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愛媛の祭り(平成11年度)

(2)縁日でにぎわう

 ア お大師さん

 (ア)石手寺

 四国霊場51番札所の石手寺は、道後温泉街から東方へ歩いて10分のところにある。「石手のお大師さん」と呼ばれて松山とその近郊の人々に親しまれ、鎌倉時代の二(仁)王門(国宝)、本堂・三重塔(重要文化財)などを配した境内に線香の白い煙が絶えることはない。節分厄除(せつぶんやくよ)け開運祈願(2月3日)・練(ね)り供養大般若(くようだいはんにゃ)祈禱(4月5日)・大施餓鬼(せがき)(8月20日)の三大行事、ほぼ毎月20日の「お大師さん」(弘法大師入寂(にゅうじゃく)にちなむ日)、毎月の弘法大師参詣(さんけい)日・茶湯(ちゃとう)日(*9)などの縁日(図表1-3-7参照)があるが、お遍路さん(*10)や観光客に地元の善男善女が交わっての参拝風景は、毎日が縁日のようなにぎわいである。

 (イ)お大師信仰

 **さん(松山市石手 昭和33年生まれ 41歳)
 お大師信仰は人々にとってどのようなものなのか。石手寺の副住職**さんに聞いた。
 「石手寺(写真1-3-25参照)は、地元の人には心のふるさとです。自分を見つめる心象風景(具体的な情景として心の中で描き出されたもの)とでもいいましょうか。寺が松山市内や道後温泉の近郊に位置していてこの地域ではよく知られた場所で、おじいちゃんやおばあちゃんに連れられて一度はお参りした、あるいは写生会とか文化財の見学で先生や友達と来たことがあるとか、幼い時に親しい人と参拝したという共通の風景を持っています。幼い時というのは無垢(むく)であり、おじいちゃんやおばあちゃんが拝んでいるのを見ると、何かに向かって一生懸命に祈っている姿が胸に刻みこまれていきます。成長してしばらくの間は来ることはないのですが、やがて親になって子供が思うようにならないので苦悩するとか、職を失って人生もこれで終わりかといった心境になると、再びお参りし始めるのです。昔のノスタルジー(懐旧の念)ではないのですが、そこに戻って自分を考え直すという休息の場としてここがあるのではないでしょうか。
 石手寺はどこからでも入れます。困った時に人知れずこっそりとお参りして帰れますし、自由で気楽な寺としての伝統を守っています。それがお大師さんという親しみにつながっていると思っています。お大師さんは、言うまでもなく弘法大師・空海(774~835年)のことで、もともと仏さんに連なる存在ですが、この地域では神様であり、この人に頼んでおけば何事も間違いないと信じられています。超能力者で偉いのですが、ひざを交えて語らってくれるのです。『同行二人(どうぎょうににん)(いつも弘法大師とともに)』という言葉があるように、歩きながら一緒に考えてくれるのです。いざという時には近くにいて頼りになり何でも聞き届けて助けてくれるのです。伊予の人は、こうしたお大師さんが好きなのです。」

