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愛媛の祭り(平成11年度)

(2)祭りばやしに誘われて

 ア 高森三島神社の秋祭り

 **さん(伊予郡広田村高市 大正11年生まれ 77歳)
 **さん(伊予郡広田村高市 昭和2年生まれ 72歳)
 **さん(伊予郡広田村高市 昭和13年生まれ 61歳)
 伊予郡広田村高市の高森三島(たかもりみしま)神社の秋祭りは、10月22日が宵宮(よいみや)(*29)、23日が本祭り、24日が後祭りと3日間行われてきた。本祭りには、神事の後に神輿渡御が行われ、神輿の先祓(さきばらい)としての舎儀利(しゃぎり)やそれに続くお練りがあり、お旅所では神事と浦安の舞、成前獅子(なるまえじし)や鴨滝獅子(かもだきじし)の舞といろいろな所作事(しょさごと)もあって、むらは一番のにぎわいをみせる。
 高市地区で生まれ育ち、現在、宮総代を務める**さんに高森三島神社の秋祭りの運営についての話を聞いた。

 (ア)祭りの運営

 「祭りの準備は10月20日にするんです。各組から一人ずつ役が出て、まず幟(のぼり)を立て、それからしめ縄をなったり、お宮の掃除をしたりするんで一日中忙しいんです。
 高市では、鴨滝地区を1組、成前地区を2組と3組と4組に分け、石野(いしの)地区を5組、谷(たに)と山谷(さんごく)と切迫(きりさこ)の地区をまとめて6組として区分し、それぞれの役割を決めて祭りを行っているんです。そのうち2・3・4組はむらの中心なので昔から本村(ほんむら)と呼び、5・6組はその下にあるので大下(おおしも)と呼んでいるんです。
 地区の世話をする総代は、1・2・3・4組からはそれぞれ一人出し、5組・6組は少人数なので合わせて一人出して、その5人の中から宮総代3人と寺総代2人を決めているんです。
 祭りには、神輿のほかに舎儀利や成前獅子・鴨滝獅子・提婆(だいば)(*30)・狐(きつね)・猿・じいさんなどが出ますが、昔からそれぞれの組で役割分担が決められていたんです。1組の鴨滝地区からは鴨滝獅子、大下からは舎儀利、本村からはそれ以外の成前獅子などを全て担当するということになっていたんです。神輿は、一の輿・二の輿・三の輿と三つ出ますが、1組と2組、3組と4組、5組と6組がそれぞれ一つのグループとなって一つの神輿をかき、各神輿はグループで年々変わっていくんです。今は若い者がおらんようになって、神輿のかき手もおらず、獅子をあつかった者が神輿もかくというような状況になっているんです。そのために、昔は三つの神輿が分担を決めて、むら全体の家を1軒1軒回っていた時期もあったんですが、今は一の輿だけを若い者がかき、その年によって回る組を決めて回っているんです。
 わたしの組は5組ですから、舎儀利を担当しているんです。わたしも昔は笛を吹いていましたが、舎儀利には笛吹き以外に行進の差配(さはい)をする提婆とはやし方の締太鼓(しめだいこ)一人と小太鼓(うけばち)二人、鉦すり二人、手拍子一人がいるんです。このうち、提婆と笛吹き以外は子供が行っています。昔は笛吹きは10人くらいはいたんです。しかし、今は若い者がおらんようになって、学校の先生にも手伝ってもらって7人くらいでしています。」

