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愛媛の祭り(平成11年度)

(2)夏に大漁旗を揚げて

 ア 和霊大祭

 **さん(宇和島市和霊町 昭和11年生まれ 63歳)
 **さん(宇和島市須賀通 大正12年生まれ 76歳)

 (ア)和霊さまの由来

 和霊神社(写真1-3-6参照)は、宇和島藩の初代藩主伊達秀宗(1591~1658年)に仕え、お家騒動で非業の死をとげた家老山家清兵衛山頼(やんべせいべえやまより)(生年不詳~1620年)の霊を祀っている。山家清兵衛が和霊大明神になる過程は、わが国に古くからあった御霊(ごりょう)信仰の典型である。菅原道真(845~903年)の御霊が京都北野天満宮(きたのてんまんぐう)に祀(まつ)られたように、御霊は恨みを持ち、たたりをもたらすとして人々から恐れられた。7月24日の炎天下で繰り広げられる和霊大祭は、天神(てんじん)祭りや祇園(ぎおん)祭りなどと同様に御霊を鎮める夏祭りであるが、宇和島の人々からは畏敬(いけい)の念と親しみを込めて「和霊さま」と呼ばれている(④)。
 和霊神社の宮司**さんに、その理由を聞いた。
 「山家清兵衛が宇和島の人々から親しまれているのは、その政治姿勢でしょうね。ご家老としては主君のそばに仕えて主君の命に従ってさえおればよいのだが、宇和島伊達(だて)藩の将来を考えた場合は民衆の側に立って民衆の力を付けなければならないと考え、藩財政窮乏の中でも年貢を軽減したとか産業を奨励したことなどの言い伝えが、農民や漁民に敬愛され信仰を集めたのではないでしょうか。由緒によると、山家公が強い信念のもとで身をていして、藩主自らに節約を求め藩士の禄(ろく)高を返上させた。その財政の建て直しが伊達家では目障りとなり、山家公は政敵によって殺害された。その後、暗殺に加わった刺客のことごとくが不思議な死に方をしていくといううわさが広がり、藩主が、恨みをもって死んでいった山家公の御霊を和らげるために神社を建てたということでしょう。聞き及んでいるところでは、宇和島の神主は荒神(あらがみ)様(たけだけしい神)を恐れて祭りを引き受ける者がいなかったので、大変気性の激しかったらしい初代神主が松山から入り、祭りを引き受けたとのことです。わたしで18代目の宮司になります。神としての信仰が広まり、元禄15年(1702年)から神輿御幸が始まってにぎやかな祭りになったようですが、それまでは御霊を和らげる慰霊祭といった静かなものであったようです。いくらにぎやかな祭りになっても、山家公が和御魂(にぎみたま)(柔和の徳を備えた御霊)になる期待を込めて祀ったお宮であるから慰霊の精神を忘れてはならないと皆さんに常にお願いしています。」

 (イ)和霊大祭の変遷

 山家清兵衛死後33年忌に当たる承応2年(1653年)6月24日に、藩主伊達秀宗は山頼和霊神社を建立して盛大な祭典を行った。以後、旧暦のこの日を祭礼日とした。その後半世紀を経て神輿渡りが始まる元禄から享保年間(1688~1736年)にかけて和霊信仰や祭礼に関する記録が出てくる。享保14年(1729年)には藩主夫人から寄進された笠鉾屋台(かさぼこやたい)(大きな笠の上に鉾を付けただんじり)が町内を練り歩き、やがて邪気を払うといわれる牛鬼(うしおに)や遠く本家の仙台藩から伝来した鹿(しか)の子などが加わり、祭礼の風流(ふりゅう)化(趣向を凝らした作り物や仮装が伴うようになること)が進んだ。江戸時代中ころには、藩の記録に「入船460艘(そう)、旅人2,105人程」とあるように、大洲(おおず)・松山・讃岐(さぬき)・土佐など近隣諸国の参拝人が和霊大祭に船で押し寄せるにぎわいとなった(④)。
 和霊神社夏祭りは、明治6年(1873年)の太陽暦の採用以後旧暦6月23、24日を新暦に換算して行われた。明治35年(1902年)の祭りは新暦の7月26、27日であった。『鉄道唱歌』の作詞で知られる宇和島出身の国文学者大和田建樹(1857~1910年)は、この年の祭りのハイライトである「走り込み」(神輿還御(みこしかんぎょ))を「手に手に松明(たいまつ)を持ちて、鬨(とき)の声をあげつつ駆けゆく若者達も去りあえぬほどなるが、いづれもシャツ1枚にて、足袋をはき鉢巻をなしたる有様、いさましとは世の常なり。河の中には5、6箇所に大篝(かがり)を設け、薪つみあげてたき立てたれば天まで焦がすさまなるに、打ち振りつつ走り狂ふ数千の松明、下ゆく水に影をうつして、音に聞く夜討もかくやとこそ思われたれ。これ見んとする人々に埋められて、両岸あたかも、人の堤を幾重にも築き上げたるようなり。」(『漫筆(まんぴつ)紀行・志(し)たわらび』)と書き留めている。
 明治43年(1910年)からは太陽暦7月23、24日が定まった例大祭日となり(⑤)、23日例祭・宵宮(よいみや)祭、24日に神幸(しんこう)祭(大祭)が行われた。大正時代の大祭での神輿渡御前の練りの様子は、「渡御を盛んならしむるため、牛鬼1個、槍振(やりふり)、荒獅子、鹿の子各1組、川船1台、旗3流(ながれ)に各町より出せし山鉾(やまぼこ)10台は24日早朝よりそれぞれ社前に集まりて、午前8時ころより順次に繰り出し午後5時まで神輿渡御の区域をねる。(⑥)」と記録されている。
 昭和時代初期の和霊大祭は、新聞の見出しに「わき返える人気のうちに和霊大祭の日は来た」「海と陸から押し寄せた人の波」「輝く暑さもふさわしく和霊大祭の幕あく、出た出た内港全市へうづまく人の波」「街は人、人の渦巻(うずまき)、押し寄す大漁幟(たいりょうばた)の網船群」「けふ名残りの走り込み 群衆氾濫(はんらん)の波わけて、荘厳雅(そうごんみや)びの神幸(⑦)」とあり、大変なにぎわいだったようである。

