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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅸ -砥部町-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 松山へ行く

(1)戦後の松山

 ア 祖父と一緒に

 「私(Aさん)の祖父は運送店を営んでいたので、仕事で松山へ行くときには、よく一緒に行っていました。私が子どものころには、私の家では蒟蒻(こんにゃく)玉を生産するのが本業でした。私の祖父は蒟蒻を作りながら、外国製のトラックを購入して、カネマタという屋号で運送店を営んでいました(図表3-3-3参照)。 
 松山へ行ったときには病院へ行ったり、道後に泊まったりしていました。当時は松山へ行くということは泊まりがけで出掛けるということでした。トラックでその日のうちに往復することも可能でしたが、かなりの時間がかかっていたように思います。」

 イ 広田と松山を結ぶバス

 「私(Aさん)らより前の世代、親の時代には広田と松山を結ぶバス路線がありませんでした。広田を出て上尾峠を越えて、千里口まで下りたらそこからは馬車を使っていたようです。バスはまず、戦前に三共バスが通っていました。バスといっても荷台に幌(ほろ)がかかった6、7人くらいが乗ることができる外国製の車でした。戦争中には伊予鉄道のバスが通っていました。昭和19年(1944年)ころには、松山の榎(えのき)町にバスの停留所があって、私たちはそこで乗降をしていました。榎町は日銀(日本銀行)松山支店の近く、伊予銀行本店がある辺りです。日銀は戦災を逃れて焼け残り、場所も変わっていませんので、その近くでした。松山の大空襲の後は、『あの辺りでは県庁と日銀などが残っただけ。』と言ってもよいくらいです。」
 「路線バスには本当にたくさんの人が乗っていました。乗用車など、ほかに交通手段がなかったということです。路線は小田(おだ)から松山までで、当時、便数はとても多かったと思います。私(Dさん)が憶えているのは、当時、馬力のない薪(まき)を焚(た)いて走るボンネットバスでの運行でしたが、お客さんがたくさん乗っていると、峠道を登ることができず、乗務員がお客さんに『降りてくれ。』とお願いをすることがありました。お客さんがバスから降りて、車重が軽くなると動くことができたので、降ろされたお客さんはバスの横を歩いて坂道を登っていました。」
 「私(Cさん)が伊予鉄道に入社した昭和40年(1965年)ころには、すでに木炭車は走っていませんでしたが、若い時にはまだ走っていました。戦前から広田には三共バスが走っていましたが、間もなく伊予鉄道に代わったことを憶えています(昭和19年両社合併)。当時のバスにはまだ、伊予鉄道電気株式会社と表示されていました。多くの人がバスを利用していて、いつも満員だったので、乗務している車掌は中に入れず、出入口のドアにしがみつくようにして乗っていました。
 木炭車には車の後方に燃料となる木炭を積む部分がありました。バスには高さ2mくらいのタンクがあって、そこへ木炭を上から放り込んで、送風機を回して火を起こしていました。木炭を途中で追加投入しなくても松山まで行くことができていたと思うのですが、朝早い時間帯のバスなどで、始発の小田で十分に木炭を入れることができていないバスは、上尾峠の辺りでガスが足りなくなるので、木炭を追加して投入する必要があったようです。発生したガスを燃焼させた際に出る火が、青い火であれば良かったのですが、ガスが不足してくると、赤みがかった火になっていたので、目で火を見ることで木炭を追加する必要があるかどうかは分かるようになっていました。木炭を投入したら、車掌がタンクの上に上がって、鉄の棒を突っ込んでその中をぐるぐるとかき混ぜていました。木炭車からディーゼルエンジンに切り替わっていくころには、バスの後ろのタンクだけを取り外して、バスから後方1mくらい、はみ出して取り付けられていた鉄の枠だけが残されたバスがたくさん走っていました。つまり、車体はそのままでエンジンだけをディーゼルエンジンに積み替えて走っていたということです。
 私が子どものころ、まだ木炭車が走っていたころには、総津(そうづ)から帰宅するのに4、5kmほど歩かないといけなかったので、その鉄枠の部分に飛び乗り、バスにしがみつくような格好で帰ったことがありました。今は絶対にしてはいけないことですが、当時の木炭車では広田から松山まで2時間近く時間がかかり、あまりスピードが出せず、ゆっくりとしか走れなかったので、そのようなことができていました。しかし、ディーゼルエンジンのバスになってからは、スピードが格段に増したので、飛び乗ることは危険でできなくなりました。それでも飛び乗ったり、自分が降りたい所で飛び降りたりしていた人たちは、怪我(けが)をしていました。
 松山と小田とを結ぶバス便は一日6往復くらいあり、中には総津止まりの便もありました。私の家から最寄りの玉谷(たまたに)のバス停は2.5kmほど歩いた所にありました。当時はまだ、家からバスが通る道路までの道が整備されておらず、小道というような道を歩いてバス停にまで行っていたことを憶えています。」
 「バス便があった時にはバスに乗ることができるだけでも良かったものです。バスに乗れないときには、松山から歩いて広田まで帰って来たこともありました。松山から帰るのに、森松(もりまつ)までは伊予鉄道の汽車が走っていました。市駅から森松線があって、坊っちゃん列車が走っていました。森松までは森松線に乗って、そこから先は歩いて帰るというのが当たり前でした。私(Aさん)自身、何回か歩いて広田まで帰ったことがありました。」