 (ウ)お大師講と先達

 **さん(松山市北久米町 大正6年生まれ 82歳)
 **さん(北条市高田   大正8年生まれ 80歳)
 石手寺のお大師さんの講(金剛講(こんごうこう))は400組を数え、親しい近隣仲間内で自由に組を作っている。毎月20日には代わり合って参拝して本堂で般若心経(はんにゃしんぎょう)を唱和、住職の講話を聞き、「施本(せぼん)」(弘法大師の教示本)とお札をもらって帰る。
 石手寺先達会の会長**さんに、講に入るきっかけや講について聞いた。
 「わたしは、戦時中軍隊から生きて帰り呉海軍工廠(くれかいぐんこうしょう)で勤労していました。やがて空襲を避けた防空壕の中で仲間が窒息死したのに気絶していた自分だけが生き残りました。28歳の時でしたが、この時に弘法大師のお陰だなあと、お大師さんのご利益を漠然と実感したのです。戦争が終わって鉄道会社に勤めましたが、仕事と家庭に忙しく、まだお大師さんとはご縁がありませんでした。会社を退職してもしばらくは信仰には全く関係しませんでしたが、昭和54年(1979年)、62歳の時に近所の人に誘われて石手寺の講に入り、講の仲間と貸し切りバスでお四国参りをしたのが信仰に関係した最初でした。これが病み付きとなって、毎年春に四国八十八か所、1年交代で西国(さいごく)三十三か所(近畿地方著名33寺院の観音巡り)と坂東(ばんどう)三十三か所(関東33寺院の観音巡り)・秩父三十三か所(埼玉県秩父地方33か所の観音霊場巡り)を巡拝し、お四国参りはすでに21回を数えています。
 石手寺さんの金剛講は、松山市の城東(じょうとう)、城西、城南、城北、伊予(いよ)市、北条(ほうじょう)市、温泉(おんせん)郡、伊予郡などの地区ごとに組織されています。この辺りは城南地区で、荏原(えばら)・浮穴(うけな)・久米(くめ)・小野(おの)などに小単位の組がありますが、久米は30人ほどが講の組員でしょうか。講の名前は、共通して『石手居士林(いしてこじりん)』と称しています。檀家(だんか)や宗派に関係なく、規約や名簿もなく、お寺さんに毎月1,000円の講費を納めて届け出れば講の組員になれます。講の会合には、先達(せんだつ)会と信徒会とがあります。先達会は年2回75人ほどが会合して四国八十八か所巡拝の段取りなどを決めていますが、信徒会の総会は特別にはありません。」
 **さんに、お大師信仰の案内者である先達について聞いた。
 「先達にもいろいろな段階があります。わたしは、昭和56年先達、58年権中(ごんちゅう)先達、60年中先達、63年権大先達、平成3年に大先達になりました。先達は石手寺で認められましたが、大先達になるには、巡拝回数やお大師さんの教えをいかに人々に伝えたかという実績を記した申請書を身分証明書とともに四国八十八か所霊場会に届け出て審査を受けるのです。無事公認されると、白装束(しろしょうぞく)の袈裟(けさ)に大先達の印をつけ常に巡拝者の先頭を行くのです。わたしは、平成4年から石手寺先達会の会長を務めています。毎月20日のお大師さんだけでなく会合や奉仕で寺によく出掛けますが、あそこに行くと気分が休まります。これまで生きてこれたのもお大師さんのお陰だと信じています。今までに石子寺の**住職や先達の仲間とで中国(中華人民共和国)へ3回行き、弘法大師の上陸地などにお参りしました。」
 女性の大先達も多い。その一人**さんに、お大師信仰について聞いた。
 「毎年1回は四国八十八か寺を巡拝しており(写真1-3-26参照)、もう30回以上回りました。お参りすると心が穏やかになります。お寺さんが大好きで、月に一度は石手寺で講話を聞き、寺に来られる人々にご飯を炊いてさしあげています。家では野菜や果物を作っています。足腰は弱くなったが、内臓は丈夫です。毎日健康で過ごせるのも、お大師さんのお陰です。」
 **さんは平成11年9月の四国八十八か所霊場会公認先達大会で功労者として表彰された。この大会は、大師信仰の高揚と全国約7,000人の公認先達の親ぼくを図るため毎年開かれており、平成11年ですでに19回を重ねている。今年の大会は、愛媛県県民文化会館に県内外から1,370人の先達が参加した。同じ時期に愛媛県美術館で開かれた「国宝・弘法大師空海展」も連日大変な盛況で、四国・愛媛における「お大師さん」信仰の根強さと広がりを印象づけた。

 (エ)石手寺の傍らで

   a 回廊で出店

 **さん(松山市石手 大正10年生まれ 78歳)
 **さん(松山市石手 昭和15年生まれ 59歳)
 石手寺前の太鼓橋から出店の並ぶ回廊を進むうちに、「お大師さん」の霊場に来たとの雰囲気が醸し出される。門前の傍らで店を構える**さんに、回廊に出店した当時のことを聞いた。
 「昭和36年(1961年)ころ回廊に店を出し、仏具・数珠からひょうたん・土産物まで何でも売っていました。店を出したころの方が寺らしい行事が多くにぎやかでしたが、今は静かになりました。」
 回廊の出店を引き継いでいる息子の**さんにも、昔と今の商い状況を聞いた。
 「父母がここに店を開いたころは4軒でしたが、今は8軒が同じものを売らないように協定して仲良く商売しています。おなじみのお客さんはいますが、最近は一見(いちげん)(初対面)の観光客ばかりが増えて商売になりません。お寺さん・お大師さんのお陰で我々があると思って、商いを続けています。」

