらしの変化を見続けてきた。一時、真珠の母貝養殖を手掛けたこともあるが、現在はミカンづくりを中心とした農業に従事している。

 (ア)隠居は今

 「石応辺りでは、60歳くらいまでに家を譲ります。後継ぎが嫁をもらうと、『おらもぼちぼち隠居するんよ。』と言い、孫でもでき、嫁も落ち着いたと思ったら実際に家を譲り、遅くても還暦(数え年61歳)までには隠居するというのがこの辺りの慣習です。還暦の祝いを後継ぎがしてやるのも慣習になっています。この隠居の習わしは今でも続いています。家の実権を譲ると住まいを交替します。オモヤとヘヤが別棟になっている家では、後継ぎの息子が結婚するとまずヘヤに住み、家を譲られるとオモヤ(本宅)に戻り、隠居した親がヘヤに入ります。別棟ではなくて同じ家の中に隠居部屋を設けている場合は、互いに部屋(寝間)を交替することになります。どちらかと言うと隠居部屋のある家の方が多く、同じ屋根の下で隠居するという人が多い。しかし、一つ屋根の下に住んでいても、自分は隠居した身である。おれは家を譲られたのだという意識がそれぞれにあると思う。ですから地域の総会などでも後継ぎが出席するし、何か協議して決める際にも『おらは隠居よ。おらでは分からん。若い者に聞いてくれや。』ということになります。食事については、同じ家の中で隠居している場合はもちろん、オモヤとヘヤとに別れて住んでいる場合も大体一緒にしている家が多いようです。隠居したということを地域の人々に発表するようなことはしません。『あそこの人は隠居したぞよ。』と話題になるくらいです。
 本来隠居というものは、財産も譲り(後継ぎと隠居とで分ける割合は家によって違う)、家の経営や親類や地域との付き合いなど一切を後継ぎにゆだねることです。しかし、これといった財産もない家では、隠居の生活費は家計の実権を握っている後継ぎの息子が出すことになる。隠居していても働けるうちはいいが、それができなくなるとわずかな小遣いでも息子にもらわなければなりません。わたしら子供のころ、『あそこの年寄りは気の毒だ。いちいち息子夫婦に断ってお金をもらっているそうだ。』という話を聞いたことがあります。現在は、たとえ財産がなくても譲る方も譲られる方も金を持っている(年寄りは年金により収入がある。またこの辺りの若い者には勤め人が多く、現金が入る)。家を譲られた時には親よりも金を持っている後継ぎも多い。隠居も金に困るということはなく、逆に若い者が年寄りの年金を当てにしているという話さえ聞くことがあります。
 昔は家長(家を譲られた一家の首長)を中心に隠居も含め一家がまとまっていました。家長は家の実権を握っていたが、隠居との意志の疎通を図り、相談もするし、助言に従うということもありました。ところが今は後継ぎも隠居もそれぞれ自由な生活を送っている。だから年寄りが何か言うと嫌がられるし、孫のしつけのことにもあまり口出しできない。『いらんこと言いさんな(つまらないことを言わないでください)。子供の教育はわしら夫婦でやるけん(するから)。』と言われるような世の中です。一方息子夫婦も親を決してほったらかしにしているのではないが、あまり干渉もしないし、相談や報告などもしない。そこで親の方は、取り合ってもらえないような感じがして寂しいと言う。もっとかまってもらいたいと思う。家のこと、付き合いのことなどで聞きたいことがあっても話してくれないというような愚痴がつい出てしまいます。昔は食卓を囲んだ時などに息子の方から『あれはこない(このように)なったけん、こがいしとったぜ(このようにしておいたよ)。』と話しかけたものです。今は、年寄りには年寄りのくらしがあり、若い者には若い者のくらしがあるという考えが普通ですから、よほどのことでないと話をしないし、年寄りの方もよほど困ったことでないと相談しにくい。要するに昔に比べると親子の会話が少なくなったのではないでしょうか。以前は親子が同じ仕事(農業、漁業など)に従事していたので話す機会も多く、共通の話題も多かった。今は親子の仕事が違う(若い者の多くは勤めに出る)。だから話す機会はもちろん共通の話題が少なくなった。それも親子の会話が少なくなった理由の一つかもしれません。その上、食事や食堂が共通でも、年寄り夫婦、息子夫婦、孫たちの食事の時間がまちまちだという家庭もあり、そうなるとますます話す機会が少なくなります。昔のくらしを経験してきた年寄りにとっては寂しいことだろうと思います。
 隠居した者同士の講組織がある地域もあるということですが、この地域にはありません。ただし、女性だけの集まりがあり、年1回地域の公民館に集まって食事を共にしながら、自慢ののどを聞かせたりして楽しんでいます。これを『バアヤンオコモリ』と言い、昔からの行事です。」