 (イ)お練り

 お練りなど祭りにかかわる様子に詳しい**さんと**さんに話を聞き、**さんの話を中心にまとめた。
 「10月22日の宵宮では、午後2時ころから部落総代とお宮の総代さんなどが集まって神事をしたのち、軽く直会をするんです。24日の後祭りでは、神事はなくて、昔は若い者が集まって獅子舞やいろいろな所作事をしてもちまきをしていました。しかし、後祭りで獅子舞などをしていたのは太平洋戦争後まもなくの間で、しないようになったのは30年以上も前のことです。今年(平成11年)の後祭りは、カラオヶ大会をすることになっとります。そして、23日の本祭りでは、神事の後に獅子舞があり神輿渡御が行われますが、今でもお旅所までお練りが行われているのは広田村では高市地区だけになりました。
 このお練りがどこから伝わったかは、はっきりはしないんです。中山町の永木(ながき)という所に高森三島神社の元宮(もとみや)(主神が祀られている根本の社)になるという三島神社があって、そこに同じようなお練りが存続しているというんで、どうも中山町の方から明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)(*31)のころに伝えられたんではないかといわれているんです。舎儀利や獅子舞なんかも、永木あたりで行われていたものを習ったんではないでしょうか。
 昔から宮出しは午後2時ころからです。12時ころにお宮の太鼓をたたいて子供らを集めて衣装を着けて、午後1時過ぎには神輿を出して御霊移(みたまうつ)しの段取りをするんです。その間にお宮の境内では成前獅子が舞い、次いで鴨滝獅子が舞いますが、そのころには御霊移しが終わり、舎儀利が笛を吹いてお練りの先導を始めるんです。舎儀利は、お宮の境内と下の鳥居のところで演技をして出発します。
 お練りは、舎儀利を先頭に、続いて提婆・狐・猿・じいさん・孫・猟師・お福(オヤス)・獅子(成前獅子)の順に並んでお旅所までいろいろな所作をしながら進んでいくんです(口絵参照)。わたしは学校を卒業した年からずっと提婆の役をさされて今もしています。提婆は神様の露払いの役ですので、お練り全体に号令を掛けたりしてお祭り全体を監視し、指揮する役目をするんです。舎儀利にも提婆がいますが、舎儀利の提婆は舎儀利の進行を差配するだけで役割は違うんです。
 お練りは、必ず庄屋であった家の前を通ることになっていましたが、今は通っていません。お旅所は、旧庄屋の家の近くの広場でしたが、新しく県道久万・中山線が整備されてからは、農協前の道路になったんです。交通量も少なく、うかい路もあるんで交通に支障はありませんが、車が来ても演技の途中では止まって見てくれています。
 お旅所では、獅子やじいさんなどが演じる場所である庭場(にわば)に、むしろを12枚敷くようになっているんです。そのほかに太鼓たたきの座る所に2枚敷きます。昔のお旅所はそんなに広くはないんで、12枚のむしろを敷いたらいっぱいになるし、田んぼのイネの切り株の上にむしろを敷いたんで凸凹になっていて、獅子が舞っていて足をひっかけたりしていました。」

 (ウ)成前獅子と所作事

 「祭りには、本村地区から出る成前獅子と鴨滝地区から出る鴨滝獅子の2種類の獅子が出とります。成前獅子は庭獅子(にわじし)、鴨滝獅子は乱獅子(らんじし)です。
 成前獅子の方は、雄雌各1頭の獅子が登場しますが、1頭の獅子を2人で演じる二人立ちの獅子舞で、獅子を操る人は4人います。それに2匹の狐と太鼓をたたく者が2人いるんです。鴨滝獅子の方は、二人立ちの雄獅子1頭が出ますが、お練りには加わりません。鴨滝獅子は後から祭りに加わったんで、お練りのお供には入れてもらえなかったんではないかと思うんです。
 成前獅子は、太平洋戦争後の一時期までは、宮出しの時にお宮で一庭舞い、お旅所で二庭舞い、宮入りの時にもお宮で一庭舞い、お宮とお旅所で合わせて四庭舞っていました。しかし、今は宮入りでは舞っていません。鴨滝獅子の方は、成前獅子が舞った後に舞うようになっているんで、獅子舞が二庭以上は必ずあるんです。また、それぞれの庭場では、獅子のほかにお練りに加わったじいさんや孫・狐・猿などが昔の農作業の所作事を演じるんです。
 昔の農作業の所作事というのは、大まかに言うて春と夏と秋と冬の四つあるんです。宮出しの時には春の所作事をして、お旅所では夏と秋の所作事をして、宮入りでは、冬の所作事をするんです。春の所作事では、じいさんと狐と孫と猟師が登場しますが、2匹の狐が出てきていろいろと悪さをするんで、じいさんが猟師を雇って追い払う所作をするんです。夏と秋の所作事では、じいさん・孫・猟師・猿・狐などが出場しますが、夏にじいさんが原野を切り開いて、焼いて、開墾して、ソバをまき、用事がなくなって寝ていると、そこへ猿が出てきてソバ畑を荒らすんで、猟師に頼んで退治してもらい、秋になるとソバを収穫して酒盛りをするような所作をするんです。また冬の所作事は、こくばかき(落ち葉集め)をするんです。じいさんが落ち葉を集めていると猿が出てきて集めた落ち葉を何度も散らかすんで、困ったじいさんが猟師を雇って退治してもらうんです。宮出しの時以外は、狐は悪さをしません。また孫は、じいさんの後ろに付いていつも出ますが特別の所作事はしません。
 成前獅子と所作事は、宮出しの時には、一庭で大体15分ぐらいかかりますが、お旅所では二庭で、1時間以上もかかるんです。あまりに長いんで、事前に所作事の内容でも分かっていないと、見ている者は何をしているのかさっぱり分からず退屈するんです。説明する人でもおればと思うんですがね。
 昔はお旅所にはそれは大勢の観客が来てました。今みたいに楽しみもなかったんです。よそからは中山町、内子町(特に大瀬(おおせ))、小田町の人が多かったようです。中山町と内子町は峠一つ越えればいけるんで関係が深かったんです。また広田村の中でも地域によってお祭りの日が別々だったんで、村内からも大勢の人が来ていました。」

