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愛媛の祭り(平成11年度)

(2)夫婦の獅子が戯れる

 温泉郡川内(かわうち)町北方(きたがた)は、重信川の東岸扇状地にある集落で南境には旧金毘羅(こんぴら)道が通る。古くから開け、その名の由来は古代の駅、川上駅の北方にあったことにあるという。藩政時代は北方村、明治22年(1889年)の「町村制」の実施に当たって川上村大字北方となる。
 この地の北方の獅子舞は二人立ちの獅子舞で、揚(あがり)神社の秋祭りの行事の一つとして、江戸時代から、西之側(にしのがわ)組と宝泉(ほうせん)組の若者たちの手によって伝えられてきたといわれる。昭和37年(1962年)の北方1区(東部の旦之上(だんのうえ)と宝泉で構成する)の獅子舞を最後に一時期途絶えたが、昭和52年に北方獅子舞保存会が結成されて復活し、伝承者に小・中学生を加え保存に努めている。なお、昭和52年に川内町の無形文化財に指定されている(⑰)。演目には、中予地方の獅子舞の特徴としてよく見られる「神楽」「三番叟(さんばそう)」や「子役」と称する仮面劇などがある(⑫)。
 **さん(温泉郡川内町北方 昭和4年生まれ 70歳)
 **さん(温泉郡川内町北方 昭和25年生まれ 49歳)

 ア 北方の獅子、今と昔

 (ア)揚神社の祭礼

 北方の揚神社の祭礼日は現在、10月第2土曜日の次の日曜日である。以前は10月15日であった。かつての祭りについては、次のような記録がある。
 「秋風とともに毎夜獅子太鼓が聞こえてくるようになると、祭りだなあ、忙しくなるなあと思ったものである。祭りは10月13日から16日までの4日間で中通り祭りといわれている。13日が宵祭り、14日はお神楽がある。いよいよ15日は神輿渡御である。16日は小祭りである。幟(のぼり)を下し境内の掃除をする。若衆(わかしゅう)連中は神輿、獅子頭、太鼓の手入れの後、慰労会で総仕上げである。(⑱)」
 **さんにかつての揚神社の祭りについて聞いた。
 「旧北方村の氏神が揚神社、川上神社は旧南方(みなみかた)村にあって旧県社なんです(写真2-1-25参照)。北方は二つのお宮の氏子なんです。揚神社の秋祭りは昔は10月15日だった。午前1時ころにお宮へ行って、午前4時ころに宮出しをした。北方全部を回らなくてはいかんので宮出しは早かったです。神輿(みこし)は1体です。子供神輿というて白木の小さなお社(やしろ)の形をしたものがあった。戦時中(太平洋戦争中)も変わらずあったと思う。わたしは子供神輿を小学校3年生くらいのときからかいていた。神輿をかいたのは小学校の高等科を卒業してからだと思います。青年学校へ行ったら、みんなおせ(大人)になったみたいに思うてかいていた。宮入りはかなり遅くて午後9時ころだった。途中、重信川の横河原に架かる橋の上で、旧北吉井(きたよしい)村(現重信町)の水天宮の神輿と鉢合わせをしました。こちらは川上村(現川内町)の者たち、相手は北吉井、南吉井、拝志(はいし)の村々(いずれも現重信町)の連中で重信川を挟んで対決した。鉢合わせの折は、見物人が寄って来て人出もすごかった。」
 今年(平成11年)は、10月10日に祭礼が行われた。祭礼当日の午前6時過ぎ、揚神社で神輿の宮出しがあった。まず、中学生の獅子舞「三番叟」と「二羽(にわ)獅子」、大人の獅子舞「神楽」(写真2-1-26参照)が奉納され、ついで神事があって神輿に御神体(オショウネという)が入れられ、宮出し、地区内渡御となる。神輿が出た後、揚神社では、仮面劇の「子役」、中学生による獅子舞「獅子おこし」と「練り」が演じられた。時間を1時間近くずらして川上神社でも宮出しが行われた。ここでも北方の獅子舞の三番叟、神楽、獅子おこしが演じられたという。その後、三島神社(北方地区の北部にある神社)の境内及び北方地区内の6か所の計9か所で獅子舞は上演された。北方地区は17の地区に分かれており、全地区は回りきれないので全17地区を6組に編成し、それぞれの組の中で1か所ずつ計6か所で上演する。つまり3年間で全地区を一巡するということにしている(⑫)。今年は、3神社のほかに、東中村(個人宅)、茶堂(ちゃどう)(個人宅)、上古市(かみふるいち)(集会所)、旦之上(個人宅)、宝泉(集会所)、北方公民館の6か所で獅子舞が上演された。このうち、最後で舞い納めとなる北方公民館の舞台は圧巻であった。午後6時に開幕、中学生以下による獅子舞が三番叟、獅子おこし、子役、二羽獅子、練り、千鳥、獅子おこし(なぎなた)と順次演じられた後、大人による獅子舞が神楽、相(あい)の切(きり)と大人による「子役」が、締太鼓の音も高く、勇壮かつ見事に演じられた。終了は午後8時を過ぎ、2時間に及ぶ熱演であった(写真2-1-27参照)。
 なお、三島神社で獅子舞が演じられることについて、氏子である**さんが次のように語った。三島神社は、旧北方村の北部にある上海上(かみかいしょう)、下海上の2地区が氏子であるという。大正13年(1924年)に川上神社に合祀(ごうし)されたが、昭和27年(1952年)に旧に復して社殿を復興したといわれる。
 「うちの三島神社には神輿はあるんですが、氏子の数が少なくてかき手がいないんです。神輿自体も古くて、修繕を全くしてないのでかける状態ではないんです。揚神社とはお宮が別ですから、当然そこの神輿は回ってこないんです。しかし、氏子たちはこの北方獅子舞保存会の会員にはなってますから、当然三島神社へ行って奉納獅子はするんですよ。(写真2-1-28参照)」

