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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅸ -砥部町-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 ミカン増殖期の人びとのくらし

(1)外山地区農家の戦前・戦後 

 柑橘栽培は、砥部町の各地で行われてきた。砥部町の南西に位置する外山地区は山あいの集落で、昭和20年代まで砥石山から砥石を産出しており、これを用いた砥部焼が砥部町の主要産業であった。また、昭和30年代以降は柑橘栽培も盛んとなり、昭和57年(1982年)当時、農家率87.2%、耕地面積の98%が果樹園の純農村地域であった。このように、外山地区は砥石販売とミカン栽培をとおして砥部町の産業に大きく貢献してきた。
 昭和42年(1967年)には「第17回全国かんきつ研究大会」が松山市で開催され、柑橘栽培が盛んで、砥部町における生産拠点の一つであった外山地区の果樹園が視察研修の地に選ばれ、県内外から3,200名もの視察者が訪れた。
 外山地区で果樹栽培を行っているAさん(昭和10年生まれ)から、戦前から戦後にかけての果樹農家の生活について話を聞いた。

 ア 戦前・戦中のくらし 

 「私(Aさん)の家では、戦前からミカンとナシ、カキを少し作っていて、水田と畑があったので、畑では野菜を作っていました。当時は、サツマイモやサトイモなどの蔬菜(そさい)をたくさん作り、食用にしたり売ったりしていました。共同出荷や共同販売をしたのは、ミカンとナシが主でした。外山では割とカキの収穫量は少なく、ナシはたくさんありましたが、ナシ畑のナシの木を伐採して、ミカン畑に転換していきました。戦時中は、肥料や農薬がなくなり、また人手についても若い人がほとんど戦争へ行ってしまい、女の人や老人、子どもが農作業の主になりました。戦時中から戦後、復員が終わるころまでは、農作業はものすごく大変なものでした。
 その上に、戦時中は食糧を供出しなくてはならず、『あなたの所は、サツマイモを何反作っているから、いくら供出せい。』とか、『水田が何反あるから米をいくら供出せい。』と言われ、その後には、『麦ができるからいくら供出せい。』などと言われていました。畑の場合はイモを作っていくという方針で、果樹園にしていた山畑(やまばた)(山の斜面につくられた畑)についても、『果樹園を何反作っているから、そのうちの2割の木(ナシ、ミカン)を切って、そこにサツマイモを植えて、いくら供出せい。』と言われていました。供出の量は決まっていたので、昭和16、17年(1941、42年)、私が小学校の4、5年生のころまでは、家で食べることができる食糧が少しはあったと思いますが、終戦のころには食べるものがなくなってしまったので、そういう供出の仕方をするようになりました。 
 食事については、農家で水田を作っていた人でも米飯(べいはん)を食べる人はほとんどいませんでした。大体は半麦飯(はんばくめし)(米五割、麦五割)が一番上等な食べものでした。これを炊くと、例えば米が5割増しに膨らむのであれば、麦は8割増しに膨らんでいました。また、米2合、麦8合の二八米(にはちまい)御飯や、イモをたくさん入れた中にイモに引っ付く程度の少量の米を混ぜたイモ御飯を食べていました。畑ではダイコンをたくさん作っていたので、ダイコン飯を主食にしていました。それ以外には、トウキビ飯やダイズ飯を作って食べていたことを憶えています。畑の空いている所には何でもかんでも植えました。ダイズ飯はおいしかったけれど、トウキビ飯は冷えたらかちかちに固くなっておいしくありませんでした。」