 (エ)愛郷会とけいこ

 「祭りに際しては、舎儀利は愛俗会(あいぞくかい)、庭獅子と所作事は愛郷会(あいきょうかい)という組織があって、それぞれにけいこをしてました。本村の愛郷会は、太平洋戦争前からあったんですが、今から20年くらい前から庭獅子保存会と名前を変えています。これは若い者が次第にいないようになってきて、年齢制限などは撤廃せねばいけないようになって、愛郷会という組織では成り立たんようになったからです。今の獅子は35歳から40歳ぐらいの者がしています。
 愛郷会には、尋常小学校を卒業すると全員が入ることになっていました。高等科に進んだ者はそこを卒業した時には必ず入るというおきてがあったんです。高市の本村に住む男性は、学校を卒業すると全員が愛郷会に入ってけいこをしたんです。そして、結婚するか、結婚しなくても25歳になるまでは会に付き合うという決まりがありました。成前獅子は、終戦までは長男だけが出ていたんです。それは、長男は家にいるので伝統を残せるが、次男や三男は結局は家を出るんで教えても役に立たなかったからです。
 愛郷会の会員は、けいこには全員が出ることになっていたんです。学校以上に厳しいんで、ここに住んどる以上は絶対に出なければならなかったんです。しかし、芸事の嫌いな者は出たくないんです。わたしらの若いころには、だれだれが来てないから呼んでこいいうて呼びに行かされたもんです。そして、来なかったら親から罰金を取ったりもしていました。それぐらいにしないと統制はとれなかったんです。それでもおもしろかったんでしょう。わたしが愛郷会に入った年には、家にもんて(帰って)寝たのは二晩か三晩ぐらいで、毎晩お宮で寝ていろんな馬鹿話をしたり、ええことや悪いことも習ったもんです。昔の青年宿(若者宿)(*32)みたいなもんでした。
 愛郷会に入会した当初は、何も分からんので、タケのばちで板の間をたたいて太鼓のけいこをしたり、その他の所作を先輩のけいこを見ながら覚えていくんです。それでも、せっかくけいこしても全員が出場するということにはならないのです。本番に出る者は何人もいらんのです。獅子を扱うのは、腕力がいるし舞う者も器用な人じゃないとつとまらんのです。じいさんの所作事なんかも大分あるんで、順々に教えていかないといけないので、1年くらいでは本当によう覚えないのです。2年目くらいになってやっと一庭か二庭ぐらいをさせてもらうようになるんです。
 けいこは、早いときには9月3日ぐらいには集まって一晩がい(隔日に)にするか、二晩がいにするかを相談してから始めるんです。そして10月5日ころにはけいこの『中祝(なかいわ)い』をしてました。中祝いでは、昔は何もないので酒などは飲まず、いりこ飯を炊いて食べてました。そして10月21日ぐらいになると、『貼物(はりもの)』を行ったんです。貼物というんは、祭りに出る猟師やじいさんなどが持つ鉄砲や鎌(かま)や鍬(くわ)などのいろんな道具に飾りを付ける作業をするんです。獅子なんかも長く使っていると修理もしないといかんのです。そして、祭りが終わった25日には、若い者が集まって『干しもの』という仕事をしました。祭りに使った衣類などを干して保存するんです。この日には、米を3合ずつ持ち寄り、いりこ飯を作って打ち上げのお祝いをしました。幟も雨が降らなければこの日にしまうんです。今はけいこをほとんど学校の体育館でしてますが、昔はお宮でしてました。電気がついたのが昭和22年(1947年)ころだったんで、それまではロウソクかランプでけいこをしてました。
 祭りの演者は、獅子を操る人とじいさんとオヤス以外は子供がすることになっていたんです。子供でもけいこは午後10時ころまではしないといけなかったんです。太平洋戦争後しばらくして、子供らに勉強勉強と言い出してからは、子供は使えんことになったんです。しかし、それも長くは続かずに、十数年前からは、また、子供にしてもらうようになりました。現在は、獅子の4人とじいさん以外は子供がしています。猟師や狐や猿などの所作事をいろいろと教えなければならないので、けいこはなかなかなんです。昔は子供が大勢いたんで相談して適当に子供を選んでいましたが、このころは子供がおらんようになって、1年したら帰ってしまう山村留学生(*33)にしてもらっています。ですから、込み入ったことはよう教えんようになりました。しかし狐だけは地元の子にしてもらっています。この子は、今年(平成11年)は小学校5年生ですから、来年ぐらいまではなんとかしてくれると思うんです。現在も子供は小学生だけで、中学生や高校生は参加していません。」