 ウ 松山市駅付近の様子

 「当時、今の伊予鉄高島屋の場所には長屋造りのマーケットがあり、市場のようになっていました。今、中の川で教材店を経営している方の先代は、そのマーケットで鮮魚店をしていました。マーケットの中には釣り道具店があったり、菓子店(タルト)があったりしました。また、今の伊予鉄道の本社寄りには伊予鉄マーケットがあって、その中にはレストランがありました。その後、マーケットが立ち退(の)きになって、そこにできたのが伊予鉄そごうです。教材店を営んでいる方は、立ち退きになったことで中の川へ移り、鮮魚店から教材店に衣替えをしたようです。
 今の県病院(愛媛県立中央病院)の近く、末広(すえひろ)町にはガマの油のコマ回しさんがいました。コマ回しで、田渡(たど)の八幡さんなどによく来ていました。それを見ていた私(Dさん)が中学へ通うのに松山へ出て室(むろ)町に住むと、近くにその方がいたのを憶えています。当時、今の県病院の敷地は刑務所で、隣に官舎がありました。それまで県病院は花園(はなぞの)町から少し西側にあったようです。」

(2)松山への通勤

 ア ふるさとの実家を守る

 「私(Cさん)は伊予鉄道に入社してからも、満穂から松山までバスで通勤していました。社員である私の松山までの運賃は無料でした。私には弟妹が10人いたので、『長男は実家に残って、弟妹が里帰りする所をなくしてはいけない。』という強い気持ちをもっていたので、満穂の家を離れることなくバスでの通勤を選んだのです。
 また、私は勉強がしたくてもできる環境ではなく、実際できなかったので、『自分の子どもだけには勉強をさせてやらないといけない。』と思い、現金収入を求めて伊予鉄道など、松山の会社で働いていました。当時から、将来は広田から松山は十分通勤圏になるだろうと予想していました。だからこそ、『自分はこの広田村に残る必要がある。』と、強く思うようになったのです。」

 イ 通勤

 (ア)バスでの通勤

 「朝一番の松山行きのバスが玉谷のバス停を6時40分ころに出ていたので、私(Cさん)は松山への通勤のためにその便を利用していました。そのときには木炭車ではなく、すでにディーゼルエンジンのバスに替わっていましたが、箱型ではなくボンネット型でした。木炭バスのときには、馬力がなく、満員の乗客を乗せたままでは上尾峠を登ることができないというようなことがありました。木炭バスの燃料となるガスがなくなり、車掌が木炭を追加で投入して、ガスを起こしていたことを憶えています。しかし、ディーゼル車ではバスが動かなくなるというようなことはありませんでした。」