 イ 戦後の農作業の変化

 「戦後もしばらくは、カキやナシを作っていましたが、カキは短い期間しか栽培していません。当時、カキよりもミカンの方が値段が良く、昭和20年代の後半ころからミカンの価格がすごく上がっていったと思います。戦後、ミカン栽培へと移った理由としては、案外ミカンの値段が良かったことや、同じ値段であっても、ナシは収穫までに袋を3回かける必要があったことや、週に1回くらい消毒をする必要があり、手間がかかるといったことがあったと思います。当時、害虫被害に対し、よく効くような薬剤がなく、石灰硫黄合剤や硫酸銅、ボルドー(硫酸銅と消石灰の混合)液という薬があるくらいで、殺虫剤にも、よく効くものがありませんでした。ナシの栽培には、農薬代のほか、袋代や袋かけのための人件費がかかりましたが、ミカン栽培は低コストで作業量が少なく、値段も良かったのです。戦後、山林を開墾してミカンを作ったり、昭和30年代には水田を転換してミカン畑にしたりして、外山の方ではどんどんミカンを作るようになりました。それまでの車も動力もない時代は、4反か5反(約40~50a)のミカン畑を所有する農家は大きい方でした。
 昭和20年代までは、ミカン畑を4反所有している人は、それ以外にナシ畑を2反所有していたり、水田を3反所有していたりして、いろんな作業をしながら一年を過ごしていました。昭和30年代には水田がなくなりナシ畑もなくなって、ミカン園が1町(約1ha)や2町(約2ha)もの広さになったので、労働がミカン作りに集中していきました。農業の形にも変化がみられ、運搬用の自動車や動力噴霧器、モノレールが使われるようになって、1町や2町のミカン園の作業が行いやすくなりました。そしてほとんどの農家の人が、兼業ではなく専業で柑橘栽培をしていたので、農家の人にとっては、割と楽に仕事ができたのではないかと思います。『深耕(しんこう)』(タコツボや塹壕(ざんごう)掘り)の時期に雨が降れば農作業はお休みになっていたので、そのときは、鷹ノ子(たかのこ)(松山市)の風呂や映画、食事へ行ったりするのが、若い人にとっては雨降りのときの日課のようなものでした。」

(2)外山地区におけるミカン栽培

 ア ミカン栽培のはじまり

 「私(Aさん)が生まれた時(昭和10年〔1935年〕)、私の家ではすでにミカンを栽培していました。外山でミカン栽培が始まった明治の終わりから大正の初めころ、私の祖母がミカン栽培を始めたようです。外山では明治39年(1906年)、砥石の販売をしていた高木徳太郎が、静岡からミカンの苗木を持って帰って植栽したのが最初で、それ以後山林が開墾され、山畑に植栽され始めたと聞いています。それまでは、明治30年代にカキやナシが植栽されていましたが、カキは販売するほどの収穫量ではなかったそうです。」
 昭和37年(1962年)に、外山共撰(外山共同撰果場)が設立25周年を記念して高木徳太郎の頌徳(しょうとく)碑を建て、記念式典を行った(写真2-1-2参照)。この日のことについて、次のように話してくれた。
 「その時には、高木徳太郎が植えたミカンの木がまだ残っていました。私(Aさん)はまだ若く、青年団に所属していた時でした。祇園神社から西へ向いた所に高木徳太郎が最初に木を植えたミカン園があり、その山に鯉のぼりの吹き流しを立てて、祇園神社で花火を上げて派手にお祝いをしました。」
 外山での最初のミカン植栽については、『外山のむらづくり』に、「明治39年(1906年)高木徳太郎氏が、みかんの苗木を植える(①)。」とある。また、『愛媛県果樹園芸史』には、「(旧)原町村の西岡種憲は、明治40年(1907年)前後の開園者の中に入る。ナシ栽培の盛んな時期に、ミカン栽培をはじめた先覚者というべき(②)」とある。これらの文献の記述から、砥部町でのミカン栽培はこのころから始まったと考えられる。また、『砥部町誌』には、「明治42年(1909年)外山宮内治太郎、高木徳太郎、大内松太郎、川登(かわのぼり)佐川高次郎、岩谷(いわや)佐川寺太郎、北川毛(きたかわげ)石田時太郎、大南(おおみなみ)永田光太郎、大平(おおひら)佐川豊太郎等によって、最初の栽培が行われた(③)。」とあり、明治末期ころまでには砥部の各地で温州ミカンの栽培が行われるようになったようである。

 イ 山林の開墾

 外山地区では、山林を開墾してナシやミカン、カキなどの果樹が多く植栽された。『砥部町報』には、「五本松(ごほんまつ)、外山には山林の開墾園が多く、開墾したため豪雨のたびに和田川の上流では、堰堤(えんてい)、護岸、橋台の小破損が再三生じた(④)」と、開墾後に水害が起こっていたことが記されている。山林の開墾について、次のように話してくれた。
 「戦後に山林の農地解放が行われて、一時はどこの山でも開墾できる所があれば、農業委員会に届けると他人の山林でも開墾してもよいという時期がありました。ある程度、開墾することができるということを農業委員会が認めてくれたら、他所(よそ)の山でも許可が下りていました。外山でも山の値段が農業委員会で決められ、他所の山林がミカン畑になっていたと思います。山の値段はそれほど高くはなかったと思います。もし、そこに大きなマツがあったとしても、『ここを開墾したい。』と申し出れば開墾できたので、山主の人の中には、自分の土地を取られないように、先にほんの少しの土地を開墾する人が多くいました。終戦後には、小作農家から自作農家が創出されたことと、一時、農業発展か果樹発展のためかは分かりませんが、他所の山でも開墾が可能になったことで、果樹園を開いた人がたくさんいました。終戦以降、ミカンの値段が高値で良いということで、戦争から帰って来た人の中には、山畑を開き、そこにミカンを植えて園地を広げる人もいました。その後、昭和31年(1956年)から、外山では水田から畑に転換された場所に温州ミカンが植えられていきました。」