 イ 一宮神社の秋祭り

 **さん(東宇和郡城川町魚成 大正7年生まれ 81歳)
 城川町の秋祭りは、一応11月3日に統一されているが、神職の関係もあって神社によっては他の日に実施されているところもある。城川町魚成(旧魚成村)では、河内神社・三島神社・杉王神社は11月2日に、一宮神社・八幡神社・白王神社は11月3日に実施され、一宮神社と八幡神社では神幸式(しんこうしき)(お旅)が行われている。
 城川町魚成で一宮神社の氏子として生まれ育ち、宮総代や総務区長を務めるなどして長く祭りにかかわってきた**さんに、一宮神社の秋祭りについての話を聞いた。
 「一宮神社の秋祭りには、事前に地区で実った作物を神社に持っていき、神様にお供えする風習があるんです。お供えする作物は決まっており、その割り当ては、それぞれの地区の実情を考慮して毎年総会で決められるんです。
 各集落に割り当てられた作物は、区長さんが皆と相談して提出者を決めてますが、『わしとこにはダイコンができとるから出そう。』『わしとこはカブができとるから出そう。』という具合に皆の希望を聞いて決めるんです。わたしの住む蔭之地地区では、10月20日に山の神様の祭りがあって、その折に皆で相談して決めているんです。
 お供え物を神社に持っていく日は、祭りの前々日と決まっていました。昔は今のように道が奇麗でなかったんで、その日は朝から道つくりや幟立てなどをしてたんですが、お供え物はその折に各自が持って行きました。今は区長さんが取りまとめて持って行きます。そして祭りの前日になると、宮総代、区長、大警護(だいけいご)(お練り全般を指揮する役)が神社に集まり宵宮を行い、神事の後には直会もするんです。
 一宮神社の祭りを実際に執り行うのは、蔭之地、川向、中津川、町中、古市の5つの集落なんです。しかし、成穂(なるお)、今田(いまで)、男河内(おんがわち)も祭りに加わり、昔から五つ鹿は男河内から出すことになっているんです。
 祭りの当日は、朝早くから関係者が集まって、神輿や四つ太鼓(ヨイヤッサとも呼ぶ)を仕立てるなどの準備をするんです。その間に親牛と子牛の2頭の牛鬼は、それぞれ別々に集落を回って家々の悪魔払いをし、五つ鹿の方も呼ばれた家々を回って踊ります。しかし、牛鬼や五つ鹿は、神事に間に合うように午後1時30分ころまでにはお宮に集まるんです。
 わたしの子供のころの牛鬼は、青年団がかいていました。親牛は古市・町中から、子牛は蔭之地・川向・中津川から出すことに決まっていました。今は青年も少なく高校生や中学生もかいています。神幸式での宮出しの順序は、鉄砲・鳥毛(とりげ)・相撲・鹿踊り・四つ太鼓・牛鬼・お成(なり)太鼓・銘旗(めいき)・神輿・御前(ごぜん)びつ・猿田彦(さるたひこ)・大警護と決まっていました。お旅所は神社から約1,500mの所にある保育所ですが、そこまで皆で練って行くんです。
 この神幸式では、親子の牛鬼が向かい合ってトンネルを作り、神輿を送迎する儀式があるんです。その儀式は、宮出しの時と途中1か所、お旅所の入り口で神輿をお迎えする時と、神輿をお送りする時の合計四回行うことになってます。ですから、牛鬼は途中で走ってお練りの先頭にならんといかんのです。
 お旅所では、神事が行われる間に子供たちの相撲が行われるんです。その後に五つ鹿踊りが披露され、牛鬼や四つ太鼓が練ってけんかなどをして(平成11年は行われなかった)、最後にもちまきがあり神幸式は終わるんです。
 牛鬼や四つ太鼓がけんかするのは、親牛と子牛と四つ太鼓はそれぞれの集落によって出しものが決められ、かき手が違っていたからなんです。牛鬼同士がぶつかりあったり、牛鬼と四つ太鼓がぶつかりあったりするんですが、酒を飲んでけんかをする人もいて、わたしも若いころに牛鬼をかいていて恐ろしかった記憶があります。お旅所で神輿をお送りしてからも牛鬼は一暴れしますが、その後は午前中に回り残した家々を回ってご祝儀を頂く『ご祝儀拾い』をします。家はすべてが平たんな所にあるとは限りませんので、山の上の方にある家などは直接に行けない所もあり、道から『祝いますぜ。』と言うて家に向かって頭を一回突っ込むんです。今の牛鬼は、軽トラックに積んで回っていますが、昔はすべてかいていたんで大変でした。」

