データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛の祭り(平成11年度)

(2)潮風とともに墓場で踊る

 ア 墓原(はかはら)踊り(エンコ踊り)

 **さん(南宇和郡御荘町平城 大正6年生まれ 82歳)
 御荘(みしょう)町平城(ひらじょう)地区の盆踊りは、墓場で踊るという県内外でも非常に珍しい踊り、墓原踊りである。越智郡岩城(いわぎ)村や温泉郡中島町元怒和(もとぬわ)では、位牌(いはい)を背中につけて踊る珍しい盆踊りがあるが、墓場では踊らない。この墓場で踊る珍しい墓原踊りはエンコ踊りともいわれ、その踊りのいわれを、地元の歴史に詳しい、**さんに聞いた。

 (ア)エンコ踊りのいわれ

 「平城地区の盆踊りは、平城墓地で行われるので墓原踊りとも言います。また、エンコ(カッパ)踊りとも言います。天正3年(1575年)に当時の御荘の領主、勧修寺家の二代目に仕えていた勇猛な武将、尾崎藤兵衛尉(生年不詳~1598年)が、平城永(なが)の岡(おか)から馬場に移り住んだその時に、土佐の長宗我部軍が攻めてきました。勧修寺は、長宗我部軍に追われた一条兼定(1543年~85年)に味方をし、四万十(しまんと)川で『渡り川の戦い』という一大決戦を行いましたが、2倍の敵兵力に敗れてしまいました。この時、敗れたとはいえ、勧修寺に従っていた尾崎藤兵衛尉は、敵の大将を討ち取ったり、生け捕りにしたりと手柄を立てて帰ってきました。8月6日に尾崎は、僧都(そうず)川で大切にしていた馬を洗っていました。そこへ使いの者が来て、『用事ができたので早く帰ってください。』と言うので、馬を木につないで帰りました。ところがそこに、エンコが出てきて、馬を川に引きずり込もうとしました。しかし馬の方が賢く、馬は綱をエンコに巻き付け、一目散にエンコを主人の所に引っ張ってきました。家来の者たちは、いたずらエンコを殺してしまおうとしました。ところが尾崎は、そのエンコを助けたのです。エンコは大変喜び、『助かりました。もう二度と悪いことはしません。』と僧都川に帰って行きました。
 尾崎は翌日(8月7日)、戦功祝いと、家来の死者の弔いと、先祖の供養を一緒にしようと宴を設けようとしました。が、なかなか魚がとれないで困っていると、エンコがやってきて、『自分がとってきましょう。』と、あふれんばかりの魚をとって来ました。そして宴をにぎやかに催していると、エンコが現れて踊り始めました。これに尾崎も家来も村人も大いに喜んで、毎年この日に語り合い、エンコに踊りを習って、踊り合うことにしました。やがてエンコも出てこなくなり、村の人たちも、だんだんと先祖の供養をする踊りにしていきました。そして宴を開いた空き地の回りに徐々に墓が立てられていったのです。エンコ踊りは尾崎が宴を催した場所で行ったものだから、必然的に墓場の中で踊るかっこうになっていったのです。そして開催日も盆にするようにして、踊りと祖先供養を一緒にするようにしたのです。」

 (イ)受け継がれていくエンコ踊り

 「江戸時代には、若衆組が世話人になって、毎年8月7日にしていたものを8月14日の盆に行うようになりました。それが代々伝わってきたのです。明治時代になってからは、若衆組から青年団になり、青年団が世話役をするようになりました。
 わたしの子供時分は非常に盛んでしたが、戦争(太平洋戦争)になってからは下火になりました。終戦後、これではいかんということで墓原踊りを保存しようとする有志たちが同志会を作り、昭和35年(1960年)くらいに再興しました。
 その当時は、盆踊りのくどきに合わせて、子供が中心に踊っていました。下永の岡の子たちは四十七士のくどきに合わせて熱心に毎年踊りに来ていました。この四十七士のくどきは非常に郷愁がありました。垣内(かきうち)(城辺町の東部)の子たちは伊勢踊りを踊っていました。全部で6団体、50人くらいが来て踊っていました。その時分はみんながくどきの優劣を競い合っていました。
 四つの柱を立てて櫓(やぐら)を作り、真ん中に大太鼓を置き、くどきをする人を中心に、その周りを踊ります。その時分は、城辺町など周辺のいろいろな所からも人が集まり、1,400から1,500人くらいにもなっていました。夜中の11時くらいまで踊っていました。
 今は平城地区に五つの常会があります。五常会といいます。本(ほん)町・上(かみ)町・寺新(てらしん)町・栄(さかえ)町・馬場(ばば)の区長さん方で作っています。この五常会の中に同志会があり、同会が世話をしています。墓原踊りは今は盆踊りとして行っています。現在は周辺地区の女の子の踊り子たちは来なくなりました。くどきをする人も少なくなりました。太鼓に合わせて歌うのですが、もう歌える人が少なくなったので、今ではときどき流行歌などが流れたりして興ざめです。墓原踊りがあれじゃあいかんと思います。踊る団体も減り、一つの団体が踊り終えると次の団体が踊るまで間が空きすぎ、みんなが飽きてしまいます。しかし踊りそのものはまだなくなってはいません。これは五常会のお陰です。」

