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愛媛のくらし(平成10年度)

(2)姑から嫁へ

 ア 農家の嫁として

 **さん(宇摩郡別子山村登美野 昭和9年生まれ 64歳)
 「すでにお話をしたように、ここに嫁いでから約10年くらい夫の両親と一緒にくらしていましたので、その間農家の嫁としてしなければならないことをいろいろ教えてもらいました。味噌(みそ)のつくり方、ダイコンの漬け方、イタドリや竹の子の塩漬けなどいわゆる保存食のつくり方を習ったのもその一つです。味噌は麦味噌です。ほかにエンドウ味噌もつくりました。収穫して乾かしたエンドウマメを炒(い)って石臼(いしうす)で荒くひき割って(義母がよく石臼を回していた)つくるのです。たくさんはつくりませんでしたが、エンドウ味噌はおいしい味噌でした。現在味噌づくりはしませんが、その他の保存食は今でもつくっています。
 わたしは嫁いで来たとき農業について全く知らなかったので、一から十まで習いました。農作業の経験のない嫁だということで、夫の両親にとっては気に入らない嫁だったのかもしれませんが、やさしく教えてくれ、仲のよい嫁と舅(しゅうと)・姑でした。いつごろ何の種をまいて、どう育てるか今でも覚えていて、そのとおり実行しています。
 ところで、農作物は、収穫したら売りに行かなければなりません。年寄り(夫の両親)は『つくったもんじゃけん売らないかん。』とよく言っていました。わたしもサトイモ、ダイコン、夏ならばナス、キュウリなどをオイカゴ(竹で編んだ背負いかご)で背負って、筏津にあった鉱山の社宅まで売りに出かけました。おじいさん(義父)は、つくるのが上手で、ほかの農家よりも早く旬(しゅん)の野菜を収穫していました。社宅には共同炊事場(後に各社宅の台所が整備され、洗濯をしたり、野菜を洗ったりする場所になる)があり、奥さんたちが集って炊事をしていましたので、そこへ持っていくとすぐに売れるのですが、相手はみんな知っている人ばかりですから、恥ずかしかったですよ。むしろ知らない人のところに売りに行く方がいいと思いました。筏津までは歩いて行きました。急な坂の近道がありましたが、それでも3、40分かかります。しかし、よく売れると恥ずかしさも忘れて、ついうれしくなって、また売りに行く。日に2回、3回往復したこともあります。またこの辺りでは昭和30年代を中心にリンゴやモモも栽培していました(入植した人もみな栽培していた)が、これも筏津へ持って行けば飛ぶように売れました。わたしどもの家でも栽培していましたので、主人が出勤する途中、社宅のはずれにあった野菜などの直売所に出荷していました。
 焼畑の経験もあります。わたしどもの家が所有している山の小さい雑木を切り、延焼を防ぐため周囲をきれいにして火をつけるのです。ダイズやアズキは山を焼いてつくるとよくできました。これも嫁に来てから教えてもらったことです。和紙の原料となるミツマタもつくりました。蒸して皮をむく作業もやりました。昭和30年代は山村の昔のくらしがまだまだ残っていたのですね。わたしも夫の両親に教えてもらいながら別子山村の農家のくらしを味わうことができました。筏津坑の閉山(昭和48年〔1973年〕)後、人も少なくなり、野菜も果物も売れなくなり、現在この村で農業をしている人たちは、ほとんど自分の家で食べる程度のものしかつくっていません。」

 イ 4世代家族

 **さん(宇摩郡別子山村横道 明治43年生まれ 88歳)
 **さん(宇摩郡別子山村横道 昭和11年生まれ 62歳)
 **さんは高齢だが、畑仕事にも精を出しているすこぶる元気なおばあちゃんである。後継ぎの**さんも健在、その妻が**さんであり、孫の**さんは役場勤めで、その妻が**さん、二人の間には3人の子供(**さんの曾孫)があり、4世代計8人が一つ屋根の下でくらしている。家は昔ながらの建物で、特に縁側には風情がある。屋敷から目を北に向けるとニツ岳(標高1,647.3m)が望まれ、景色もまた格別である。