 ウ 牛鬼の修復

 **さん(東宇和郡城川町魚成 昭和3年生まれ 71歳)
 城川町魚成の一宮神社の秋祭りには二頭の親子の牛鬼が登場して祭りを盛り上げる。牛鬼は南予地方の祭りに多く見られるものであるが、城川町の牛鬼は暴れ牛鬼で傷みも激しいという。その牛鬼の修復に長年かかわってきた**さんに、修復作業の苦労話を聞いた。
 「わたしが牛鬼の修復にかかわりをもったのは昭和44年(1969年)ころからです。以前から修復にかかわっていた人から『おまえは器用だからわしの弟子として手伝ってくれや、わしは年取ったけん絵付けをようせんようになった。』と言うて頼まれ、引き受けたのが始まりなんです。初めは絵付けだけでしたが、最終的には骨組みなども教えてやるから後を継いでくれということで、結局今日まで修復にかかわることになったんです。
 主に修復しているのは、一宮神社の親牛と子牛ですが、修復には相当の費用もかかりますから毎年というわけにはいかんのです。だいたい10年ごとに修復しています。最近修復したのは平成10年でした。今回修復した牛鬼は今までで一番傷んでいました。よく傷むところは頭の部分なんです。牛鬼と牛鬼が激突してけんかをしたり、四つ太鼓との鉢合わせなどで傷むんです。昔は若い者も多くて牛鬼のかき手があふれとったんで、頭使(かしらつか)いには名手がなっていて、今のような牛鬼のかき方はしなかったんです。頭をいっぱい上にあげて頭を守っていたんです。最近は頭をひこずって上にようあげんのです。今はかき手も少ないうえに力もなく、頭を使う技量もないんで、傷みが早いんです。
 牛鬼はなんといっても頭の扱いが重要な役で、フキアゲ(吹上)と言うて、牛鬼を勇壮なかっこうに見せかけるために頭を上にすうっと一気にあげるんです。そのあげ方が難しいんです。あげ方がうまいと牛鬼の首が奇麗に膨らんで本物のウシのようになるんです。
 親牛と子牛の頭の大きさは大分違うんです。昔の大親牛(かつての親牛のこと)の頭は角の先からあごのところまで1m10cmくらいあったんです。大親牛の頭は重たいので、現在は今までの子牛を親牛にして、新たに軽くて小さい子牛を作ったんです。親牛にした頭は80cmぐらいはあります(写真1-1-38参照)。
 魚成の牛鬼の口は、最初から開いた形で作るんです。宇和島の牛鬼はけんかせずに練り歩くので、口をパクパクと動くように作られとるんです。こちらの牛鬼はけんかをするんで宇和島のような牛鬼だとすぐにあごが外れてしまうんです。
 宇和島近辺の牛鬼とこの辺の牛鬼は、面の形相が全然違うんです。こちらの牛鬼は、あごが固定していて顔の作りがのっぺらで実際のウシに近い形をしとるんです。どちらかというと宇和島の方は華麗で、こちらは野生的ということになりましょうか。
 頭の中は、なるべく軽くするためにキリやスギの木を使いますが、ヒノキは粘りがあるので薄い板にして耐久性が求められる肝心な箇所に部分的に使うんです。最近はしゃにむにけんかして頭棒(かしらぼう)(頭を支える棒)を差し込む所がよく傷むので、去年修復した牛鬼からはそこを一番薄い鉄板で作るようにしました。
 頭を修理する時は、一度は全部はずして分解してしまうんです。顔に張り付けている紙は泉貨紙(せんかし)(*34)という紙を野村町中筋(なかすじ)から従来は取り寄せて使っていたんですが、最近は内子町やその他からも取り寄せて使っています。紙は、はっては乾かしを繰り返して五分(約1.5cm)くらいの厚さになるまではっていくんです。その過程が大変なんです。顔全体に一回通り紙をはるのに3日くらいはかかるんで、紙を顔全体に全部はるだけでも最低1か月はかかります。はり上げたものはげんこつでたたいてすぐにしゃげる(つぶれる)ようだと駄目なんです。紙をはるのは、一枚の広い紙をぺ夕ぺ夕とはるようなわけにはいかず、顔の凸凹や湾曲に合わせて紙をちぎってはっていくんです。はさみで切った紙ははるとそこにガタ(段差)ができて色塗りが難しいんです。
 紙をはるのりは、昔はワラビの根をたたいてでんぷんを取り、もち米の粉と混ぜて作っていたころもあったんですが、最近は、よい市販ののりが出てるのでそれを使っています。色付けは特殊な塗料を使っていますが、一宮神社の牛鬼は黒色が基調で目の部分に一部赤色を使っているんです。結局、牛鬼の修復には、紙を奇麗にはりあげて、絵付けをするまでに最低3か月は十分かかるんです。」

