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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅸ -砥部町-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 満穂でのくらし

(1)農作業

 ア 鉱山の休日

 「私の両親は、私が鉱山で働くことについて強く反対していました。しかし、私にはその反対を押し切って就いた職なので、一生懸命に仕事をしたという自負があります。当時、満穂鉱山は住友の経営だったので、必ず一週間に一度の休日がありました。しかし、休日とはいえ、家の農作業の仕事を手伝わなければならなかったので、仕事をしていたようなものでした。農作業では、小学校6年生くらいになると大きな牛を使って田んぼを耕していました。あの仕事は、今でもよくやったものだと思えるくらい大変でした。当時はどこの家にも牛が一頭ずつ飼われていて、まじめなよく働く牛に出会ったら良いのですが、言うことを聞かないやばい(危ない)牛に当たってしまうと、それは大変だったと思います。私は『牛使いの名人。』と周りの人たちから言われていました。子どもの仕事には、『鼻やり』という牛の鼻の部分を持って牛を引っ張り、犂(すき)を牽(ひ)かせるというものがありました。子どもが牛を扱うときには、この鼻やりと犂を扱うもう一人の二人で牛を使って作業をしますが、私は早く牛を手なずけて、鼻やりは付けずに自分が一人で牛を扱うことができたので、よその家の農作業に雇われて、家から牛を連れて玉谷辺りまで行っていました。鉱山が休みの日や、鉱山に就職する前には、自分の家の田んぼだけでなく、他の人の田んぼでも仕事をしていたのです。」

 イ 牛を飼う

 (ア)博労と牛市

 「牛は博労(ばくろう)の仲介で購入していました。子牛を購入して、その牛が大きく育ったら買い換えていました。大きく育った牛は肉用牛として高く売れていたようなので、博労さんはかなり利益を上げていたと思います。この辺りにも博労のような仕事をする人もいましたが、砥部からも来ていたように思います。彼らは久万(くま)(現久万高原(くまこうげん)町)の牛市で子牛を仕入れて農家に売っていました。農家が育てた大きな良い牛は、月に1回くらいは必ず開催されていた牛市で売買されていたようです。この辺りでは久万の野尻(のじり)や、小田(おだ)(現内子(うちこ)町)の突合(つきあわせ)辺りに牛市がありました。」

 (イ)マクリ牛

 「鼻やりでは牛の左側ではなく、右側に立って牛を扱います。女の子でも、『ヘセ。ハセ。』の掛け声で牛を扱っていたことを憶えています。牛の後ろでは、父親が犂を持って、『もっとしゃんと(しっかりと)歩かせ。』と言いながら、牛を叩くこともありました。ただ、叩かないと言うことを聞かない牛もいました。賢い牛になると、農作業を通して仕事を憶えています。良い牛に出会うことができたら、鼻やりをする人も居眠りをするような感じで、牛に任せっきりで仕事ができていました。
 牛は牝(めす)の方が扱いやすかったと思います。牡(おす)は角が鋭く伸び危険ですが、その点、牝は角がただ前へ出てくるだけで危険を感じませんでした。角が上を向いている牛は『マクリ牛』と言われて、特に危険な牛だったので紐(ひも)だけで扱うことはせず、竹に穴を開けて紐を通し、つっかえ棒のような状態にして、牛との距離を保つことができるようにしていました。私はまくられて(牛に角で突かれて)、大怪我をしたことがありますが、今はテレビの番組の中で、中国や東南アジアの国々の農村地帯で牛を使っている様子が放送されているのを見ると、とても懐かしく感じてしまいます。博労さんでも、やばい牛には、竹を付けてその牛を扱っている姿を何度も見たことがあります。
 牛にあめ玉を食べさせたら、喜んでカリカリカリカリと食べていました。当時、『あめ玉食わしたら牛は世話ない(簡単に扱える)。』ということを聞いていましたが、本当にあめ玉一つで牛は言うことをよく聞いていました。大きなあめ玉で、2個で1円くらいだったと思います。それを朝、二つ三つとたくさん与えることができなかったので、一つだけ与えていましたが、あめ玉を食べた牛は本当に私の言うことをよく聞いていました。あめ玉は牛を扱う私にとっても最高のおやつだったので、牛と一緒に食べることがありました。」