 (イ)兄から譲られた

 「わたしは、この石応の地を離れたことはありません。ただし、中学校(旧制宇和島中学校)時代、一時、学徒勤労動員(太平洋戦争中、軍需品増産のため中学生まで工場に動員された)で大阪の工場(陸軍造兵廠(しょう))などで働いたことがあります。帰郷したのは、終戦の年、宇和島が空襲を受け(昭和20年〔1945年〕7月29日)、中心地が焼け野原になった直後でした。沖縄がやられ、今度は四国だという情報が流れて、もし敵が四国に上陸したら親にも会えなくなるというのが帰郷の理由だったように思います。戦後中学校を卒業してよそへ出るつもりだったが、後継ぎの兄に子供がなかったので、わたしが順養子(弟が兄の養子になること)となって、兄の後を継ぐことになり、石応でくらすことになったのです。
 兄とわたしとは20歳近く年が離れている。兄は60歳くらいのときわたしに家の実権を譲り、いわゆる隠居の身となりました。土地の権利書などを譲り受け、財産はこれだけあるとか、これはおやじの代からお前の名義になっているとか、これはわしがおやじから引き継いだものだがあらためてお前に譲るとか、半日ほどかけて説明してくれました。兄は何事にもきちょうめんな人で、いろいろな家のしきたりについての説明もあり、盆や正月などの行事についても、これだけのことはしなければならないと指示されました。もっとも、わが家のしきたりについては、父の代から見たり聞いたりしていたので、だいたい分かっていましたが、兄の話で再確認させられました。
 現在兄夫婦はオモヤの裏に建っているヘヤに住んでいて、普段の食事も、お互いに好みも違うので、好きなものを遠慮なく食べる方が年寄りにとってはいいのではないかと思って別にしています(ヘヤには炊事場とトイレはあるが、風呂(ふろ)はオモヤと共同)。しかし、『おかずなんかないときはオモヤの冷蔵庫を開けて、食べられるようなものがあれば取って往(い)んなはい(取っていきなさい)や。』と言って自由にしてもらっています。盆や正月、また親類が訪ねて来たときなどには、『戻んなはいや。』と声をかけ、オモヤで一緒に食事をしています。今は兄嫁が元気だから別食にしているが、いずれ共にくらすか、食事を運ぶかになるでしょうね。また、以前はお金もあげていたが、近ごろは『お金もあるし、あまり使わんけんいいわや。』と言われています。」子供のいない**さんは今も現役として多忙な日々を送っている。

 エ 家族円満

 **さん(宇和島市光満 大正15年生まれ 72歳)
 **さん(宇和島市光満 昭和9年生まれ 64歳)
 **さん(宇和島市光満 昭和30年生まれ 43歳)
 **さん(宇和島市光満 昭和32年生まれ 41歳)
 宇和島市光満(みつま)は旧高光(たかみつ)村に属し、**さん一家が住んでいる上光満という地域は県道(宇和島・中村線)から山間(やまあい)に入ったところにある集落である。**さん宅は、ヘヤでくらしている両親の**さん、**さん夫妻、オモヤに住む一家の大黒柱、息子の**さんと**さん夫妻と孫の**君と**君の6人家族のミカン専業農家である。

 (ア)一家の歩み

 「(**さん)この辺りではオモヤとヘヤのある家が多く、後継ぎが結婚するとまずヘヤに入ります(ヘヤで新婚生活)。子供が生まれ、小学校に入学するころになるとオモヤに戻り、両親がヘヤに移ります。しかし、それは決まりとかしきたりというのではなく、そのようにする家が多いという程度です。わが家も同じでした。大体オモヤとヘヤとは別所帯で食事も別ですが、わたしたちの家ではずっと同一世帯で食事も一緒でした。しかし主人の食事療法の関係で今年(平成10年)4月から別にしています。年寄りと若い者とでは好みも違い、食事の時間も違うので、かえって別々の方が互いに気兼ねしないで済みます。
 家を譲って隠居するということは、経済の実権も渡すということですが、わたしたちはなかなか渡してもらえなかった。先代が家の経済を握っていて、長い間働くだけでした。そんな経験があったものですから、息子が勤めを辞めて農業を継いだ時点で経済の実権をすべて譲りました。働く者と財布を握っている者とが別では働きがいがない。経営努力の意欲もわかないし、経営感覚も育たないと思ったからです。」
 「(**さん)家の実権を譲られてから、地域や親類との付き合いはすべてわたしがやっています。母も近くから嫁いで来ているので周囲に親類が多く、また地域の役などがつくので付き合いだけでも大変です。」