   b「おやき」を焼く

 **さん(松山市石手 昭和13年生まれ 61歳)
 石手寺の門前には、「おやき」という焼きもちを売る店が数軒ある。高浜虚子(1874~1959年)が大正8年(1919年)に書いた小説『伊予の湯』に、主人公の婦人が石手寺参りの途中で、「門前の茶店でお焼きという焼き餅(もち)を買った。」という記述がある。「おやき」は、熱湯で練った米の粉にこしあんを入れて丸め薄く延ばして鉄板で焼く。5分もすれば香ばしい素朴な味わいの焼きもちが出来上がる(⑱)。
 明治時代初期の創業という店で、4代目の店主**さんに「おやき」の始まりと変遷について聞いた。
 「最初はお袖(そで)さんというお婆さんが焼き始めたと伝えられています。お四国巡礼をするお遍路さんの空腹をいやすためお接待を兼ねて売り出したようです。この家の義母に聞いたことですが、先代の時代はお米を洗って干して、うすで夜なべにひいていたそうです。そのころは兼業農家で、祖母や母が女手の内職で焼いていたようです。同業者が7軒ほどあって、味を競い合っていたようです。お遍路さんがそれぞれの店で一服しておやきを食べて、太山(たいさん)寺など次の札所に向かって行ったり、お大師さんのお二十(はつか)日やお茶湯日には地元の人たちが参拝した帰りに立ち寄ってお土産に買ってくれたり、焼きたてがおいしいと言うおなじみさんには縁台を出し外で食べてもらっていたと聞いています。
 わたしがこの家に嫁いで来た昭和36年(1961年)ころは義母と義妹が焼いていました。そのころのおやきは1個5円でした。昭和40年には10円、その後15円になり、昭和60年ころ40円に値上げしまして今(平成11年)は60円です。昭和30年から40年代には道後動物園への行き帰りに子供のおやつ用にとよく売れました。飽食(ほうしょく)の時代の今日では、手焼きの素朴な味が逆に見直されてお遍路さんや地元の人たちに親しまれて、よく買ってくれます。焼きたてが喜ばれ日持ちがしないので多くは焼けませんが、日曜日や縁日には我々夫婦に妹・娘を加えて一家総出で焼いています。商標はありませんが、焼きもちの焼き印と味で他の店と区別してもらっています。」

 イ お日切さん

 (ア)日切地蔵尊善勝寺

 **さん(松山市湊町 昭和22年生まれ 52歳)
 松山の夏祭りの縁日でにぎわうのは、7月11、12日の鍾馗(しょうき)寺(木屋(きや)町)の「鍾馗さん」、7月24、25日の井手(いで)神社(北立花(きたたちばな)町)の「天神(てんじん)さん」、8月23、24日の善勝(ぜんしょう)寺(湊(みなと)町5丁目)の「お日切さん」である。鍾馗さんは疫病神を追い払い魔を除くという中国伝来の神、天神さんは菅原道真ゆかりの怨霊(おんりょう)の神から転じた学問の神で、お日切さんは日切地蔵尊(ひぎりじぞうそん)の愛称で、いずれも庶民の信仰を集める神仏である。これらは、大街道(おおかいどう)・湊町、萱(かや)町・木屋町商店街に近く、縁日には商店街の特別営業、露店商の夜市が立つので、夕涼みがてら家族連れの人出がある。なかでもお日切さんは、暑かった夏のフィナーレを飾る縁日としてにぎわう。露店が並び、伊予鉄道松山本駅前のロータリーには仮舞台が設けられて素人のど自慢大会や歌謡ショーなどが催される。
 この日だけでなく、お日切さんは伊予鉄道ターミナルの松山市駅を行き交う通行人に親しまれ、龍宮(りゅうぐう)城のような門の前でふと足を止め手を合わせて願い事をする人たちも多い。善勝寺(浄土宗)という寺の名は知らなくても、日切地蔵尊の寺であることはよく知られている。
 善勝寺住職の**さんに、日切地蔵尊の由来について聞いた。
 「お地蔵さんは、さまざまな仏や菩薩(ぼさつ)があるなかで庶民の身近にあって親しまれ、村の入り口や町の角、田畑の隅や峠の小道などでよく見かける菩薩さんです。宝冠(ほうかん)を頭上にいただくことなく頭はそりあげた丸円頂(まるえんちょう)(坊主頭)であり、身には袈裟衣(けさごろも)を着たお坊さんそのままの姿で庶民の願いに救済の手を差し伸べる菩薩です。善勝寺の日切地蔵尊は、平安時代の念仏僧恵心僧都(えしんそうづ)源信(942~1017年)が悪疫流行の際、人々の無病息災・長寿延命を祈願してつくったという地蔵さんで、源信の生誕地大和国(奈良県)葛城(かつらぎ)郡阿日(あにち)寺に代々伝えられていました。慶長8年(1603年)寺の僧知善得業がこの地蔵さんを奉じて海南巡礼に旅立ち、道後に立ち寄ったとき突然病に倒れましたが、運よく回復しました。知善は、深い仏縁を感じて藤原村のこの地(現在松山市湊町5丁目)に寺を建て地蔵尊を安置しました。その後、元禄年間(1688~1704年)悪疫が流行したとき『善勝寺の地蔵尊に日を切って願をかけてお参りすれば必ずかなう。』との霊夢を見た者が多数現れ、いつしか日切地蔵または『お日切さん』と呼ばれるようになったということです。」