(3)柑橘栽培の一年

 ア 除草

 「1年間を通してミカンの栽培には、果樹園内の雑草駆除や草掃除などの作業があり、以前であれば草削りがあり、春には何回か行っていました。それから、除草をしやすくするために『中耕(ちゅうこう)(中打(なかうち))』といって、ミカンの木の周囲を掘ったり、水はけを良くするために塹壕を掘ったりしていました。しかし、今はこのような作業をする人がほとんどいなくなり、草を刈って除草するのはまだ良い方で、草を刈る手間を惜しんで除草剤で済ますようになり、簡単になりました。」

 イ 消毒

 「私(Aさん)は、2月の末から3月、4月ころには剪定(せんてい)作業を行い、消毒を6月の初めから9月までの間に最低4回、月に1回くらいは行います。殺菌剤や殺虫剤は1か月が効果の限度なので、それを過ぎたら再び散布しなければならないのです。『雨が100mm以上降ったら効果が落ちるから、期間が短くても散布しなさい。』と言われていますが、雨が150mm降ったからといって、散布しすぎると悪影響を及ぼすこともあるので、すぐに散布することはなかなかできません。また、収穫した後の冬の間には『機械油乳剤』を散布しなければならず、これを含めると、ミカンの場合最低5回は散布が必要です。私以外のミカン農家の中には、これ以上に散布を行う人もいるようです。昔の散布作業と比較すると、以前よりは木に対する丁寧さがなくなったように思います。」

 ウ 有機肥料の使用と深耕

 戦時中でも外山の果樹の樹勢が良かったのは、外山が丘陵地帯にあり、木や草などの有機肥料を得やすいという地理的要因が大きかったからである。
 「一番良くないのは、肥料がなく、ミカンの木が衰弱している状態です。山へ行って草や木の葉を刈って堆肥にしたり、どの家でも最低1、2頭の牛を飼っていたので、牛糞(ぎゅうふん)を木の根元に埋めて肥料にして使ったりしていました。昭和21年(1946年)ころからは、化学肥料が普及し始めたこともあって、戦時中に何とか果樹栽培を続けていた人たちは、ミカンの収穫量が増え、そのミカンが良い値段で売れるので、ミカンの増産を始めたのです。」

 (ア)タコツボ

 「冬になるとタコツボ掘りをしました。春の剪定の時期までの間(1、2月)に、場所によって大きさは異なりますが、スコップが二つくらい入る、幅が50cmから60cm、長さが1m、深さが50cmから60cmくらいの穴をミカンの木と木の間に掘りました。その当時は、木や草などの有機肥料が使われていたので、掘ったタコツボの中に、削った草だけではなく、周辺の山から持ってきた木の枝や、剪定したミカンの木の枝も入れていました。タコツボにはこのような有機肥料が入れられ、土が柔らかかったので、夏にはそこ(タコツボ)にミカンの木の根が入り込みます。また、穴は乾燥にも強く、灌水(かんすい)を行っても、土の表面が流れることはなく地中へ沈むので、木の根が養分を十分吸うことができるということで、タコツボ掘りが普及していきました。
 タコツボは、毎年掘っていたので、掘る場所が順々に変わっていきました。ミカンの木と木の間でも、前年とは違う場所でタコツボ掘りをしていました。外山はほとんど山畑なので、タコツボ掘りを数多くする人であれば、最初は木と木の間の真ん中より少し手前側(下側)に穴を掘り、次の年には、そこは避けて掘るというようにしていました。また、木の段(縦列の木)の下側は案外掘りにくいので、上側に掘ったり、翌年掘るときには、縦列に掘らずに横列に合わせて掘る、というように同じ場所は掘りませんでした。掘った穴には、深い所まで根がたくさん張っているので、このような掘り方をする必要がありました。平坦地であれば、毎年掘る場所を順々に変えながら、木の周辺に掘ればよいのですが、外山の辺りは平坦地が少なく、ほとんどが山畑なので、木の間に掘ったり、一本越し(一本おき)や二本越しに掘ったりしていました。掘った所は、埋めた肥料が地中ヘずっと下がって土が柔らかくなるので、踏んだ感覚で大体分かっていました。」

