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愛媛のくらし(平成10年度)

(3)むらの協同活動

 むらでは、その協同生活の運行、保全のため、いろいろな形で協同作業が行われていたが、それへの労力提供はおおむね一種の義務として、むらの全員に賦課されてきた。欠勤者への罰則も村規約に明記していることが多い。また、むら内の生産活動場面や生活上の場面において、労力や物資の融通援助、相互扶助が広くみられる(⑥)。

 ア ユイ(*31)・テマガイ・コウロク
 
 (ア)大三島町明日

 コウロクについての**さんの話。「コウロクは奉仕よね、お返しはない。コウロクがあったんは田植えですよ。その時期には皆田植えしとるでしょう。終わったとこは終わってないとこへ、終わってないとこへ集中してね。しまいにはチャッ、
チャッ、チャッ、チャッと植えたら後ろへ下がるくらいまで人がたくさん集まってました。今はありませんがね。」
 テマガエについての**さんの話。「テマガエいうのは手伝いに行ったらまたお返しがある。テマガエいうよりは、その時点ではコウロクよの。あん時手伝うてもろたけん、またうちも手伝いに行こうかというぐらいで。」その例として家普請の話が出た。**さんが、「コウロクで一番多かったんは普請するときじゃったね。これはもう山へ木を運びにいったりするんがほとんどだった。」と切り出すと、**さんが、「うちの家は建って70年になるんで、普請の時には明日中の人が来てくれとる。それが残っとるんですよ、帳面に。ほとんど村中の人の名前が載っとりますわ。おやじの時代ですわ。」と言って、書き出しの日付けと思われる昭和2年(1927年)旧8月と書いてある横帳(*32)を取り出してくる。横帳には、人名と何人役、人名と何人役という具合に丹念に記帳され、合計が124人役と締めてある。ここでコウロクの話が展開する。
 「(**さん)帳面に書いたいうんは、もしその先に何かあったらまた行かにゃならんというんが帳面じゃろと思います。」
 「(**さん)全部人力でやる。荒壁までは素人がやる。昔は天井は張らずに、壁は上塗りじゃなしに荒壁の家が大方やった。」
 「(**さん)昔は屋根替えしたりするときには、たわしで古い瓦(かわら)の苔(こけ)をよう落としよりました。その時分には大勢大勢来よりましたわい。皆に来てもらって、もし相手方の屋根替えする時分にはこっちが行く。今はそういうことはないし、全部請負業者がやるんでコウロクはない。今は瓦も全部新しいのに換えますから、そういうことはない。」
 「(**さん)その時分はだいたい『クイデ(食い出)のコウロク』が多かったんです。自分とこで食べていって、お手伝いするんですよ。今はよばれるほうが多いんですが。」
 「(**さん)よばれる言うのは経済状態がようなってからの話でね。この明日は田どころじゃない、島でお米はめったに食べることがない。」
 「(**さん)いやそれもあるけど、忙しいときに食べごとに手を採ったんではいかんいうて。」
 「(**さん)今はせちがろう(せち辛く)なって、『チン(賃)ない仕事はしても、クチ(口)ない仕事はすな(するな)。』と言うて、コウロクでも賃はくれえでも口だけは賄うてもらえという意味ですね。そのくらいせち辛い時代やけん。」

 (イ)北条市猿川原

 **さんから次の話を聞く。「コウロクは、病気になったとか、田植えが遅れたとかいうときに、手伝うてあげるいうことで、賃はもらわない。また、返しもしない。『クチ(口)のないコウロクはすな(するな)。』と昔の人は言いよった。コウロクするんじゃったら、食べさしてくれんようなところへは行くな、コウロクしてもらうんじゃったら食べさす・食べるものくらい出せ、と言う二つの意味があるんじゃね。また、『今日はコウロクにもならん。』という言葉もある。せっかく手伝っても何の役にもたたなんだという意味に使う。このほかに、むらで重病人が出た時、特に危篤になった時には、皆で五社参りをして、なんとかならんかと病人の回復を祈り、最後にお太夫さん(神主)に御祈禱してもらいよりました(写真3-2-22参照)。比較的遅く(最近)までやりよりました。」
 テマガエはテマガイともいい、コウロクに対して私的な労働交換を指していた。「先に手伝うといて後で手伝うてもらうということもあったわいね。」