 エ 遊子谷(ゆすだに)の七鹿踊り

 **さん(東宇和郡城川町遊子谷 大正14年生まれ 74歳)
 南予地方の鹿踊りは、元和(げんな)元年(1615年)の伊達秀宗(だてひでむね)(宇和島伊達藩初代藩主、1592~1658年)の移封に伴って移入されたものといわれ、その原形は東北地方に求めることができる(⑭)。以来400年近くを経て南予地方一円に広く分布しているが、ここ城川町でも、国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に指定された窪野の八つ鹿踊り(写真1-1-39参照)、県の無形民俗文化財に指定されている遊子谷の七鹿踊り、下相(おりあい)の六つ鹿踊り、魚成の五つ鹿踊り(口絵参照)が伝承され、各地区の祭りで彩りを添えている。
 一般に、南予地方の鹿踊りは、勢揃(せいぞろ)い、道行き、楽しい庭見、前鹿(まえじか)と後鹿(あとじか)の雌鹿(めんじか)の奪い合い、仲直り、帰国の順で、幾つかの鹿が、太鼓を布の下で巧みにたたきながら、笛や歌に合わせて掛け声を掛けながら優美に踊る。その歌詞は大体十種で、リズムは四拍子が圧倒的に多く、ゆっくりと歌われるものが少なくない(⑮)。
 城川町遊子谷に生まれ育ち、子供のころから鹿踊りに深くかかわってきた**さんに、遊子谷の七鹿踊りについての話を聞いた。
 「遊子谷の七鹿踊りは、先音頭(さきおんど)・庭入り・雌鹿・中鹿(なかじか)(3頭)・後音頭(あとおんど)という鹿が7頭いますが、雌鹿を除いては全て雄(おす)で大人なんです。わたしは15歳の時から踊りましたが、昔は踊りに参加できる者は家の跡取りだけだったんです。よそから来た養子は踊れませんでした。踊りが他に持っていかれる(盗まれる)のを恐れたんではないでしょうか。しかし、太平洋戦争が終わってからは、養子や跡取り以外の者も踊れるようになりました。そうせんと人が足らんようになったんです。
 昔の鹿踊りは、長男はそんなにいないもんですから、尋常高等小学校を出ると数えの15歳になりますが、そのころから踊らんといかんようになるんです。小学校に行っている男の子は小さいころから練習を見たり、教えてもらったりしたもんです。そのようにして鹿踊りを守ってきたんです。遊子谷の天満(てんまん)神社の秋祭りは、日浦(ひうら)、平岩(ひらいわ)、泉川(いずみかわ)、上川(かみがわ)、下遊子(しもゆす)、南平(みなみひら)の6つの集落が行っていました。そのうち泉川と上川が、鹿を受け持っていたんです。泉川からは先音頭、庭入り、中鹿2頭を出し、上川からは雌鹿、後音頭、中鹿1頭を出すように決まっていました。ただし、庭入りは参加者の状況をみて決めることもあったんです。警護と笛吹きの役も上川と泉川からそれぞれ一人ずつ出していたんです。
 警護は、ササダケを持って鹿を監視する役をしてました。絶えず鹿の様子を見ていて、音頭の幕(まく)(鹿に付ける着物)が引っかかったりしてもつれると、それを直したりしていました(写真1-1-40参照)。そのため、警護は幾年か音頭をとった人がなり、笛吹きも鹿踊りのわかる経験者がなっていたんです。
 7頭の鹿は、1番が先音頭、2番が庭入り、3番が雌鹿、4番が新米、5番は二年、6番は三年、7番は後音頭とそれぞれ番号が付いていました。そのうち4番だけは新人が担当するという番定(ばんさだ)めがあったんです。先音頭と後音頭は、一種の若者頭に当たるもので、この役になる者は皆から選ばれてある程度決まっていました。先音頭と後音頭と雌鹿は練習をものすごくしないといけないので、すごく体力や演技力がいったんです。また、遊子谷の七鹿踊りには、土居(城川町土居)から教えてもらった時に1頭減らされた関係で、いつのころか1匹の猿の役の人が一緒に踊るようになったんです(写真1-1-41参照)。昔の猿は鹿と一緒に踊りながら、踊りを教えとったんです。先音頭や後音頭の役を引き受けた最初のころは、ろくに踊りが分かりませんので、途中に踊りをやめたりすることもあったんです。それで猿の導きによって踊ったもんです。ですから昔の猿の役はベテランがなったんです。今は若い者がなって、全くの道化役になってしまいました(平成11年はベテランがなった。)。