 (イ)塹壕 

 外山では昭和31年(1956年)ころから水田を転換して温州ミカンを植え始めるが、そのころから塹壕掘りが始まった。塹壕掘りを始めた理由について、次のように話してくれた。
 「外山の辺りの水田は、山の傾斜に沿って段々状になっていたので、転換してミカンを植える場合には、湿気を抜くため(水が溜(た)まらないよう)に、県の公社が当時運用され始めたブルドーザーを使って段を壊し、勾配をつけてくれました。しかし、それでも水はけが悪かったので、塹壕という、斜面の傾斜に沿って縦に下から上へ向いて縦に穴を掘り、施肥(せひ)と排水を兼ねさせるようにしました。塹壕は縦に長く掘られ、穴の一番下側を水が流れるように堀の長さの竹を敷き、その上に堆肥などを入れていました。」

 エ 薬剤散布

 「私(Aさん)の場合、ミカンだけでなくキウイも栽培しているので、1回の散布にどうしても4日間はかかってしまいます。散布場所が1か所ではないので、ミカンに3日、キウイに1日かかってしまうのです。薬剤散布のときには薬剤が体にかからないようにカッパを着用するので、冬時分など暑くないときは良いのですが、6月から9月の暑い時分には大量の汗が出てしまうので、カッパを着ないで薬剤を散布する人もいるくらいです。カッパを着ると汗びっしょりでカッパが重たくなりますが、私は薬品が体にかかるよりは良いと思い、カッパを着て作業をしています。ですから、なるべく朝5時ころから10時ころまでとか、午後3時ころから7時ころまでというように、気温が高くなる昼中を避けて消毒をしています。しかし、暑い時間を避けて消毒をしても汗をかいてしまいます。天気が良ければ4日で終わりますが、作業をしている間に雨が降れば日数がもっとかかってしまいます。」

 オ 摘果

 「消毒のあとの7月から9月の中旬ころまで摘果(てきか)(良い果実を得たり、枝を保護するために余分な果実を摘み取ること)を行います。摘果する量は木になっている実の量によって変わります。摘果の基準は、温州ミカンなら葉25枚に1果くらいですが、これも考えようで、今年たくさん収穫しようとして摘果の量を少なくすれば、品質の悪いミカンができたり、翌年には玉の大きいものや黒点病にかかるもの、皮が硬いものができたりするので、毎年一定の量をコンスタントに収穫するには、量を考えて摘果する必要があります。摘果する際には、実がたくさんなっていれば、皮の厚いものや枝が立っているものを摘んでいきます。枝が垂れていて、そこにぶら下がっているミカンは糖分が溜まっておいしくなっています。そのようなミカンがたくさんなっていても、半分は摘果しないといけない場合もあります。摘果したミカンは、草と同じように腐って肥料になります。夏の7月の末から9月くらいまでの間には、たくさん摘果した所は、腐ったミカンで足の踏み場がないほどになります。」

 カ 収穫と出荷

 「温州ミカンの収穫時期については、9月末から極早生(ごくわせ)、10月に早生、11月から12月に晩生(おくて)、12月の末から1月の初めころまでは中晩柑と、収穫ができる期間が以前よりも長くなりました。近年では、デコポンなどの品種を入れると収穫は2月ころまで続きます。外山は他の地区と比べると冬の時期の気温が低く、大寒波が来れば『す上がり』といって、ミカンの果肉の水分が少ない状態になります。それは出荷できず加工品となるので、す上がりを防ぐために早い時期に収穫をします。ミカンは、3月か4月まで収穫を待てばおいしさが増して、それまで待つのと2月に収穫するのとでは、全然味が違うのです。2月に収穫をして貯蔵庫に納めたら商品として出荷できますが、収穫前のミカンを零下5℃以下の温度に5時間くらい置いてしまうと、す上がりが生じて商品にはならないのです。今は天気予報で前もって情報を得ることができるので、寒波が来そうだと思ったら、組合から農家の方に収穫するように伝えてくれます。出荷をする際には、ミカン10個くらいを二つに割って実の状態が調べられて、その中に五つす上がりのものがあると、トラックに積まれたミカン全部が出荷できません。全く商品にならないこともたまにありました。」