 (ウ)宇和町窪・常定寺・新城

 コウロクについて、窪の**さんが、「田植えや家普請のときに、近い関係の人がコウロクをしよりました。大普請のときは窪中が寄りよった。昭和44、5年ころまではあったでしょうか。」、また、**さんは、「昭和29年(1954年)に自分の家で普請したときには、窪全体でコウロクしてくれた。その後に若い人が家建てたときは近所や親戚(しんせき)の人だけで済まして、もう全体でコウロクするようなことはないようになった。」、つづけて**さんが、「今は請負でやりますから、コウロクはなくなった。棟上げのときに1曰くらい手伝いに行くぐらいのことでしょうか。」と言う。新城の**さんは、「窪とほとんど同じですな。ちょうど今家を建てよりますが、全部請負業者がやるんだが、昔のつながりがあるもんじゃから、近所の者呼んで『手伝いに来てくれや』と言うが、来た人は上向いてただ見よるだけです。御祝儀をもってきてもらうので、ごちそうせないかんのです。親戚(しんせき)はもちろん、近所の人も呼ぶんですよ。実際の労働はないですよ。」と語る。常定寺の**さんは、「ただ(無償奉仕)という意味でしょうか。今ごろはやらん。」と言う。
 テマガエについては、**さんは、「労働の交換ですね。窪では今はないわいの。昭和44、5年ころまであったでしょうか。」、**さんが、「窪と同じで、田植えのときはテマガエやってくれやということでやりよりました。」、**さんは、「お返しする。昭和29年にわたしが区長をしたとき、近所隣に田植えに去年来てもろうたから今年は手伝いにいかないかんいうて、自分とこの田を早う済まして手伝いに行きました。」とそれぞれ語る。

 イ モヤイ(*33)・村夫役

 (ア)大三島町明日

 昔からの引き継ぎをみると、戦前以来、むらの公の行事には変わりがないようである。その中にヤナミヤク(家並役)というのがある。明日全体、各戸から必ず一人の人夫を出す。現在、出せない場合は役不足といって、500円の代金を出すことになっている。例年、総代の判断で、9月の収穫前に行われる1日かけてのむら全体の行事である。当日は、消防ポンプ小屋前に集合が終わると、1軒ずつ名を呼び上げて点呼する。それから各グループに分かれて、午前中は小道の修繕を行う。午後からは各土居ごとに分かれて、農道の修繕を行う。終わってからの全体での会食はないが、各グループごとで会食をする。

 (イ)北条市猿川原

 デズテ(出捨て)は、神社山の下刈り・枝打ち、祭り道づくり、公民館・集会所の掃除などで、すべての家から無償で出夫(しゅっぷ)する。「個人割り当てができない仕事、むら全体でする場合は、女とか年寄りとか同じではなくても、役・賃金の計算はしない。出ない人からはお金を出してもらう。」
 ムラヤク(村役)は、農道や水利施設の整備などに対するもので、役(賃金)が付く。ムラヤクについて次のような話が展開した。
 「終戦後は1日一人役が米3升、今はここでは金5,000円で計算する。」
 「サクミ(作見)が、1年間でやった仕事で、人役で何人役かかったかと計算して、年末に最終決算して、今年年貢いくらとして各戸に割り振りする。計算法は、むらがなんぼかみて、残りを割る方法や賃貸と反別できっちりと割ってしまう方法などいくつかある。」
 「農家の場合は地租反別で出すことになるが、非農家の人には出てもらわんと人手が足りんので、日曜日とか出れる人には出てもらう。」
 「区長は持ち回りになっているとか、来れる時には非農家でもお互いに協力してもらうというんで、むらとしてはそういう体制ですね。」
 「今は出てくれた非農家には1日5,000円出すことにしている。」
 「若い人にはいろいろ意見もあるが、このやり方が昔ながら、今でも通用するいうことですね。実際やってきてるんですから。」

