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愛媛のくらし(平成10年度)

3 主婦の座

 本項「主婦の座」においては、宇摩(うま)郡別子山(べっしやま)村に生きる主婦のくらしを取り上げた。
 島崎藤村(*19)の小説『夜明け前』の有名な冒頭の一文「木曽路はすべて山の中である。」を借りて表現すれば、別子はすべて山の中である。標高1,000m以上の険しい山々に囲まれた、銅山川(吉野川の支流)上流の谷に沿って東西に広がる山村である。
 別子という名は、別子銅山(わが国有数の銅鉱山)の存在によって全国的に有名になった。銅鉱床が発見されたのは元禄3年(1690年)、翌元禄4年に幕府の許可を得た泉屋(後の住友家)によって採掘が開始された。明治期に入り、最盛期(明治20年代〔1887~96年〕)には人口が優に1万人を超え、県下で有数の人口を有していた時期もあったという。しかし、明治32年(1899年)の山津波による大災害、明治35年の第三通洞(*20)の完成などにより、次第に銅山の中心地が新居浜市側に移り、別子山村側は衰退していった。そうして昭和48年(1973年)同村にあった筏津(いかだづ)坑の閉山をもって283年間に及ぶ別子銅山の歴史が閉じられたのである。
 現在では、旧別子と呼ばれている元禄開坑以来明治後期まで約200年余りにわたって繁栄していた別子山村西部の山中の鉱山集落は廃きょと化したが(写真3-1-26参照)、銅山発祥の地である歓喜坑(*21)跡や元禄7年(1694年)の火災で殉職した人々の霊を祀っていた蘭塔場(らんとうば)跡(*22)(墓場跡)などが残っていて元禄の昔をしのばせてくれる。
 平成7年10月1日の国勢調査によると、別子山村の人口は319名、愛媛県下で最も人口の少ない過疎の村となっている。


*19:明治5年~昭和18年(1872~1943年)。長野県生まれ。詩人。小説家。詩集「若菜集」、小説「破戒」「春」「家」
  「新生」「夜明け前」などの作品がある。
*20:新居浜市東平を坑口とする坑道。この坑道は明治44年(1911年)別子山村の日浦坑口に通じた。通洞とは鉱山で坑口
  から水平に掘られた主要坑道のこと。
*21:別子銅山最初の坑道跡。名称は人々が歓喜して開坑を祝ったことに由来している。
*22:この墓場は大正15年(1926年)新居浜市の瑞応寺に移され、現在では、コの宇型の石垣が残るのみである。

写真3-1-26 旧別子への登山口(銅山峰登山口)

写真3-1-26 旧別子への登山口(銅山峰登山口)

平成10年9月撮影