 (ア)嫁いできて

   a 朝は早うから

 「わたしは高知県生まれで、嫁いで来たのは昭和の初期です。当時は筏津の鉱山も栄えていて、大体1軒に一人は鉱山に勤めていたころで、わたしの夫も鉱山に勤めていました。家を朝6時に出て2時間ほど歩いて通勤していました。ですから、わたしは毎朝4時ころに起きてかまどの火をつけ、朝食の準備です。当然夫の弁当も用意しなければなりません。それに8人の子供ができましたので、やがてその子供たちの弁当も必要になり、忙しい朝でした。夫の弁当には特別に、小さななべなどで炊いた米の御飯を詰めましたが、大体普段の主食は麦やトウモロコシに米を少し混ぜた麦飯(*31)やトウキビ飯(*32)でした。しかし主にイモなどを食べ、穀類はなかなか口に入らなかった人たちもいたというころですから、まだ麦飯を食べることができればよい方でした。うちでは8人の子供がいてもひもじい思いだけはさせませんでした。『ひもじい思いをしている人もいるんじゃけん(いるのだから)、麦飯でも何でも腹一杯食べられたら上等じゃ。』と思っていました。
 昼間は畑仕事に精を出しました。子供を太らすためいろいろなものをつくりました。そのころの農作業は楽ではありません。しかし、みんなこんなものだ、これが当たり前だと思っていたからできたのです。今から考えるとよく体がもったものだと思います。
 畑から帰ってくると着替えもせず、すぐにニワ(土間)の炊事場で夕食の準備を始めます。食事は囲炉裏を囲んでとり、お膳は一人一人の箱膳でした。夕食の後は夜なべ仕事です。石臼でトウモロコシをひいたり、そば粉をつくったりするのが主な仕事でした。眠い目をこすりながら石臼を回したものです。そのほか縫い物、継ぎ当て、洗濯などもやりました。当時男性は縄をなったり、炭俵を編んだり、草履(ぞうり)づくりなどをしていましたが、草履づくりは女の人もやりました。女の子に履かす草履の鼻緒にきれいな布を巻いたりしていました。とにかく休む暇などありませんでした。
 わたしは何も知らないままに嫁に来たので、義母は、家事のやり方から畑仕事までわたしと一緒にやりながら手とり足とり教えてくれました。家事については一つ一つ順々に任されるようになりましたが、家計は夫がすべて握っていて、必要な食料品なども夫が筏津から買って帰り、わたしはそれを炊いたりするだけです。子供の衣類なども全部夫が買います。そういうことでつらい思いをした女の人がいたようですが、うちの夫はいつも心配りをしてくれていたのでそんな思いはしなくて済みました。しかし、お金のことはちっとも任せてくれませんでした。蚕の飼い方も義母から習いました。家事をこなし、子育てをしながら、家の中で飼うのですから大変でした。
 義母は優しい人で、嫁のわたしをかわいがってくれました。布団をつくるときでもちゃんと反物を買ってきて丁寧に縫い方を教えてくれました。お裁縫ができないと嫁に行けないと言われていたころですから、わたしも娘時代ひととおりの縫い物はできたのですが、義母から習ったのは布団や綿入れの着物(たんぜんなども含む)のつくり方です。この村は冬の寒さが厳しいので綿入れの着物は欠かせないものでした。漬物、豆腐、コンニャクづくりなどは、義母から習い、今でも教えられたとおりにつくっていますから、先代からわたしへ、そして嫁に受け継がれているものです。わが家に伝わるおふくろの味といってもよいでしょう。たくあんは二つの大きな桶(おけ)に漬け、よそでくらしている子供たちが来ると持って帰らせています。豆腐にするダイズは、わが家でとれたものを使うから、市販のダイズでつくる豆腐とは違ってうま味があり、おから(豆腐のしぼりかす)もおいしいですよ。夏はすぐすえる(腐る)ので涼しくなってからつくることにしています。味噌のつくり方も習いましたが、今はつくっていません。」

