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愛媛のくらし(平成10年度)

(1)むらの領域

 現在、我々がむら(村)という言葉を使用する場合、大きく二つの意味に分けられる。一つは行政機構の単位としての地方自治体としての「村」であり、他の一つは人々が農山漁村地帯でまとまりを持って生活している単位としての「むら」である。前者の村は、歴史的に見れば、地方自治法の村であり、明治21年(1888年)に制定された市制・町村制の村であり、さらに江戸時代の村に接続する。それに対し、後者のむらはより小規模な社会であり、その社会はそれを構成する個々の家の生産や生活に必要な諸条件を維持するための諸慣行を保持し、その連帯の象徴として神を祭り、それらの運営のために協議し取り決めをし、人々を統制する。さらに各構成員は互いに援助し合うことで自分たちの存続を図る。このように第一次的な生産・生活の単位である家にとって必要不可欠な存在としての、第二次的な生産・生活の単位がむらである(②)。
 愛媛県では、このむらが江戸時代の村(藩制村)と一致することが多い。今回調査地点として選んだ大三島町明日、北条市猿川原、宇和町窪・常定寺・新城はいずれも江戸時代の村につながるむらである。

 ア むらの移り変わり

 (ア)大三島町明日

 最初の調査地点、大三島町明日は、瀬戸内海の芸予諸島の一角を占める大三島にあって、島の西半分を占める大三島町の中央部やや北寄りに位置する。東は山を負って上浦(かみうら)町に接し、西は海に面し、南は大三島町宮浦(みやうら)に連なり、北は山を隔てて同町大見(おおみ)に接するむらである(口絵参照)。
 もと松山藩領で、『慶安元年伊予国知行高郷村数帳』の「越智(おち)郡」の項に「明日村 日損所(ひそんじょ)(*1)、柴山有(しばやまあり)」とみえ、村高は83石8斗(1石は10斗、米1石は約150kg)である(慶安元年は1648年)。享保年間(1716~36年)の『越智島旧記』によると、田3町4反5畝(せ)20歩(ぶ)(1町は10反、1反は10畝、1畝は300歩、1町は約1ha)、畑56町1反3畝8歩、ほかに新田畑として田9反8畝17歩、畑6畝がある。のち、文政8年(1825年)明日新田が開発された。明治5、6年(1872、3年)ころには、戸数178、人口781人とある(③④)。
 明治22年(1889年)12月、市制・町村制の施行により明日・大見・肥海(ひがい)の3か村でもって鏡(かがみ)村が成立した。昭和30年(1955年)3月、町村合併により鏡村は宮浦村と合併し、大三島町が成立した。翌31年に大三島町は岡山(おかやま)村を合併し、現在の町域になる。
 平成10年3月現在、明日は世帯数126、人口252人である。

 (イ)北条市猿川原

 第2の調査地点北条市猿川原(さるかわら)は、通称は猿原(さるばら)といい、「さるかわばら」とも呼ばれる。高縄山(たかなわさん)に源を発する立岩(たていわ)川がむらの南側を西流し、南流する小山田(おやまだ)川がむらの西端で立岩川に流入する谷間のむらである(口絵参照)。東は北条市猿川(さるかわ)、西は同市才之原(さいのはら)・尾儀原(おぎわら)、南は猿川、北は北条市小山田に接する(④)。
 もと松山藩領で、『慶安元年伊予国知行高郷村数帳』の「風早(かざはや)郡」の項に「猿原村 林少有」とみえ、村高は114石6升5合、うち田方103石4斗8合、畑方10石6斗5升7合(1斗は10升、1升は10合、米1斗は約15kg)とある。『伊予国風早郡地誌(*2)』に村名の由来について、「本村往古ハ風早郡難波(なんば)郷二属セシ所、後チ何ツ頃トナク郷名自ラ廃ス、然シテ昔シ君原(きみはら)村卜唱ヘシ所、享保十八年(1733年)猿川原村ト改メ、延享五年(1748年)又猿原村二転セシ所、明治二年(1869年)ニ至り今ノ村名二移レリ」とある。しかし、元禄13年(1700年)の『領分附伊予国村浦記』と『天保郷帳(*3)』には「猿川原村」とあって、江戸中期ごろから猿川原村の呼称が一般的になったことが推測される。『伊予国風早郡地誌』によると、明治11年(1878年)の戸数は26、人口は男57、女50であった(④)。
 明治22年(1889年)2月、市制・町村制の施行により猿川原ほか11か村でもって立岩村が成立した。明治29年(1896年)4月、愛媛県下郡廃置法律が公布され、風早郡は温泉郡に合併された。昭和30年(1955年)3月、町村合併により立岩村など1町4か村が合併し北条町が誕生。昭和33年11月に市制施行で北条市が成立し、現在に至っている。
 平成10年3月現在、猿川原は世帯数31、人口105人である。**さんが区長をしていた昭和34年ころは戸数は36軒であったが、その後、終戦前後にむらに帰って来ていた人たちが再びむらを出て行ったため、昭和40年ころに30軒になった。その後戸数は変わっていないとのことである。