(4)ミカンの貯蔵及び運搬

 ア 貯蔵倉庫

 砥部町は内陸部に位置するため、栽培される温州ミカンは海岸近くの温州ミカンと比べて皮が厚く酸っぱいので、収穫後の一定期間貯蔵して熟成させるために、町内各地にミカンの貯蔵倉庫が建てられた。昭和30年代から40年代にかけて、外山に多くの貯蔵倉庫が建てられた理由について、次のように話してくれた。
 「戦前から戦後、昭和20年代ころまでは、栽培されるミカンは出荷時期の遅い晩生温州ミカンがほとんどでした。また、外山は砥部の町中と比べたら気温が2、3℃低いため、収穫したミカンが酸っぱく、貯蔵することで甘さを出すために貯蔵倉庫を建て始めたようです。全国各地で『貯蔵ミカン』という名前で売ったことで、外山の貯蔵ミカンは東京でも有名でした。貯蔵ミカンの出荷は大体2月中旬以降から、4月の中旬まででした。当時は今のように道路が整備されていなかったので、果樹園の中に貯蔵倉庫を建てて、そこへ収穫したミカンを貯蔵して、出荷の割り当てに応じて担ぎ出していました。」
 貯蔵倉庫の建設について、『愛媛県果樹園芸史』には、「県下の貯蔵の盛んな地方に貯蔵庫が多く建ったのは、大正末期から昭和初期にかけての時期で、それはまたミカンの生産量に比例して毎年多くなった。このころに建てられた貯蔵庫は土壁式のものが多く、はじめは一階式のものが多かったが、昭和時代に入ると、上下に出入口のある二階式のものが多くなった。とくに砥部地区ではこの方式が多く、これは急傾斜地の段畑ミカン園での利用効率をよく考えたものといえる。周囲は土壁で断熱効果を高め、内部構造は、ほとんどのものが竹のす棚式でその上にミカンをバラで積んでならべる(⑤)。」と記されている。
 また、貯蔵倉庫での管理の仕方について、次のように話してくれた。
 「春(3、4月)になって貯蔵倉庫内の温度が上がってくると、今のように冷房設備がなかったので、管理が大変になります。貯蔵倉庫には、空気窓が天井や床の下、四方の壁にあるので、それを開け閉めして室内の温度を調整します。夜になると窓を開けて冷たい空気を倉庫の中へ入れて、朝になったら窓を閉めて、夜の間に入れた冷たい空気で倉庫内を冷やしておくという貯蔵の仕方でした。以前は貯蔵倉庫が山畑にあったので、そこまで行かなければなりませんでしたが、車が普及してからは、家の近くに貯蔵倉庫を建てることができたので、室内を冷やすための管理をするのが随分楽になりました。」
 なお、貯蔵倉庫内の温湿度については、温度は3~5℃、湿度は80~85%に保つのが良いといわれている。

 イ ミカンの運搬方法

 「以前は果樹園内に貯蔵倉庫があり、ミカンを出荷するのに適当な時期になったら、そこから出して竹籠の中に入れて運んでいました。竹籠には、ミカンを入れて運搬するために、口の部分の四方に紐(ひも)が付いていて、それをサス(天秤棒)で担いで運んでいました。籠には10貫と12貫のものがあり、体力がある人はもう少し大きな籠で運び、さらに体力に自信がある人は、籾(もみ)であれば1俵分のお米が入る籠をサスの前後に取り付けて運んでいました。10貫籠で、今のキャリー(1箱約20kg)を二つ担ぐようなものだったことを憶えています。竹籠で山から家まで担いで、家からはリヤカーや大八車を使って組合に出荷していました。
 その後、徐々に道路が整備されるようになり、運搬に使われていた大八車から、リヤカーやテーラー(動力運搬車)になったころに、石油箱(木箱、石油缶に似ていたためこのように呼ばれていた。)を使い始めました。荷台に石油箱を積んで運ぶのですが、石油箱の方が籠よりもきれいに、しかもたくさん積むことができました。山から籠を担いで下りて、道路まで出てリヤカーやテーラーのある所へ来たら、そこで籠から石油箱にミカンを移して、荷台に積んで持って帰っていました。車が普及すると、収穫したミカンを石油箱に入れて、民家の周辺まで車に積んで持って帰るようになりました。
 昭和44年(1969年)、外山の10か所にモノレールが設置されました。 モノレールのレールは、ミカン畑から大八車や自動車に積み替える場所まで続いていました。このころは、車がかなり普及していたので、果樹園の近くまで車で行けました。どの園地でも、車で積み下ろしができる所までモノレールが引かれて、50m引く所や200mを超すモノレールの線を引く所もありました。また、モノレールで山を越えて、山の向こう側へ下ろすということもあったようです。」
 ミカンの運搬に用いられたテーラーについて、次のように話してくれた。
 「外山には、戦前から戦後にかけて水田とミカン畑があったので、 道路を走るときにはテーラーの後ろに荷台を付けて運搬用として使い、水田の中では鋤(すき)を付けて、牛の代わりに引っ張らせて、水田の鋤起こしのための耕うん機として使っていました。町内から牛が見られなくなるのが昭和35年(1960年)ころでした。私(Aさん)の家では牛を使って水田の鋤起こしをしていましたが、耕うん機は買わずに、水田を果樹園に転換しました。外山の人は本格的な耕うん機をほとんど買っていないと思います。」
  