(2)鉱栄座の思い出

 「総津に鉱栄座という劇場があって、そこへ行くのが楽しみでした。私は一週間に1回くらいはどうしても行きたくて、映画などを観(み)に行っていました。友達を自転車の後ろに乗せて一緒に行くときには、家の近くの道路は自転車に二人で乗ることができるような路面状態ではなかったので、路面の状態が良い下の道路までは自転車をかたいで(担いで)そこから友達を乗せていました。鉱栄座で楽しんだ後の帰り道は、街灯も何もなく本当に真っ暗でした。私が使っていた自転車には前照灯がなかったので大変でした。友達を乗せて行った以上、乗せて帰らないといけませんが、上り坂などは荷台から降りてもらって、二人で話をしながら歩いて、また平らな道になったら乗せて帰っていました。鉱栄座の映画は料金が40円くらいでした。鉱山で働いてもらえる日当の三分の一くらいだったので、一緒に行った友達に『おごってあげる。』というようなことは、なかなか言えるものではありませんでした。それでも週に1回、鉱栄座へ行くのが何よりの楽しみだったことを憶えています。
 昭和30年(1955年)ころには、市川右太衛門(うたえもん)や片岡千恵蔵が出演していた時代劇や、三益(みます)愛子や子役に松島トモ子、美空ひばりなどが出演しているものを観ていました。観たい映画が上映されるときには、どうしても観たいので、昼間に一生懸命に仕事をして、親に何も言われないようにしてから行くようにしていました。それよりほかには遊ぶことが全くありませんでした。
 鉱栄座では、映画以外にもサーカスが来たり、芝居が来たりしていました。芝居をする一座の人たちは一晩鉱栄座で公演をするだけで、公演があったときには、旅館に泊まっていたようです。総津には夷(ゑびす)屋旅館と中村旅館があったので、そこへ泊まっていたのでしょうが、二晩続けて公演をするということはありませんでした。翌日は砥部か、川登かというように順々に回って行っていたのだと思います(写真2-3-10参照)。」

(3)くらしの記憶

 平成27年(2015年)12月6日に砥部町中央公民館で開催された、第3回「ふるさと愛媛学」サポーター養成講座では、「子どもの目から見たふるさと広田あれこれ-昭和30~40年代-」と題して田中弘先生に御講演いただいた。先生は、昭和29年(1954年)にお生まれになり、昭和30年代から40年代の子どもの時期をふるさとである広田地区で過ごされた。御講演では先生の御経験をもとに、「くらしの思い出」や「ふるさとに対する思い」などについて、分かりやすくお話いただいた。ここではその内容を再構成して、広田地区の「くらしの記憶」として御紹介させていただきたい。