 (ウ)宇和町窪・常定寺・新城

 窪ではデヤク(出役)がある。1戸から必ず一人を出す。不参加の場合は、出不足として代金を出す定めである。春4月の水田の準備としての溝掘り、相談で手分けして1日作業する。秋の収穫前に農道・村道の修理をする道つくり、昔は10月、今は9月の始めに1日作業する。それぞれの晩には公会堂で慰労会がある。年行司が主体になり、コバシリが指図して、コウロクの女の人が出て料理を作る。なお以前には、お宮掃除が年3回あったそうだが、今は老人クラブがやっているとのことである。
 常定寺でもデヤクがある。春の田植え前の道つくり、秋の稲刈り前のアキミチつくりなどで、今は都合のよいときにやるようになった。給料は出ないが、総会で一人役5,000円と決めている。男女の性別による区別はなくしている。ほかには、山(共有林)の下刈り、檀徒の寺の下刈り、イデ組の溝掘りなどがある。不参加の場合は出不足金を取られる。
 新城でもやはりデヤクがある。1日のデヤクは男8,000円、女は7分役であるが本人が世帯主の場合は本人並み(男並み)とし、世帯に男がいて代わりに女が出た場合は4,000円を出すと定めている。5月の水路の掃除、8月の村道修理、10月の町道修理、5月と12月の池草刈りといずれも1日デヤクである。このほかに、お宮(新田神社のこと)掃除(写真3-2-23参照)と公会堂掃除を春、夏、秋の3回行っている。昔はこのほかに部落山の下刈りがあったそうである。
 共同風呂(ふろ)が、窪と新城にはかつて存在した。常定寺には共同風呂はなかった。窪の共同風呂について**さんが、「昭和42、3年(1967、8年)ころまで1か所あった。1年か2年交代の管理者を決め、借地だったので地主に納める年貢や、釜(かま)の維持費、湯桶(ゆおけ)など消耗品などの費用を徴収しよりました。家順に交代の持ち回りで、風呂焚(た)き、火の番、掃除をやる。」と語る。また、**さんは、「新城は、ここらでは一番遅く昭和45年くらいまでありました。大きいむらなので風呂は4か所ありました。そのうちの1か所がわたしらの組(中の組)の風呂で、戸数は20戸ありました。年当番は2年ごとで、風呂を維持するに必要な金を徴収しよりました。風呂焚きは各家の持ち回りでした。金属製の五右衛門風呂(ごえもんぶろ)(*34)が三つありました。入り口は男女別々で、中は男女混浴です。よその組の風呂は浴槽が二つでした。」と語る。
 窪では年中無休、新城では正月だけが釜休めだった。冬場は6時ころから、夏場はそれよりやや遅く開いた。祝祭日、田休み、七夕、お盆などは、早く風呂に入って休みなさいということで昼ごろから湯を沸かしていた。思い出話がいくつか語られる。
 「よその友達が入りよって、女の人が入ってきたんでたまげて(驚いて)、こたわん(かなわない)言うて逃げて行ったことがあった。わたしらは慣れとるけん、なんちゃないけどな(どういうこともない)。」
 「よそからお嫁に来た入らは初めは嫌がりよりました。」
 「わたしらは生まれたときから行っとりますから当たり前ですね。女の人の裸なんか珍しいことなかった。別に関心もなかったですなあ。」


*31:本来は結合とか共同といった感覚を表すが、労働慣行では労働力の交換を指す。テガエ、テガワリ、テモドシともい
  う。屋根替え、屋普請なども長い間には自分に戻ってくるから一種の労働交換となる。最も普通に広く行われるものに田植
  えと収穫がある。
*32:古文書のうち、帳簿などに利用する冊子の形式の一種。全紙を横長に二つ折にし、折り目部分を下にして重ね、右側を
  とじたもの。
*33:合同・協同・共有などを意味する言葉。労力における協同のみならず、利益の共同分配をも含んでいる。村仕事がモヤ
  イ仕事になっているところもある。
*34:名称は、石川五右衛門が釜ゆでの刑に処せられたときに用いられたという俗説に基づく。湯槽の底に平釜をとりつけ、
  かまどに据え付けて、下で薪をたいて沸かす風呂。

写真3-2-22 五社の一つ、北条市八反地の国津比古命神社

写真3-2-22 五社の一つ、北条市八反地の国津比古命神社

左が桜門、右上の石段上にあるのが拝殿。平成10年11月撮影

写真3-2-23 新城の氏神、新田神社

写真3-2-23 新城の氏神、新田神社

平成10年11月撮影