 (イ)祖父母と孫

 「(**さん)おじいちゃん、おばあちゃんにはよくしてもらっています。わたしが勤め先の関係で出張するときなどは今でもおばあちゃんに炊事をお願いしています。とにかくおじいちゃん、おばあちゃんのお世話になりっぱなしです。わたしは子供たちの小さいころから勤めに出ていたので、おばあちゃんが母親代わりでした。親が言うのは変ですが、子供たちは素直です。おじいちゃん、おばあちゃんに反抗することもないので間に立って心配することもありません。」
 「(**さん)孫たちはわたしのつくった食事をいやとは言わず食べてくれます。その点楽です。小さいころは当然手がかかりましたが、今は手のかからないやさしい孫たちです。」
 「(**さん)現在、中学校2年生の長男がヘヤの一部屋を使っています。ふすまを隔てておじいちゃんの部屋があり、完全な個室ではないのですが、おじいちゃん、おばあちゃんとくらすことに慣れているのでしょうか、けっこう満足しているようです。ヘヤはオモヤのすぐ横です。オモヤで食事、着替えてから勉強と寝泊まりはヘヤですから、おじいちゃん、おばあちゃんは孫が寝た後、窓を閉めたり、布団を掛けてやったりいろいろ気を遣って大変だと思います。わたしの主人は、ほったらかしておけばよいと言うのですが、なかなかそうはいかないようです。」
 「(**さん)わたしは、以前は平気でしたが、今は孫に付き合って遅くまで起きているとちょっとしんどくなりました。『大変だ。』と言うと『たった50しか違わんのに。』と孫が言います。冗談のつもりなのか、本気でまだ若いと思ってくれているのでしょうか。」

 (ウ)ヘヤの建て替え

 「(**さん)ヘヤを建て替えたのは平成8年。設計はわたしども4人がやったようなものです。いろいろ注文を出して建ててもらいました。オモヤは先代の考えで建て替えられ、わたしたち夫婦はあまり口出しができなかったので、今度は自分たちの考えで住みやすい住まいを造ろうと思いました。老後のことも考え、居間と台所の間の段差をなくし、浴室も年寄りが入浴しやすいように浴槽を下げ、腰掛ける場所をつくり、いったん腰を下ろして、足から入れるようにしました。年寄りの住む住宅は車いすで動けるようにした方がいいから、本当は廊下と部屋との段差もなくしたかったのだが、大工さんに聞いてもらえませんでした。新建材や塗料など使わず、昔風の土壁にしました。
 とにかく住みやすさを考えて建てたのですが、実際住んでみると気がつくことがあるものです。例えば、居間と台所の段差をなくしたのはよいのですが、仕切りをしなかったので、台所で仕事をしながら居間にいる人と話ができるという便利さがある反面、洗い物の音が居間にじかに伝わってうるさいのではないかとか、やっぱり玄関に上がりかまち(家の上がり口の縁に渡す横木)を付けておけばよかったとか、勝手口まで廊下があればとかいろいろあります。また、台所の窓から見える景色がすばらしい(透明ガラスにしてある)ので、ここは台所よりも座敷にした方がよかったかもしれないと思ってみたりしています。
 オモヤとヘヤに別れてくらす長所の一つに、精神的にある程度距離を置くことができ、互いに細かいことまで干渉しない、しかし、同一屋敷内でくらしているのだからいつも顔を合わせ、互いに助け合える状況に置かれていて、親、子、孫の心のきずなを十分保つことができるということがあると思います。特に家族円満の秘訣(ひけつ)はお互いにあまり干渉しないということでしょうね。」


*1:愛媛の民俗から見た地域区分によると上浮穴郡も南予民俗文化圏に含まれることになる。
*2:和歌森太郎氏が中心となって昭和34年(1959年)に行われた民俗調査の報告書。この報告書の宇和地帯とは南予の一地
  域、宇和島市、北宇和郡、南宇和郡を指す。
*3:昭和22年(1947年)公布された現行民法では、戸主(一家の首長で、戸主権を有し、家族を統轄し、扶養する義務を負
  う者)、家督相続(戸主の死亡・隠居などによって家の跡目を相続すること。すなわち戸主権〔家族統率のために戸主に認
  められた権利〕を受け継ぐこと)など家の制度にかかわる規定が廃止された。