 (ウ)宇和町窪・常定寺・新城

 第3の調査地点、宇和町窪・常定寺・新城は、宇和町の東部にあって、宇和川の支流岩瀬川の流域に北から南へと連続する三つの集落である(口絵参照)。東は大判山(おおばんさん)(口絵参照)を主峰とする稜線(りょうせん)で野村町と境を接し、西端は、窪では岩瀬川を境に宇和町伊崎に接し、常定寺、新城では烏殿(からすでん)を主峰とする稜線でそれぞれ宇和町西部と接する。岩瀬川は常定寺、新城では西の山際を南流する。この三つの集落は平地と丘陵が南北に続く農業地域である(⑤)。
 慶長19年(1614年)、伊達秀宗が宇和郡10万石の大名として板島(いたじま)(現在の宇和島市)に入り、宇和島藩が成立すると、この地域は宇和島藩に属し、以後幕末まで続いた。また、藩の組編成においては多田組に属した。
 窪村は、北は平野村、南は常定寺村に接する。『慶安元年伊予国知行高郷村数帳』の「宇和郡」の項に「窪村 茅山(かややま)有、小川有」とみえ、村高は223石、寛文検地の際、多(田)野中村の付村(つけむら)(枝村とも言う。)とされ、同村庄屋の差配下(さはいか)にあったが、独立村であったので年貢などは独自に納めていた。『大成郡録(*4)』によると、宝永3年(1706年)の戸数17、人口91である。明治4年(1871年)ころ田野中村に合併された(④)。
 常定寺村は、北は窪村、南は新城村に接する。『慶安元年伊予国知行高郷村数帳』の「宇和郡」の項に「常定寺村 柴山、茅山、小川有」とみえ、村高は410石。『大成郡録』によると、宝永3年(1706年)の戸数41、人口221である(④)。
 新城村は、北は常定寺村、南は明石(あげいし)村に接する。『慶安元年伊予国知行高郷村数帳』の「宇和郡」の項に「新城村 茅山、柴山、小川有、日損所」とみえ、村高は424石3斗9升2合。
 『大成郡録』によると、宝永3年(1706年)の戸数50、人口264である(④)。
 窪、平野、伊崎3村は明治4年(1871年)ころ田野中村に合併された。明治22年(1889年)12月、市制・町村制の施行により、明石、新城、常定寺、田野中の4村が合併して田之筋(たのすじ)村が生まれた。昭和29年(1954年)3月、旧宇和町と田之筋ほか4村が合併して宇和町が成立し、今日に至っている。
 平成10年3月現在、窪は世帯数19、人口68人、常定寺は世帯数60、人口181人、新城は世帯数123、人口380人である。