(5)ミカンの販売

 ア 海外への販売

 (ア)カナダへの輸出

 戦前のミカンの海外輸出について、『愛媛県史』には、「愛媛県の温州ミカンが、戦前カナダ・アメリカ向けに輸出されたのは、昭和6年(1931年)の試売輸出一千箱からで、伊予果物(同業組合)では、昭和8年(1933年)一万箱、昭和9年(1934年)一万五千六百六十一箱、昭和10年(1935年)二万六千箱、昭和11年(1936年)四万箱と増加しながら、昭和15年(1940年)まで続いたが、第二次世界大戦により昭和16年(1941年)から輸出が途絶えた(⑥)。」とあり、昭和6年から昭和16年まで漸次輸出量は増加していくが、第二次世界大戦によりカナダやアメリカ向けの輸出が途絶えてしまったことが分かる。その他、戦前には海外市場の販路拡大のため、カナダやアメリカ向けの輸出のほかに、満州(まんしゅう)(現中国東北部)へも輸出していた。『愛媛県果樹園芸史』には、満州への輸出の動機について、「輸出ミカンのカナダと北米行きが生産者でやることができないで、商人の下受(下請)のため、商人は4割も配当を取って折(お)るので、(中略)それで満州にでも向けたら、自分らの力で売ることができるから(⑦)」とあり、満州向けの輸出ミカンについては、「二流品はみな満州行で値がよかった(⑧)」と記されている。
 戦後、カナダ向け輸出ミカンは、昭和22年(1947年)に再開した。愛媛県のカナダ向け輸出は昭和23年(1948年)から始まり、昭和52年(1977年)の輸出量4,634tをピークに減少している。再開して間もない昭和24年(1949年)のカナダ向け輸出ミカンの割当について、『村報はらまち』には、「(旧)原町村の輸出ミカンについて、本年度(昭和24年度)カナダ向け輸出ミカンの割り当ては、日本全国で八十万箱、その中(で)静岡が進んで三十万箱の出荷を引受け、和歌山がこれに次いで二十五万箱、愛媛県が十万箱、伊与(予)郡が二万箱と言う事になっている。原町の引受けた割当は二千箱である。(昨年度の約二倍(⑨))」とあり、各共撰の割り当てについては、「山三(やまさん)1000箱、宮内450箱、八倉(やくら)300箱、美人(びじん)200箱、城南(じょうなん)150箱(⑩)」と記されている。旧原町村の輸出ミカンの2,000箱は、伊予郡の割当20,000箱の十分の一に相当する。

 (イ)外山地区の輸出作業

 「伊予園芸農業協同組合を作ったのは、外山の石司佐一郎(せきじさいちろう)という方です。その方が初代の組合長になって、カナダ向けの出荷を契約しました。カナダへ輸出するようになると、今度はそのためのミカンが集まりませんでした。輸出をするということで、ミカンを吟味しないといけないことや、外山が晩生温州ミカンだけの産地だったことが理由だったようです。しかし、カナダと契約した量のミカンを出荷しないといけないということで、石司佐一郎さんより、『晩生温州ミカンをクリスマス用にしてほしい。』と要請があり、外山共撰がその量のほとんどを出荷することになりました。カナダには11月の初めころに輸出したと思います。そのため外山共撰では、夏の7、8月の間に若い人が、1貫目(約4kg)入り程度の小さな箱をどんどん作り、2分か3分くらいの青色をしたミカンを一つ一つ紙できれいに包んでその箱の中に入れていました。また、大きさも大体決まっていて、M玉を中心としてS玉を何個、大きいL玉を2、3個というように、L・M・Sの大きさのミカンを一つの箱に詰めていました。ミカンの大きさは、一つ一つ秤(はかり)に掛け、3段階くらいで調整していたと思います。例えば、箱に最初M玉を10から12個くらい入れて、次の段階ではS玉を3個入れて、また次の段階ではL玉を3個入れるといった調子で、撰果の担当者が分けていました。これは地区総出の仕事だったので、老若男女を問わず力を合わせて作業をしました。」