 練習は、祭りが10月25日と決まっていましたので、9月下旬ころから始め、1週間に1回くらいの割合で行っていたんです。練習日は先音頭や後音頭の人が決めていました。練習にはコナラシとオオナラシがありましたが、コナラシいうのは、泉川と上川で別々の集落でする練習のことで、オオナラシいうのは、合同の練習のことをいうんです。練習する場所は個人の家ですが、広い庭のあるところでないとできないのでおのずから練習する家は決まっていました。練習する家はヤド(宿)と呼んでいまして、そこでの練習は午後7時から9時ころまでしてました。その折には、祭りのために各戸から2、3合ずつ集めた米で、いりこ飯や雑炊をこしらえてもらって食べたもんです。ヤドをする家は、飯を炊くなどいろいろと世話をして大変でした。
 踊りは8枚のむしろの上で行いますが、むしろのどの位置に足を止めるかいろいろと難しい決まりがあり覚えるのが大変でした。経験者にも来てもらって教えてもらっていました。
 踊りの準備は、泉川と上川の両集落に別れてそれぞれで行っていました。10月23日の夜に和紙でコヨリをより、5色の色紙を細長く切って、短冊(たんざく)を1,500枚準備しました。そして、翌日には、神社の倉庫から鹿の面を出してマクツケ(鹿の面に幕を付ける)という作業を午前中かかって行い、午後からは、昔の庄屋さんの家に行って最後の練習であるオオナラシをしたんです。また、夜になるとササダケにコヨリで短冊を付ける作業を集落の者が全員で行いました(現在は6つの集落の者が農協か公民館に集まって練習や祭りの準備をしている)。
 祭りの当日になると、鹿は正午ころに神社に集まります。神主さんに御霊を入れてもらって昔は境内で踊っていました。また、今はあまり回らんようになりましたが、太平洋戦争が終わってから、しばらくの間は、7頭の鹿が4頭と3頭に分かれて、宮出しの前に2年に1回くらいの割合で各家を回ったこともあったんです。しかし、戦前や戦中はそんなことはありませんでした。
 宮出しは午後1時ころに行われます。お旅所は、神社から1kmぐらい離れた所にある公民館の前の広場です。鹿はそこまで一列になって太鼓をたたきながら歩いていきますが、途中2か所ほど止まって踊ります。しかし、境内と途中の踊りは短く済ませていました。
 お旅所に着くと、鹿は、踊りの準備ができるまで近所の道沿いの家々を回って御祝儀を集めていたんです(写真1-1-42参照)。そして、やがて準備ができたころにお旅所に帰り、一庭全部踊るんです。
 昔の踊りは、道行きと庭入りがあって、その後に全員が輪になって踊る先踊りが約40分間あるんです。それから休憩を入れて、先音頭と後音頭が雌鹿を奪い合う後踊りが約30分間ぐらいあって、その時は他の鹿は並んで太鼓をたたいて見ているんです(写真1-1-43参照)。そして最後に全員が輪になって踊り、七鹿踊りは終わります。全部で1時間以上もあるんで見るのも退屈しますが、踊るのも大変でした。鹿は宮入りでは踊りませんでした。若いころ、わたしも10年ぐらいは音頭をしましたが、特に音頭と雌鹿が大変疲れるんです。今は踊りの内容は同じですが、簡単になってしまって繰り返してはしないのです。全部で30分ぐらいで終わっています。
 この七鹿踊りも、年々若い者が少なくなって、いつまで維持できるか心配していますが、県の無形民俗文化財にも指定されていますし、なんとか守っていきたいものだと思っています。」