 (イ)土砂崩れ

 「今は広田から松山への道が整備されており、車などを運転して松山へ出るのは快適ですが、当時は道が整備されておらず、昭和40年(1965年)ころには砥部の町も舗装ができていませんでした。供養堂(くようどう)の辺りは舗装がされていましたが、宮内(みやうち)や砥部の町中辺りは砂利道で、道の所々に穴があり、雨水が溜(た)まっているような状態でした。町中でもそのような状態だったので、広田へとつながる山道を通行することはかなりの苦労でした。台風が来れば、山崩れで道路が通行止めになったこともありました。
 私(Cさん)が中古車を購入して、その車で松山へ通勤していた時のことです。松山から帰る途中、『三段カーブ』と呼ばれていた場所の前で、私が運転する車に対して、前を走っていたバスが先に行くよう指示機を出したので、バスを追い抜き先に進みました。すると、三段カーブの所の山の斜面からバサバサと石ころが落ちてきました。『これはいかん。』と思って車を止めると、目の前へ山の斜面が滑り落ち、とても大きな土砂崩れが発生したのです。この土砂崩れでは、大森彦七の城があった山が崩れて道を塞(ふさ)ぎ、その土砂を除(の)けるのに1か月以上かかりました。その間は当然、広田松山間は三段カーブの所で通行止めとなっていました。
 この土砂崩れにより、私が車を止めていた所へ、先ほど追い抜いたバスが追い付いて来て立往生してしまいました。バスは、今のような真っ直ぐな道であれば、バックして容易に方向転換することが可能ですが、そのころは道幅が狭く、道はバスの車幅一杯で、しかも急カーブだったので、私は自分の車を放っておいて、バスの車掌と二人で、お客さんを乗せたままバックで引き返すバスの誘導をしながら、万年までバスについて歩いて行きました。あの土砂崩れの時には、『よくバスが巻き込まれなかったものだ。』と、バスを誘導して、お客さんの無事な姿を見たときに思ったのを今でも憶えています。少しでもバスが通過する時間か土砂が崩れる時間が違っていれば、バスが巻き込まれていました。過去には、長浜(ながはま)(現大洲(おおず)市)の先の磯崎(いさき)で伊予鉄バスが波にさらわれてしまったという事故が起きています。その事故から間もなくのことだったので、会社ではこのような緊急事態時の対応についての講習があって、それで対応できたのです。
 三段カーブから万年までをバックで、長いこと時間をかけて戻りました。途中に抜け道がなく、本当に大変でした。広田へ帰る途中の私は、バスを誘導した後、車を置いて来た場所まで再び歩いて戻り、方向転換をして久万を回って帰りました。その後、道路が復旧するまでは久万回りで松山まで通勤していました。広田から臼杵(うすき)(現内子町)へ入り、父二峰(ふじみね)(現久万高原町)へ下って久万へ出て、三坂(みさか)峠を下りるという経路で、距離がそれまでの通勤経路の倍はあったように思います。通勤に時間がかかりましたが、遅刻をしたり休んだり、ということは一度もありませんでした。」

 (ウ)稲わらを焚く

 「自動車を購入するまでは、冬場にオートバイを使って通勤したこともありました。風を通さず、温かい革の手袋をはめていたら問題なかったのですが、軍手しか用意することができなかったので、松山まで運転していると手がかじかんでしまい、途中2回は手を炙(あぶ)らなければ(焚き火で温めなければ)手の感覚がなくなってしまっていました。ですから常に稲わらをオートバイに2把ずつ積んで、いよいよ手の感覚がなくなってきたら、道端にオートバイを止めて、その傍(そば)で稲わらを焚いて手を温めてから再度オートバイを運転していました。
 砥部まで下りたら大分温かくなるので、そこから松山までは稲わらを焚く必要はありませんでした。稲わらは、三段カーブの所で1回焚きます。稲わらの火であれば、急に手を温めても手が痛くなりませんでした。わらの火は火力が強すぎず弱すぎず、ちょうど良いのです。それから砥部の手前でもう一把焚くと、松山まで手は大丈夫でした。
 当時乗っていたオートバイは、ホンダのドリームでした。250ccの大きなバイクで、弟が購入して使っていたものを譲ってもらい、通勤に利用していました。そのドリームが故障したり、パンクしたりするので、一回り小さい125ccのオートバイに乗り替えました。このオートバイに替えてからは、トラブルに悩まされることはありませんでした。修理工場は広田村の中にあったので、故障したときなどはそこに修理を依頼していました。昔の道には苦労ばかりさせられたという思いが強いので、今の道路ができたときは、うれしくてたまりませんでした。」


<参考文献>
・砥部町『砥部町誌』 1973
・広田村『広田村誌』 1986
・角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』 1991
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』 1994
・愛媛県歴史文化博物館『村上節太郎がとらえた昭和愛媛』 2004

図表3-3-3 カネマタのマーク

図表3-3-3 カネマタのマーク

聞き取りにより作成。