 イ むらの範囲

 (ア)大三島町明日

 むらは、西は瀬戸内海を隔てて大崎上島(広島県豊田郡)に対し、東は上浦町に接する。海岸部は宮浦港の一部で、海岸沿いに県道大三島環状線が走っている。西部には水田、周辺の丘陵一帯には柑橘(かんきつ)園が広がる。集落は明日本川に沿って密集展開する谷間のむらである(⑤)。
 「むらの境は山の尾根になっている。それに昔はずっと小道がありました。」と**さんは語る。むらは西を海、他の三方を山で境界としている。東は山の尾根で上浦町と、北も山の尾根で大見と接する。南は宮浦と境界を接するがその大部分は山、東端の一部で明日本川と宮浦本川の2河川の沖積地に開かれた干拓地(明日新田・歯象(はぞう))のなかに境界がある。
 **さんの話。「大見との境には『ボウズ(坊主)』がある。『サカイボウズ(境坊主)』とか『サカイジソウ(境地蔵)』とも言う。肥海の金剛寺の和尚の像のことで、海岸の一番突先のところにある。その像のほかに石碑もある。」
 現在、県道大三島環状線が整備されているが、ここにはかつて明日から大見に至る道があった。その道は海に突き出た道明鼻(どうみょうはな)の高さ約10mの岩壁の裾(すそ)を回ってつくられた幅約2m、長さ1.5kmの道路であった。これを道明路という。この道は、肥海村金剛寺住持光円が隠居後の文久元年(1861年)2月、私費を投じて開削工事を起こし、8月に完成したという。この道ができるまでは、明日から大見に出るには山越えをするか、磯(いそ)伝いに出るかしていた。とりわけ磯伝いは危険が多く、難所であった。明治2年(1869年)3月、金剛寺11世、明日村昌福(しょうふく)寺恵南、宮浦村大通(だいつう)寺姑仙らが、江戸の儒者牧竺潤の撰(せん)文を得て、新修道明路碑をこの路傍に建てた。村民は光円の像を刻んで石碑の横に安置し、道明地蔵と呼んだ(写真3-2-1参照)(④)。元来、明日と大見との村境は山境であって、格別には境の印はなかったが、道の開通とその顕彰が行われたことによって、結果的には新たに村境を明示することになったものと思われる。
 **さんは宮浦境について次のように語る。「宮浦との境は歯象じゃ。歯象には明日分と宮浦分とがある。今、境の崖(がけ)のところにお地蔵さんを祀(まつ)っているが、あすこには昔何もなかった。今あるお地蔵さんは違う場所にあった。あそこへは墓石がいっぱい転げ落ちとったんですね。あの境のところの山は明日城跡で、山のてっぺんに『四十九の墓』があって、長い間手入れをせなんだんと(しなかったのと)あそこは急な傾斜なもんで、墓石が転げて落ちてきて草の中に散らばっていた。それを今は、近くのハジゾウサン(歯地蔵さん)のとこへまとめて祀っとりますわ。」
 この明日城跡とは中世、「大山祇神社の守護城の一つで、城跡は標高約80~90mの峰伝いに約90mにわたっている(④)」といわれるもので、話の中にある墓については、「城山西側の見張り砦(とりで)は四十九の塔と呼ばれ、戦没者四十九名の墓があったが今日では一基残すのみである。」との記録がある(写真3-2-2参照)(④)。
 村人は村境を意識しているという。**さんの話では、「正月16日に氏神(明日八幡神社)の御祈禱(きとう)したらね、守り札をむらの境目へ立てよったんですらい(立てたのですよ)。3年前に神職が亡くなって、後継ぎがおらんのでやめとります。また、田植えのすんだ後の土用の火縄も立てよりました。これは15年前から土用に火縄をもらいに行かなくなってからやめました。守り札や火縄を立てるのは宮浦境ぎりで大見の境には立てたことないんです。大体、虫除けやけんね。」ということである。