 (ウ)現在の和霊大祭

 平成11年の和霊神社夏季大祭例祭は、次の日程(図表1-3-1参照)で行われた。
 和霊神社の氏子総代で大祭委員長を務める**さんに、神幸祭の様子を聞いた。
 「神輿渡御の先触れ神事としては、稚児(ちご)・子供神輿の行列が市内を巡行しています。また、市内外の牛鬼や企業・団体が趣向を凝らして作った山車(だし)が宇和島まつりの出し物として市中パレードをしています。神輿出御(写真1-3-7参照)は、3体の神輿が**宮司のあいさつのあと、境内に立てられた御神竹の周囲を勢いよくかき回って、神社の階段を駆け下り御幸(みゆき)橋を出立、市内を神幸して御旅所へ向かいます。御旅所丸之内(まるのうち)和霊神社で神事のあと休憩をし、神幸係の指示で出発して市役所裏の新内港に着きます。神輿は、伊達家の家紋『九曜紋(くようもん)』の入った幟(のぼり)と大漁旗で飾られた御座(ござ)船(写真1-3-8参照)に移され、宮司船・総代船を従えて30分ばかり海上渡御(*3)します。やがて須賀(すか)川河口付近に着岸すると、神輿は再び輿丁(よちょう)(かき夫)にかかれて御幸橋川下の須賀橋たもとから川の中へ入ります。走り込みでは、須賀川の真ん中に立てられた御神竹の回りをかがり火に照らされた3体の神輿が練るうちに、一人の若者が御神竹をよじ登り先端の御幣を奪い取るのです。その後神輿は御幸橋を渡り一気に神社の階段を駆け上って神社に還御します。
 和霊大祭も、戦後(太平洋戦争後)しばらくは静かでした。昭和35年(1960年)ころまでは走り込みの人数は皆無に近かったのです。これではいかん、何とかしようと、青年会議所が力を入れてくれて、昭和39年は80人、40年は430人、41年は500人と年々増えました。昭和62年(1987年)には1,300人に膨れました。昭和42年(1967年)からは和霊大祭の定例日に宇和島まつりが加わり、市挙げての盛大な祭りになりました。宇和島まつりは春にしていましたが、一向に盛り上がらないので、宇和島商工会議所の会頭が和霊神社氏子総代長でもあった関係で、和霊大祭と同時開催を神社に働きかけて実現しました。年を経るごとに出し物も増えて派手な祭りになり、今では走り込みに20万人の見物人が押し寄せるまでになりました。」