 イ 国内販売

 (ア)国内輸送の方法

 「外山では果樹栽培が盛んになるまでは砥石山の砥石販売が主でしたが、昭和28年(1953年)に愛農会が設立され、果樹栽培に力を入れていくということになったと思います。砥部と下灘(しもなだ)(現伊予市)は大体温州ミカンの主産地で、下灘にも貯蔵ミカンが割と多く、南山崎(みなみやまさき)(現伊予市)、唐川(からかわ)(現伊予市)辺りは、早くから早生ミカンが普及していました。時期的に早生ミカンをまず出荷し、次に砥部の八倉辺りからミカンを先に出荷して、というように時期をずらして順々に出荷していたと思います。伊予市の国鉄の駅の所に撰果場があって、レールがその中に引き込まれていて、撰果場の中に貨車を入れて積み込んでいました。駅の撰果場までは車で運んでいました。」

 (イ)伊予園芸農業協同組合

 昭和12年(1937年)、外山では共同で撰果や荷造りをするために外山共撰を設立したが、昭和23年(1948年)に伊予園芸農業協同組合が結成されたことで、旧砥部町の大南、岩谷口(いわやぐち)、北川毛、五本松、岩谷(川登、万年(まんねん))、大平の各共撰が砥部一部、外山共撰が砥部二部に編成され、さらに昭和25年(1950年)には両者が伊予園芸の砥部支部として統合された。また、翌26年(1951年)には旧原町村の美人(原町)、山三(水満田(みつまた)、三角(みょうか))、城南(拾町(じっちょう)、重光)、丸八(まるはち)(八倉)、高尾田(たこおだ)の各共撰が統合して麻生(あそう)支部として、旧砥部町と旧原町村が合併した後の昭和32年(1957年)には、宮内(みやうち)、川合(かわい)(川井(かわい)、七折(ななおれ)、大角蔵(おおかくら))、千足(せんぞく)、頭ノ向(とのむかい)の各共撰が統合して宮内支部としてそれぞれ編成され、伊予園芸農業協同組合によって、積極的に海外や国内への販売が進められた。 
 外山地区のみが砥部二部として編成されたのは、外山の出荷量が一地区で砥部町の出荷量の大体三分の一を占めていたからである。撰果や出荷について、次のように話してくれた。
 「伊予園芸に外山が所属するようになった後も、撰果は外山で行われました。撰果したミカンを出荷の時期ごとに外山で荷造りをし、伊予園芸へ持って行きました。いろんな品種ができて出荷量が少量ずつになってからは、伊予園芸で撰果や荷造りをするようになり、管内の撰果場から出荷するミカンを伊予園芸に持って来て、そこで荷造りをするということもありました。主な温州ミカンや早生ミカンなどの大量に出荷するミカンはそれぞれの地域で集められ、荷造りをしていました。そこで集めたミカンは、主に東京へ運ばれていたようです。荷造りしたものを伊予園芸へ持って行くと、伊予園芸の撰果場の中へ貨車が入って来て積み込まれ、運ばれていました。最近は貨車で出荷することは少なく、小回りが利いて運搬に向いている自動車の方が割と主流になったと思います。運送する木箱には○伊(マルイ)だけでなく、砥部には○砥(マルト)、外山は多かったので、箱に○砥二部(マルトニブ)と書いたラベルが貼られていました。
 現在砥部町には、JAえひめ中央の支所が3か所(砥部支所(大南)、麻生支所(高尾田)、宮内支所)、集荷場が4か所(岩谷口、外山、麻生、宮内)あり、農家が1級品、2級品などに選別したものを、集荷場へ出荷しています。」