 (イ)北条市猿川原

 「東は猿川の大遊寺(だいゆうじ)、西は才之原・尾儀原、南は猿川、北は小山田と境になっておる。だいたいは立岩川と山の尾根で境になっとりますが、領域は田んぼや山林・川が他の地区と入り込んでおる。」と**さんがむらの範囲を語る。
 むらは、東方のヌタ場山・北ヶ谷山と西方の羽山の谷間にあって、北から南へ貫流し、立岩川に合流する小山田川の下流域一帯、南は西流する立岩川の谷で断ち切られている。集落は、東方山麓(さんろく)の王子ヶ原、本谷と西方山麓で小山田川右岸の鶴巻に分かれている。
 むらの入口は、西入口が尾儀原との境で立岩川と小山田川の合流地点近くにあり、北入口は小山田との境にある。この2か所を通る道は昔は小山田往還、現在の県道才之原・菊間線である。なお現在は、この道のほかに主要地方道北条・玉川線が立岩川左岸に整備され、その猿川側から貫之(つらゆき)橋または学校橋を経て、直接集落の中心に入る道が幹線道路となっている。
 むらの入口について、皆さんがこもごも次のように語る。「昔のむらの西側の入口は、わたしんとこの10mぐらい下の所じゃが、尾儀原との境で、山際に県道が通っとった。境の印には六地蔵(ろくじぞう)(*5)さんがあって、古い桜があったんですが、紀貫之(*6)さんの歌碑もあった。桜木いう名がついとる。桜の木は枯れてしもうて今は株だけが残っとる。六地蔵さんは祀(まつ)っとるし、歌の碑は折れたままになっとる(写真3-2-3参照)。」
 「北側の入り口、小山田との境にも六地蔵さんがあるね。」
 「村境ではないけんどなあ。」
 「ただ、なぜか知らんが、小山田の入り口からは100m~130mくらい猿川原よりに入った所にある(写真3-2-4参照)。」
 「昔のむらの入り口は(西側の入り口のこと)、今の桜木橋(小山田川にかかる橋)あたりじゃった。今は学校(立岩小学校)のねき(そば)の橋(貫之橋)が南側の入り口になった。その貫之橋の横にある学校橋は、昔は丸太の上に2枚、板をうった丸木橋じゃった。」
 「学校橋はたしか、昭和6年(1931年)ころに小さい丸木橋ができて、昭和10年ころに大きい丸木橋になった。」
 「学校橋のなかったころは(昭和6年以前)、北条に行くんは、今の学校の向かいの山を越え、農協(JA立岩支所)の上で立岩川を渡り、山越えして才之原の坂本製材所(現在の神途(じんと)橋のたもと)のとこへ出て行きよった。」
 「猿川へ渡るには、記憶では学校橋(丸木橋のこと)を渡りよったんと、草刈りに行ったりするのは、立岩川を今の立岩郵便局の上で馬を追って上り下りしよった。」
 村境を示すものとして、厄除(やくよ)けの守り札を立てることがある。恒例のむら行事である正月の初祈禱(*7)や大般若(だいはんにゃ)(*8)のときに、村境である尾儀原との境の六地蔵、小山田との境のヌタ場の奥の山境(現在は、道路沿いの北側の入り口)、猿川の大遊寺との山境(立岩川沿いの山境)の3か所に守り札を立てる。また、昭和40年代初めまでやっていたという土用(*9)の虫送りのときには、尾儀原との境で川に笹(ささ)を流していたという。

 (ウ)宇和町窪・常定寺・新城

 「だいたいのむらの境は道、田んぼ、川となっている。」との話があったが、窪、常定寺、新城ともに、それぞれのむらの入り口、村境には特別の施設などはない。また、むら行事などで、むらの境目などに特別祀ることもないようである。


*1:干害を受けた土地のこと。
*2:明治8年(1875年)太政官第97号達に基づいて町村に地誌編集員を置いて調査提出したものを愛媛県が編集、内務省地
  理局に納付したもののうち風早郡に関するもの。
*3:天保2~5年(1831~4年)にかけて、江戸幕府が主な大名に命じて国絵図とともに編集した国ごとの郷高帳のこと。
  内容は村ごとに貢納石高を列記、郡・国ごとに村数、石高の合計を掲げたもの。
*4:宇和島藩十組支配の各組に属する村ごとに克明に記録した村明細帳。宝永3年本(1706年)と、宝暦7年本(1757年)
  の2種がある。
*5:六道(人が善悪の業によっておもむき住むという六つの世界)において人の苦しみや患いを救うという六種の地蔵。
*6:(生年不詳~945年)平安時代の代表的歌人。『古今和歌集』の編者の一人、『土佐日記』の作者としても有名。
*7:災いを除き福を招くために、年の初めに行う神仏への祈禱。
*8:大般若経の転読(600巻をぱらぱらとめくり、題目と品目を読んで読経したことにすること)の略称。
*9:この場合は夏の土用のこと。立秋の前18日間をさす。

写真3-2-1 新修道明路碑と道明地蔵

写真3-2-1 新修道明路碑と道明地蔵

左に立つ板碑が新修道明路碑、中央が道明地蔵。平成10年10月撮影

写真3-2-2 明日城跡と四十九の墓

写真3-2-2 明日城跡と四十九の墓

小山の峰が城跡、右端の峰に四十九の墓がある。平成10年10月撮影

写真3-2-3 尾儀原境の六地蔵

写真3-2-3 尾儀原境の六地蔵

立ててあるのが六地蔵、二つに折れた板石が歌碑。平成10年9月撮影

写真3-2-4 小山田境側にある六地蔵

写真3-2-4 小山田境側にある六地蔵

道路改修のため現在地に移したという。平成10年9月撮影