 (エ)和霊大祭の運営

 **さんに、和霊大祭の運営について聞いた。
 「和霊例大祭は宇和島まつりと厳格に区別されて、和霊18町で構成する氏子と市内崇敬会の総代30名が神事を分担しています(図表1-3-2参照)。神輿3体の輿丁は和霊町内の氏子青年団だったのですが、青年が少なくなったので、1体は九島(くしま)(市内西部、宇和島湾に浮かぶ島)の青年が助勢し、2体は地元の若者が山瀬会を結成してかいています。走り込みは神事では神輿還御に当たりますが、宇和島まつりのハイライトでもありますので、大祭と一体となって自由参加の形で行われています。青年会議所が団体や市民に呼びかけて1,000人程度の人数を集めているようです。」
 **さんに、宮司として和霊大祭をつかさどる心構えを聞いた。
 「どんな時でも弱者の味方であり大衆の側に立った山家公の精神に沿った行為の盛り上がりによって、和霊神社の祭りは成り立っているという自覚を常に持ってもらわねばならないと願っています。宇和島まつりとの同時開催についても神社としては喜んで受け入れましたが、最近はあれもこれもと盛り上げようとするので、神事の妨げとなるような行事もあります。正常な形で一緒にお祭りをしていただきたいのですが、敬神の念がだんだん希薄になって物事を別な形で考える風潮が出てきたことは否めません。山家公に神として崇(あが)められる徳や、弱者に対する慈(いつく)しみの強い信念があったればこそ、今にして広く人々のお参りがあることを考えてほしいのです。わたしは、和霊町に鎮座しているけれども和霊町の人々だけの祭りであってはならない、和霊様の御由緒に基づいたみんなの祭りであるとの信念を持って行っています。動的な夏祭りであるので、準備の段階からいろいろな問題が起こりますし、過ちがあったりおしかりを受けたりもしますので、その都度、関係者や祭り好きの方々と随分議論もしています。ただ祭りが始まりますとわたしは斎戒沐浴(さいかいもくよく)(心を清め身を洗うこと)して例大祭に臨んでいます。」

 イ うわじま牛鬼まつり

 **さん(宇和島市寿町 昭和26年生まれ 48歳)
 「うわじま牛鬼まつり」実行委員会で「走り込み」を担当している宇和島商工会議所の**さんに、宇和島まつりの行事と和霊大祭の関係について聞いた。
 「宇和島まつりは今年(平成11年)で33回目になりますが、数年前から郷土色を強める意味でうわじま牛鬼まつりと改めました。期日は7月22日から24日の3日間で、22日は夜のうわじまガイヤカーニバル、23日は午前中はブラスバンドパレード、午後は子供牛鬼パレード、夜は宇和島おどり大会・花火大会、24日は午後に闘牛大会・親牛鬼パレード、夜に走り込み・花火大会などが行われます。走り込みについては、神輿神事は神社が仕切り、神輿以外の一般参加はわたしども祭り実行委員会で取り扱っています。お互い持ちつ持たれつの関係でにぎやかにやろうということで、現在に至っていると聞いています。走り込みの参加者はピーク時1,500人ほどですが、近年減少傾向にあり、今年(平成11年)の申し込みは市役所や青年漁業者連絡協議会など10団体800人程度です。祭り当日には、一般市民を加えて1,100人にはなるでしょう。参加者を募る意味からも見物人にアッピールするためにも、趣向を凝らそうと商工会議所青年部でいろいろ検討した結果、今年は火と水の祭典にふさわしい美しさを出そうと、たいまつを神輿が川に入る前に川入れして、たいまつの明かりの中を神輿が進んで行くのはどうかと、**宮司さんや神社関係者に了解を求め、神輿の輿丁頭の方々とも相談しています。かがり火にたいまつを加えて盛り上げる案は昨年もあったのですが、須賀川の水が増水し、たいまつを持つ人が泳がねばならない状態だったので、危険なためやめました。今年は潮の様子もよいので、是非実現したいと張り切っています。」
 平成11年の「うわじま牛鬼まつり・和霊大祭」の行事日程(図表1-3-3参照)を見ると、和霊大祭と帯同してうわじま牛鬼まつりを楽しもうとする演出が浮かび上がる。


*3:『臨海都市圏の生活文化(⑧)』P280~285には、御座船提供者の聞き取りを中心に海上渡御の様子を詳述している。

写真1-3-6 和霊神社

写真1-3-6 和霊神社

平成11年6月撮影

図表1-3-1 和霊神社夏季大祭例祭日程表(平成11年度)

図表1-3-1 和霊神社夏季大祭例祭日程表(平成11年度)

和霊神社配布資料より作成。

写真1-3-7 神輿の出御

写真1-3-7 神輿の出御

平成11年7月撮影

写真1-3-8 神輿海上渡御の御座船

写真1-3-8 神輿海上渡御の御座船

九曜紋の幟と大漁旗はためく宇和島内港。平成11年7月撮影

図表1-3-2 和霊神社夏季大祭例祭事務分担表(平成11年度)

図表1-3-2 和霊神社夏季大祭例祭事務分担表(平成11年度)

和霊神社配布資料より作成。

図表1-3-3 第33回うわじま牛鬼まつり行事日程(☆印は神社行事)

図表1-3-3 第33回うわじま牛鬼まつり行事日程(☆印は神社行事)

うわじま牛鬼まつり行事表より作成。