 ア ことばの違い

 「松山方面から上尾(うえび)峠を越えて東へ入り、山を一つ越えると私(田中弘さん)が生まれた篠谷があります。峠から少し南へ下ると玉谷へ行き、玉谷小学校へ入る道沿いが大内野(おおうちの)です。篠谷からもう一つ山を越えると、昔は猿谷(さるたに)と呼ばれていた仙波(せんば)で、さらにもう一つ山を越えると多居谷(おおいだに)、玉谷から西の山を越えると中野川(なかのかわ)があり、大内野からさらに南へ下ると総津へ行き、総津の西に高市(たかいち)があります。
 私は玉谷小学校へ通っていました。先日、総津の方に、『中学生になって三つの小学校の子どもが一緒になったとき、言葉の違いを感じませんでしたか。』と聞いたことがあります。すると、やはり違いを感じていたそうです。他の地区の子どもから見ると、『玉谷小学校から広田中学校へ進学した子どもたちは方言を使いよる。』というような感じだったそうです。玉谷小学校へ通っていた私は、『広田小学校と高市小学校から来た子どもたちが使っていたのが方言で、玉谷小学校の子どもたちが使っていたのが標準語だ。』と感じていました。ただ、多勢に無勢で、玉谷小学校は子どもの数が少なく、中学校へ進学すると、広田と高市出身の子どもの合わせた数にはかなわなかったので、黙っておくしかありませんでした(図表2-3-3参照)。同じ村内でも言葉に違いがある、ということについて、子ども心に非常に不思議な感覚をもったことを憶えています。『何で。同じ広田じゃのに。小さな村で。』と思っていたのですが、地域の歴史をひもといてみると、恐らく広奴田郷(ひろぬたごう)と砥部郷の違いではないかと思います。地形で考えると仙波ヶ嶽(せんばがたけ)という、道を通すことが難しい所が境目になっているとも考えられます。また、江戸時代の寛永12年(1635年)には松山藩と大洲(おおず)藩との間で替地が行われましたが、それまでは私が育った篠谷は砥部郷で松山藩の支配下にあったようです。一方、中野川、仙波、総津、多居谷、高市と、臼杵を含めた旧小田町全域と旧河辺(かわべ)村(現大洲市)の一部は広奴田郷になっていたそうです。歴史から見ると玉谷小学校の校区は、生活自体が砥部郷を基盤としていたのです。ですから、松山辺りの言葉が生活の中に浸透しているのではないか、という気がしています。」

 イ 仕事の手伝い

 (ア)テンコロ

 「テンコロは伐採した木に少し大きめの金槌で打ち込んで、それにロープをつけて引っ張り下ろすための道具です。ブルドーザーがない時代だったので林道が整備されておらず、木材を運ぶための道は、せいぜい牛が通ることができるくらいの幅の狭い山道で、牛も通ることができないような山道では人力で木材を引っ張るしかありませんでした。当時はこの仕事が子どもの小遣い稼ぎになっていました。私の家は山を所有していませんでしたが、山を所有していた近所の方が、私たちに、『おーい、今度の日曜日、何時に来てくれ。』と言うのです。その依頼を受けた私たち子どもはテンコロを腰に付けて、『チャリンチャリン』とテンコロがぶつかり合って立てる音を鳴らしながら集合場所へ行っていました。これは子ども心に非常にうれしかったことをよく憶えています。山での仕事に従事している大人と一緒になって仕事をしているという、誇らしさのようなものを感じていたからかもしれません。中学生になってからは、この仕事を手伝った記憶がないので、小学生の間、地域の上級生に連れられて、テンコロを三つくらい腰にぶら下げて、それが立てる音に山の仕事を手伝いに行くという喜びを感じていたのです。山道には急勾配になっている所もあったので、歩くときにも作業をするときにも、油断をすると怪我をしてしまうので、気を抜くということができませんでした(写真2-3-11参照)。」