 イ 踊りを指導して

 **さん(南宇和郡御荘町平城 昭和20年生まれ 54歳)
 盆踊りの踊りの指導に長年携わってきた**さんに話を聞いた。
 「盆踊りに携わってきて20年になります。30年前は青年団が受け持って行っていました。そのときは、各家から寄付をもらって運営をしていました。わたしが小さいときも8月14日に、青年団を中心に行っていました。わたしが大きくなり青年団員として盆踊りを世話したときも、歴代の団長さんや団員の皆さんがずうっと行ってきたのを絶やしたらいかんという強い思いがありました。青年団の事業はいろいろありましたが、中でも大きいのが盆踊りだったんです。わたしが小学生のころには、家串(いえくし)(内海村由良半島東部)などからやって来て踊っていましたが、30年くらい前から来ていないようです。30年前に子供だけで踊るのはきついのではないかということで、婦人会に参加してほしいと要請しましたが、盆でもあるし参加願えませんでした。
 現在も踊りの主役は小学生です。小学生を小(保育園児から小学校1年生)・中(小学校2年生から4年生)・大(小学校5年生から6年生)に分けて、13人ずつくらいのグループをつくります。踊る時間は、午後7時から8時半くらいまでです。最初に小のグループがくどきに合わせて3回踊ります。次に中のグループが3回、そして大のグループが3回踊ります。9回踊って次に全員が出て、2曲の民謡で、4回踊ります。その後、終了の時間が来るまで踊り続けます。踊りの型は団長さんや団員から口伝えで受け継いだものですが、基本は同じです。各グループで持つ物によって少しずつ踊り方が違います。衣装は浴衣に、金紙と銀紙の米印(*35)を付けた前掛けを付けて踊ります。
 初盆(人が死んで初めて迎える盆、新盆ともいう)の家は、五常会がその家のお墓に電気を引いたり、お墓の一角に杭(くい)を打ったりしてくれるので、そこにササを立て、線香とかタオルや人形などをつるします。また、お墓の近くにろうそく台を作っておくと、近所の方が供養としてそこに次々と、ろうそくを立てていきます。踊りが終わりかけると、そのササを櫓(やぐら)の所に持って行って縛り付けます。そして、終わったらササを倒します。すると、みんながタオルやら人形を我先にと取って帰ります。参加者は自分の所のお墓をお参りして帰るので、大体いつも200人くらいはいます。
 踊り手の募集は、地域で各戸に申し込み書を配布します。申し込みをした子は、8月1日から、13日くらいまで(日曜日は休む)公民館で練習をします。午後7時から8時半くらいまで練習をします。毎年35人くらいは希望してきます。五常会の補助で、参加者には少しばかりのお金を出し、毎日終わるとアイスクリームやジュースなどを出しています。今は五常会で世話をしています。経費もかかるし、太鼓や踊りの練習もしなければいけませんが、子供が大人になったときに一つの思い出になると思います。」

 ウ 踊りの世話をして

 **さん(南宇和郡御荘町平城 昭和9年生まれ 65歳)
 **さんは、昨年(平成10年)五常会の副区長を、今年は五常会の区長をしている。墓原踊りの世話もしている**さんに話を聞いた。
 「初盆というのは、お祭りではありません。初盆ではその年に亡くなられた人の供養をします。そのときの踊りが墓原踊りです。そして灯ろうを新仏の数だけ作って供養します。14日が済んだら、家に持って帰って、灯ろうを流します。昔はわらの船とか木の船を作って流していました。今は河川が汚れるということで焼却しています。10年ほど前にも区長をしていましたが、その時に簡素化ということで、公民館がこれらの用具一式を一括して用意し、なるべく個人に負担がかからないようにしました。が、今はまた、自由に個人が用具を購入して供養してくださいということになっています。盆踊りの櫓(やぐら)も10年前にわたしが作りました。それまでは、ただ台を置いてその上に太鼓を置いてそこに立ってたたいていただけなんですが、それじゃあいかんということで、組立て式の櫓を作ろうじゃあないかということになり、現在のようになったんです。
 この日だけは墓地の中が明るいし、にぎやかです。いつもだったら夜は誰も行きません。ご先祖様も踊りを見に出て来るんではないでしょうか。踊りは物故者に対してするものですし、わたしらも亡くなったらしてもらわないかんと思っています。
 苦労といえば、少子化で、踊り子の数を何人確保できるかということと、一般のみなさん方が、14日の日にお墓にお参りに大分来なくなったことです。昔は人が黒だかりになるほど来ていました。もう一つは若い人でくどきをする人がいなくなったことです。太鼓のたたき手はいます。くどきの人もどんどん年を取っていき、いつまで継承できるのか気にかかります。今わたしたちがお願いしているくどきの方は、お二人いて、元気なんですが高齢者なんです。この方たちが、できなくなったらだれがするかは今のところ分かりません。
 この時、商売人が出店を連ねて売るということはありません。この馬場地区の若い後継者が、綿菓子やジュースを売る(といっても商売ではない)くらいです。
 墓原踊りは、町の五常会の行事としてやはりなくしてはいかんのではないでしょうか。そのためには、今のうちにくどきをテープにとって保存しなくてはいけないと思っています。歌い手が出てくれば、いいんですが、出てこない場合には、テープに合わせて太鼓をたたくというふうにでもしなければと思っています。婦人会にも今後働きかけて参加をお願いしたらと思っています。費用は今までのように地区の分担金で賄うようにしていきたいと思います。世話役としては、楽しいということよりも、行事だからいつまでも続けていかなければいけないという気持ちでいっぱいです。」


*35:この米印の意味は前出の**さんによると、豊作を願ったのと、昔、踊りの一座が巡業に来ていたころに、赤穂浪士の
  打ち入りの劇があったが、その際の衣装のハッピの袖(そで)の山形の所に夜でもよく見えるように金紙・銀紙を貼っていた
  がそれをまねたものと思われるとのことである。