 (イ)月例法話会

 善勝寺では、毎月24日に信者たちが集まり「月例法話会」を催している。平成11年6月24日の会には、梅雨時の大雨にもかかわらず36人の善男善女が本堂に参集して、**住職の音頭で般若心経などを唱和した後、住職の法話を聞いた(写真1-3-29参照)。**さんは、病気療養中に看護婦付き添いで久しぶりに出席した信者へいたわりの言葉をかけ、まもなく施行される老人介護法に触れて、「老人は本人の生きようとする、動こうとする意欲、夢と希望、楽しみを持つことが大切です。」と説いた。ついで今回のテーマ「松山城下を守るお地蔵さま」について、愛媛新聞・朝日新聞愛媛版に掲載された「民話を訪ねて六地蔵(⑲)」・「お城を守る四地蔵(⑳)」を資料にして、江戸時代松山城下町での地蔵信仰の広がりを推論を交えて解説し、講話に登場した地蔵さん巡りをしようと提案して信者の賛同を受けた。出席者は、その親しみやすい話術に聞き入り共鳴していた。
 出席していた信者に聞くと、「命にかかわるような願かけをしてお日切さんにおすがりするといったせっぱつまった気持ちではなく、『家内安全・無病息災』を願って日切り地蔵さんを拝み、住職さんの法話を楽しみにして毎月の会にやって来ます。」と口をそろえて語った。

 (ウ)お日切さん今昔

 **さん(松山市道後今市 明治45年生まれ 87歳)
 善勝寺の先々代の住職を父に持ち、寺の隣で名物の「日切焼(*11)」を再興して、お日切さんとともに人生を歩んできた**さんに、昔の「お日切さん」について聞いた。
 「昔のお講の日には信者がだいぶ参ってきていました。8月24日の縁日はとてもにぎやかでした。毎月の縁日に揚げるお幟(のぼり)を1年間のあかがたまったとして、この日に市駅前広場で焼いていました。縁日に来る人は昔は信心深い人が多かったが、今は露店が楽しみで集まって来る人の方が多いですよ。昔から近郷の人たちの信仰はありましたが、そのうち市駅ができて汽車に乗り降りする人がお参りするようになりました。多くの人が日を切って願かけをしてました。イボがでけたのでのけてくれとか大した願かけはしなかったが、イボがのいた(なくなった)人は、地蔵さんのお陰でタコが吸い取ってくれたとタコの絵を奉納していました。寺の境内は今よりはるかに広く、名物の龍宮門は今の市駅のロータリーの辺りにありました。松山の空襲で寺も門も焼けてしまったが、大きな御影石(みかげいし)の線香立てだけは日切地蔵が身代わりになったのか不思議と焼け残りました。」
 住職の**さんに、今の「お日切さん」について聞いた。
 「8月の地蔵盆縁日の催しは市駅前の商店街が主催していますが、最近はひところのにぎわいはありません。日ごろもお参りする人たちが減ってきました。市駅周辺に出てくる人が減ったことにもよるのでしょうが、現代生活の中で地蔵さんへの願かけや地蔵さんと縁日との結びつきを信じるといった信仰が希薄になっているのではないかと思います。」


*9:茶湯を仏前に供える一定の日。弘法大師参詣日と合わせて毎月この日に3年3か月怠りなく参詣する者はいかなる望みも
  かなうといわれている。
*10:祈願のため四国の弘法大師ゆかりの寺院八十八か所を巡拝する人々。
*11:**さんの日切焼については、『愛媛の技と匠(③)』P26~29「郷愁を誘う味、日切焼」で紹介している。

図表1-3-7 石手寺の年中行事と弘法大師参詣日・茶湯日(平成11年)

図表1-3-7 石手寺の年中行事と弘法大師参詣日・茶湯日(平成11年)

石手寺提供資料より作成。

写真1-3-25 石手寺境内

写真1-3-25 石手寺境内

平成11年6月撮影

写真1-3-26 四国霊場巡拝のお遍路さん

写真1-3-26 四国霊場巡拝のお遍路さん

49番札所浄土寺にて。平成11年10月撮影

写真1-3-29 月例法話会

写真1-3-29 月例法話会

善勝寺にて。平成11年6月撮影