 (イ)農作業

 「子どものころ、田んぼや畑で農作業の手伝いをすることは当たり前のことでした。玉谷小学校の付近では、学校での終わりの会で『さようなら。』とあいさつをして、私たちが歩いて下校していると、すでに鍬(くわ)を担いで手伝いに向かう友だちの姿を見ることがしばしばありました。当時は農業機械がない時代だったので、私が父親から、『あそこの田、打っとけ(耕しておけ)。』と言われたら、三ツ鍬では鍬自体の幅が狭いので、幅の広い大きな四ツ鍬を担いで田んぼへ行って打たなければなりませんでした。田を打つ作業は子どもにはしんどい仕事だったので、『嫌だなあ。』と思っていました。しんどい仕事をいかに効率良くやっていくか、ということを子どもの頭で考えながら仕事をしていたときに、一鍬一鍬を少し遠目に打ち込めば作業が早くできるのではないかと思い、実際にやってみましたが、遠目に打ち込むと土をおがす(掘り起こす)のが大変でした。『これはいかん、仕事はごまかすことができない。』ということを田んぼの作業で身をもって知った私は、それからはコツコツと地道に作業を行うように心がけました。稲刈りは何日かかけて行うことができますが、田植えは田んぼに水を溜めて、一度に行わなければならないので、近所の人や親戚の方が手伝いに来てくれていました。子どもにとって、地域の人たちや親戚の人たちと一緒に作業をすることは楽しいことでした。朝から晩までみんなで力を合わせて作業をしていました。私が小学生のころだったので、母親世代が30歳代だったと思います。母親も含め、同世代の女性たちは田植えが始まる前から集まって、ずっとおしゃべりをしていました。午前の田植えの作業が終わり、お昼の休み時間に入ると、食事をしている間は静かなのですが、食事が終わってから午後の作業が開始されるまで、また楽しそうにおしゃべりをしていたのをよく憶えています。私はこのような母親たちの姿を見て、『まあ、よくしゃべるなあ。』と子ども心に思っていました。ただ、作業中は、おしゃべりをしながらでも作業をする手がしっかりと動いていたことに感心したことも憶えています。稲刈りのときには、家からは距離がある山の田んぼでの作業だったので、昼食を取りに家へは帰らず、お弁当を持って山へ上がっていました。当時、お弁当を詰める弁当箱を『メンツ』と呼んでいて、このメンツに御飯とおかずを入れて持って行っていました。私が使っていた子ども用のメンツは小さなものでしたが、父親が使うメンツは私のメンツがすっぽりと入ってしまうくらいの大きなものでした。父のメンツには御飯が一杯に詰められ、御飯の上には梅干しが乗っていました。このメンツに詰められた御飯は、アルミの弁当箱に詰めたものと比べて冷めにくいのが特徴でした。さらに、通気性が良く、中身が蒸れることがなかったので、時間が経(た)ってもおいしくいただくことができていました(写真2-3-12参照)。 
 子どもである自分が山の仕事の一翼を担っているとか、田んぼの手伝いなどの家庭の仕事では十分に労働力になっているという自覚がありました。」

 ウ 子どもの世界

 「夏休みになると、小学校の同級生がお宮の草引きや清掃をしていました。これは地域の子どもたちの役割だったので、大人が手伝いに来ることは一切ありませんでした。子どもだけで相談をして、小学生と中学生が集まり、必要な道具も全て自分たちで準備をして行っていました。夏に子どもだけでこのような活動をして秋祭りを迎えますが、このような活動自体が子どもの世界を作り出していたと言えます。
 柿が実るころの10月23日がお祭りでした。お祭りの2、3週間前になると、お宮で獅子舞の練習が始まっていました。その練習で打たれている太鼓の音がよく聞こえてくるのです。学校からの帰り道、その音が心地よく聞こえていて、これが子ども心に非常にうれしかったことを憶えています。お祭りでは、お宮に大勢の人が集まって獅子舞を舞ったり、お神輿(みこし)を担いだりしていました。このような楽しいお祭りは、子どもにとってとても待ち遠しいものでした。これは多分、当時のことを思うと、『自分も地域社会の労働に加わっている。田植えをした、稲刈りをした、田んぼを耕すこともした。』というような気持ちがあって、『いよいよ収穫、実りの秋を迎えたな。』ということを子どもでも感じることができたということだと思います。当時、お祭りに当たって私が感じていた気持ちと、今の子どもたちがお祭りに感じる気持ちには、少し違いがあるのかもしれません。」

 エ 亥の子

 「私が子どものころ、亥の子は男の子だけの行事でした。亥の子への参加は小学1年生から中学2年生までで、3年生になると引退することになっていて、私にはこれが不思議なことで仕方がありませんでした。後になって分かったことですが、子ども組を離れるということだったのです。中学3年生で迎える15歳という年齢は、かつては地域の若衆組へ入る年齢でした。私が生まれ育った篠谷では、亥の子といえばわらで作ったわらボテと石のゴウリンサン(亥の子石)とがあり、30軒くらいあった家を順に回って行き、『こんばんは。亥の子に来ました。ボテにしますかゴウリンにしますか。』と家の人に聞いていました。大抵は『ボテにしてくれよ。』と言われていたと思います。家を新築したときなど、何かお祝い事がある場合はゴウリンサンで搗(つ)いていました。ただ、石で搗くと御祝儀が少しだけ高かったことを憶えています。わらボテは小さな小学生でも簡単に搗くことができますが、石のゴウリンは大変重たく危険だったので、ゴウリンに巻き付けた6本か8本ほどのロープを一人が1本持ち、力が強い中学生が搗いていました。
 また、亥の子のときには、お宮でゴウリンを使って『ミソヅリ』という遊びをしていました。これは狭い場所ではできない遊びで、ゴウリンに付いているロープを何人かで引っ張って、ゴウリンをぐるぐると回すと遠心力がつき、ロープを持っている人のうち、誰か一人でも手を離すとゴウリンが吹っ飛んでいくというとても危険なものでした。それを見ていた私は、『怖いなあ。』と思っていました。幸い、手を離したり、ロープが切れて誰かが怪我をしたりということはありませんでした。」