*29:祭礼で、本祭りの前日に行われる小祭り。
*30:ダイバン(大藩)・大蛮・ダイマ(大魔)ともいう。民俗芸能としては、鬼面をかぶり、赤や黒などの衣服をまとい、
  六尺棒や大ささらを持って祭礼に供奉する鬼人で、行列の先導露払いや警護の役を演じる。
*31:明治初年、政府の神道国教化政策に基づいて起こった仏教の抑圧・排斥・破壊運動。
*32:地域の若者が夜集まって、仕事をしたり話し合いをしたりして親睦をはかり、寝泊まりをする宿。
*33:過疎化対策の一環として、広田村で平成4年より始まった山村留学制度で、現在(平成11年)12名の児童が留学生とし
  て学んでいる。期間は1年を原則とするが、継続も認めている。
*34:コウゾの皮を原料とした厚手の和紙。創始者泉貨居士(兵頭太郎右衛門、1597年没)の名にちなむ。従来の和紙と異
  なった2枚重ねの厚紙で、大福帳、袋紙、呉服を入れる包紙に用い、柿渋や漆を塗る紙ばりのかご等の材料となっている。

写真1-1-38 現在の親牛

写真1-1-38 現在の親牛

平成11年11月撮影

写真1-1-39 窪野の八つ鹿踊り

写真1-1-39 窪野の八つ鹿踊り

平成11年4月撮影

写真1-1-40 音頭の幕を直す警護

写真1-1-40 音頭の幕を直す警護

平成11年10月撮影

写真1-1-41 七鹿踊りに加わった猿

写真1-1-41 七鹿踊りに加わった猿

平成11年10月撮影

写真1-1-42 御祝儀を集める七鹿

写真1-1-42 御祝儀を集める七鹿

平成11年10月撮影

写真1-1-43 雌鹿を奪い合う先音頭と後音頭

写真1-1-43 雌鹿を奪い合う先音頭と後音頭

平成11年10月撮影