   b 時代は変わる

 「わたしは富郷(伊予三島市富郷町)の生まれです。実家は農家でしたから、嫁ぐまで農作業も手伝っていましたので、こちらに嫁に来ても、それほど大きくくらしが変わったという感じはありませんでした。おばあちゃんといっしょに家事や農作業をやりながら自然に**家のくらしに溶け込んでいきました。
 嫁いできてから大方40年になりますが、わたしが来たころには居間にはまだ囲炉裏がありました。現在その場所が掘りごたつになっています。炊事場は土間、かまどで御飯を炊いていました。御飯は麦飯、トウキビ飯です。子供を育てながら、おばあちゃんと一緒に遠くの畑まで行って農作業もやりました。炭も焼きました。昭和30年代には昔の農家のくらしが残っていたのですね。その後だんだんくらしが変わってきました。わたしどもは今も昔の家に住んでいますが、台所と風呂場は改造しました。家事に必要な電気製品も買いました。いつ購入したか忘れましたが、電気炊飯器が一番早く、次が電気洗濯機、そして電気冷蔵庫の順だったように思います。昭和30年代の末にはいずれもそろっていたように思います。この村では、鉱山に勤める人が多く、月々現金が入り、富郷辺りよりはお金に不自由する人が少なく、また、鉱山にはよそから来ていた人も多かったので、比較的早く電気製品が普及したのではないでしょうか。農業の方も機械化が進み、おばあちゃんのころに比べれば農家の主婦のくらしは楽になりました。そうは言っても農家のことですから年中何か仕事があり、のんびりするわけにはいきません。現在、家のすぐ下にある畑と、さらに下の山すそにある田んぼを耕作していますが、いくら農機具のお世話になり、おばあちゃんにも助けてもらっているとはいっても、やっぱり大変です。家計については、おばあちゃんのころとは違い、わたしに任されています。息子夫婦の収入は大体息子たちに必要な経費に当てています。もちろん食料品などは買って帰ります。孫たちは家でつくった野菜の煮物などあまり食べず、やはり肉などを買わなければなりません。食料品は、伊予三島市に出掛けた折に買って帰るか、村内の2軒の商店で買うかですが、そのうちの1軒の店が自動車に生鮮食料品などを積んで週に2回まわって来てくれますので助かっています。
 わたしは、昔のくらしの経験もあり、前にも言いましたように農家育ちでしたからこの家に来ても違和感はなく、今までくらしてきましたが、現在は生活の内容も様式も大きく変化しましたので、息子の嫁に従来のくらし方を教えるということもあまりできません。何を言っても古い古いと言われそうです。お正月やお盆の折の家のしきたりなども簡略化されてきましたので、あまり教えることもありません。嫁は小さいときから新しいくらしの中で育ってきたのですから、わたしたちとは違った考え方を持っているのは当然です。ですから嫁は嫁で新しい家庭を築いてくれれば、それはそれでよいと思っています。しかし、わたしがそうであったように、一つ屋根の下で生活しているのですから、自然に見習ってくれることもあると思いますし、くらしの知恵にしても、家のしきたりにしても現代に通じるよいところは受け継いでくれると信じています。」

 (イ)食生活の知恵

 昔から別子山村では凶作に備える知恵が伝わっており、農家ではヒエ、トチの実などを救荒(きゅうこう)食(飢饉(ききん)に備える食べ物)として蓄えていたという。**さんは次のように語っている。
 「わたしどもの家にはトチの実はありませんでしたが、ヒエはたくさん蓄えてありました。かます(わらむしろを二つに折って両端を縄で綴(つづ)った袋)に入れた20俵近くのヒエが倉庫にありました。いつ蓄えたものなのか分かりません。よほど古くからあったものだったのでしょう。しかし、開けてみると皮のついた脱穀したままのヒエで、十分食べられるきれいなヒエでした。さすがは先祖の知恵だと思いましたが、もう必要はないと思い、処分してしまいました。10年くらい前だったと思います。かますはほどいてむしろとして使っています。」
 また、山菜などを加工して保存食としていた。これは、親から子へ、姑から嫁へ伝えられた食生活の一つの知恵であったと言えよう。イタドリの加工を中心に**さんの話を聞いた。
 「イタドリはまず日に干して皮をはぎます。次に沸騰した湯にさっと漬けます。ゆで過ぎてはだめです。その後一晩水でさらします。それを10日くらい塩漬けにし、重石(おもし)をして水分を出します。そのイタドリを再び塩漬け(塩は多め)にするのです。水が上がったら水を捨てます。そうしておけば、2年くらいたっても食べることができます。イタドリなどは山に行けばいくらでも生えているが、最近は食べるすべを知らない人が多くなったのではないでしょうか。わたしの家では今でも保存食の一つとしてイタドリを加工保存しています。そのほかヨモギをゆでて(灰汁(あく)を入れる)冷凍したり、ワラビを塩漬けにしたり、竹の子を湯に通して塩漬け(桶で漬け、重石を置く)にしたりしています。」
 食生活が豊かになったとはいえ、山菜などを加工保存するというのは山村に住む人々にとっては身近な知恵であり、これからも受け継がれていくに違いない。


*31:使用する麦には丸麦(精白しただけの丸い麦)と押し麦(精白した麦を蒸した後、押しつぶして乾かしたもの)とがあ
  る。丸麦の飯は、晩に丸麦を煮ておいて翌朝米を加えて炊く。
*32:ひきわり(石臼で小さく砕いたトウモロコシ)を使う場合と、丸煮といって、ひきわりにしないそのままのトウモロコ
  シを使う場合とがある。丸煮は朝しかけておいたら晩にしか間に合わなかったらしい。