 オ 総津=都会

 「当時、私の感覚では総津は都会でした。篠谷で育った私にとっては、バス停があってお店が3軒あった大内野が町(まち)でした。これらのお店ではパンやキャンディー、お酒などを販売していました。この感覚を持った私が総津へ行くと、どのように感じるのかというと、総津は道路を挟んで軒を連ねて家が建っている、これは都会以外の何ものでもなかったのです。
 小学生のころ、広田小学校で村民体育大会が開催されていました。移動するための車がなかった当時、私の地域の人たちはお弁当とゴザを持って集合場所へ行き、そこから農協のトラックの荷台に乗せてもらって行っていました。村民体育大会は年に1回開催されていて、そのときにはお小遣いを少しもらって行っていました。総津の雑貨屋さんにはくじ引きがあって、そこでくじを引くのが本当にうれしくて、ほとんどハズレだったのですが、稀(まれ)に3等が当たったりすると本当に喜んでいたことを憶えています。私にとって総津は都会でしたし、広田中学校へ進学したときに、広田小学校から進学してきた子どもたちを『町の子だなあ。』と感じていました。出身者数が多いということもありますが、総津には呉服屋さんがあったり、旅館があったりしたためだと思います。篠谷には店がありませんでしたが、お砂糖やお塩、お味噌、マッチなどの生活必需品は婦人会の役員さんの家に置いていたので、そこへ買いに行っていました。」

 カ ふるさとを学ぶ

 「ふるさとの歴史や文化を学ぶとふるさとに愛着が湧きます。また、砥部や広田の歴史や文化を学ぶということは、日本の歴史や文化を学んでいることになると言えます。ふるさとの歴史や文化を学べば、今を生きる知恵や希望が見えてくる、そこに歴史や文化を学ぶ意義があると思います。 
 平成の世の中を生きている私たち大人の姿を、今の子どもたちが子どもたちの目線で見ています。今、私たちが生きている姿を、過去に私たちがしてきたように、子どもが映像として脳裏に焼き付けています。今の私たちがどう生きるか、というのは将来を生きる若い世代の人々に影響を与えるし、将来の砥部町に影響を与えると考えています。
 広田地区は人口がかなり減少しています。『元気・ひろた』を考える会の人たちが、どのように地区を活性化していけばよいのか、その方策を一生懸命に考えてくれています。その姿そのものが、今の子どもたちに非常に良い影響を与えていくと確信しています。」


<参考文献>
・砥部町『砥部町誌』 1973
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)』 1983
・広田村『広田村誌』 1986
・角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』 1991
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』 1994
・徳田留吉『村の記憶-留吉さん、九十二歳が綴る物語-』 2008

写真2-3-10 夷屋旅館現況

写真2-3-10 夷屋旅館現況

写真右側にある建物がゑびす屋。砥部町。平成27年12月撮影

図表2-3-3 広田小学校・玉谷小学校の児童数推移

図表2-3-3 広田小学校・玉谷小学校の児童数推移

『広田村誌』から作成。広田小の児童数は分校の児童数を含む。

写真2-3-11 テンコロ

写真2-3-11 テンコロ

田中弘さんの自宅に残るテンコロ。砥部町。平成27年12月撮影

写真2-3-12 メンツ

写真2-3-12 メンツ

田中弘さんの自宅に残るメンツ。砥部町。平成27年12月撮影