(6)柑橘農家の課題

 ア 後継者不足

 『砥部町報』(昭和30年〔1955年〕発行)によると、「山の開墾も今では限界点に達したので、砥部町も今にして二、三男対策、並びに農業耕地の問題につき、根本的な方針樹立せねば追々農地の細分化を来し、遠からず行つまり(行きづまり)のくることは必至であると思います(⑪)。」とあり、このころには農地開墾が限界に達したということで、農家の二、三男対策や農業耕地の問題についての警鐘が鳴らされている。農家の将来について、次のように話してくれた。
 「家族で農業をやっていても、ミカンを摘むときなど、人手を必要とするときには、つい最近まで近所の農家の方の何人かに手伝ってもらっていましたし、私自身も手伝いに行っていました。手間代という程ではないのですが、賃金は払っていました。手が空(す)いているときは他所へ手伝いに行くし、多忙なときには、一度に3人でも4人でも男性や女性を問わずに手伝いに来てもらっていました。今、私の家では、消毒や除草、剪定などの農作業は自分一人で行いますが、収穫や摘果などは、ほとんどと言ってよいほど、義弟夫婦や娘夫婦たちに手伝いに来てもらっています。場合によっては近所の方にも来てもらうことがあります。
 農作業をする方たちの中には、今では、シルバー人材センターの方に依頼をして、来てもらっている方がいます。農家の方でシルバーに行っている方がいるので、そういう方を特定して依頼し、作業をしてもらっています。近所の方によると、『その方に任せておけば、こちらがどうこう言わなくても全部やってくれる。』とのことでした。」
 また、果樹専業農家の現状について次のように話してくれた。
 「私(Aさん)のような年配の者は専業ですが、若い専業の後継者が少なくなりました。今は会社を定年してから農業をする方が多いようです。そのような方は、勤めている時から少しずつ農業のことを学んだり、農作業の手伝いをしたりすればよいと思います。私の家では、私以外の者が消毒や除草、剪定などの農作業をするということがなかったので、将来農業はしないと思っています。外山地区はまだ果樹専業農家が多い方だと思いますが、若い人の中で、専業でやっていこうという方が、本当に少なくなりました。このことについては、今の外山の経済センターでも危機感を覚えています。以前のミカンの値段が良い時代には、ほとんどの家に若い後継者がいて、農業を継ぐんだという感じだったので、外山地区には果樹専業農家が90何軒もありました。しかし現在では、専業が半分くらいになったと思います。これからもっと先になったら、私たちのように高齢者が農業をやっていても、子どもさんが農業をしなかったり、外山地区から他所へ行ったりして、もっと就業者数が減って、それこそ組合の維持すらできなくなるだろうと心配をしています。」

 イ みかんの価格低迷

 「昭和30年代、40年代は、農作業の手間がかからない温州ミカンの栽培が主流でした。ミカンを山から担いで下りるのに、人を雇って賃金を払っていましたが、それでも利益がありました。その当時の金額としては、相当の値段だったと思います。またミカンの買い方でも、その当時は正月前に、どこの家庭でも一箱は買ってくれていましたが、今ではスーパーなどで一個一個や少しずつしか買わないので、消費がものすごく減ってしまい、市場の方ではミカンが供給過剰になってしまったのです。その後、市場に流通する量は減りましたが、それでも消費の方がさらに少ないため、徐々にミカンの値段が安くなっていったと思います。
 現在は、温州ミカンで生計を成り立たせるということが難しい時代になりました。ハウスミカンを作ったり、紅まどんなを作ったりして、時代の先端を行くというか、値段が良いものに品種を切り替えて収益を上げる方なら問題がないのですが、温州ミカンだけを作っている方は経営が成り立たず、生活ができないという感じになっています。ハウスミカンは、栽培するハウスの内外での温度差が大分あります。夏は特に問題ありませんが、冬の寒い時期に暖房をしているハウスの中へ入ると、室内は夏と同じ温度になって、外に出ると急に寒いということで体調を崩す方もいるようです。一時期は外山地区でも半分ほどの40軒の農家が、ハウスミカンを栽培していましたが、今はめっきり減ってしまいました。また、ハウスミカンをたくさん収穫するためには、経費が大分かかります。石油代がものすごく上がった時にハウスをやめてほかの作物に替えたり、ハウスミカンの栽培をやめてその施設だけを使ってナスビを作ったりする方が何人もいました。紅まどんなに替えた人は、今は状況が良いと思います。今はミカンの利益が少ないので、キウイなど高単価なものの栽培に替わっていきました。」


<参考引用文献>
①外山むらづくり推進協議会ほか『外山のむらづくり』 1983
②砥部町教育委員会『砥部町郷土誌資料第4集(「愛媛県果樹園芸史」の砥部町園芸史関係事項抄出)』 1970
③砥部町『砥部町誌』 1978
④砥部町「砥部町報 第10号」 1938
⑤砥部町教育委員会『砥部町郷土誌資料第4集(「愛媛県果樹園芸史」の砥部町園芸史関係事項抄出)』 1970
⑥愛媛県『愛媛県史 社会経済1 農林水産』 1986
⑦砥部町教育委員会『砥部町郷土誌資料第4集(「愛媛県果樹園芸史」の砥部町園芸史関係事項抄出)』 1970
⑧砥部町教育委員会、前掲書 
⑨原町村公民館「村報はらまち 第1号」 1949
⑩原町村公民館、前掲書
⑪砥部町「砥部町報 第59号」 1955

<その他の参考文献>
・愛媛県高等学校教育研究会社会部会地理部門『砥部町の地理共同調査 1980』 1980
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』 1984

写真2-1-2 高木徳太郎頌徳碑

写真2-1-2 高木徳太郎頌徳碑

砥部町。平成27年12月撮影