 (イ)北方の獅子舞は二つあった

 昭和時代に入ってから北方では、若者の数が多いということで青年団組織は北方1区(東部)、北方2区(西部)に分けられ、神輿と獅子舞を2年交代でそれぞれが務めることになった。そのために、もとは一つの獅子舞も次第に違いが生じてきて、やがて二つの獅子舞になってきた。**さんがその体験談を次のように語った。
 「獅子舞は青年団がします。当時北方は、若い人が何百人と多くいたから、青年団は東部と西部に分かれていたんです。東部は1区、西部は2区といいます。この2区の青年団が2年交代で、一方が神輿をかいて、別の一方が獅子をするんです。昭和18年(1943年)、わたしが小学校高等科を卒業して青年団に入ったときは北方1区は獅子舞の担当でした。当時、青年団への加入は強制的で、山仕事などで泊まり込みがあっても行かなければ罰金を取られるし、気合が入ってました。その時代ではそんな感じです。新入りは太鼓(はやし方)か、それとも獅子(獅子つかい方)か、どちらかに分けられる。太鼓をする家は大体続いておるんです。わたしの家は祖父、父、兄弟、わたしと皆太鼓なんです。
 練習の場所は、1区の場合、大きな集落が旦之上と宝泉の二つがあるんで、半期は宝泉の大きな家の広い納屋を借りて、あとの半期の祭りまでは旦之上で同じように借りてする。次の年は宝泉と旦之上を入れ替える。この練習場所を貸してくれた家を宿(やど)といい、そこだけでつかう獅子があって『宿獅子』という。宿獅子では千鳥を演じるんです。
 組織は獅子会という。東部、西部ともに会長、副会長、会計などの役があったように思う。会員は結婚したら引退で、わたしも昭和26年に22歳で結婚したんで引退しました。神輿担ぎは青年が主で、中年の人たちも入っていました。」
 **さんは引退後、指導者としての道を歩んできたが、それについて次のように語った。
 「わたしらの太鼓の師匠はもう最高の師匠でした。わたしは、引退してからは太鼓を教えに行ったわけです。獅子は獅子で専門の人がおるから、わたしは専門の太鼓の方をずうっと教えに行きました。何年かは休んだが、現在まで続いているんです。教え子が今、太鼓をたたいたり、保存会の役員をしたりしています。」
 指導者陣は、獅子つかい方とはやし方とに分かれているため、両方に通じている**さんの存在はとりわけ、貴重であるという。教え子に当たる**さんは、次のように語った。
 「**さんは太鼓と獅子を両方している関係で、わたしらは両方教えてもらいました。太鼓だけの方には獅子つかいの指導は難しいんです。両方できる方はなかなかいないんです。」
 このことについて**さんに聞いた。
 「わたしは入った時点では太鼓でした。それまでの獅子会では、太鼓をした人は獅子つかいをしてないんです。おそらく太鼓に入っていて、獅子つかいができるのはわたしぎり(だけ)ではないかと思います。太鼓をしとればじっと獅子舞を見てますから、獅子つかうにはどう振ったらええか、頭に入ってしもとる(十分入っている)わけです。だから、そのころ正式の神楽としての獅子舞はしませんでしたが、なんぼか(いくつか)の獅子舞はしていたんです。」
 伝統的には、太鼓すなわちはやし方の専門と、獅子つかい方の専門とに分化していたわけだが、**さん自身が興味関心を深めたことによって、結果的にはやし方と獅子つかい方の双方に通じることになった。こうした存在が、後の北方獅子舞の再建に当たって、後継者の指導育成に大きく貢献することになったようである。

 (ウ)北方獅子舞の再生

 昭和37年(1962年)を最後に獅子会の組織的な活動は縮小し、北方の獅子舞は一時中断した。昭和49年(1974年)から保存伝承活動が動き始め、昭和52年に「北方獅子舞保存会」が結成された。現在、**さんは会長、**さんは指導部副部長兼庶務の任にある。
 昭和57年、**さんは北方獅子舞保存会に加入した。その当時の獅子舞再生の活動などについて、**さんが次のように語った。
 「わたしはもともと、山間部の川内町則之内(すのうち)の生まれなんです。ここでも昔から獅子舞がありました。今は後継者の関係で途絶えていると思うんですが、わたしは小学校2年生のときには、獅子舞の子役をした経験があるんです。結婚して、妻の里である北方に住むようになって、地域の中に自然と入っていったという感じがするわけです。北方の太鼓を最初聞いたとき、すばらしくリズム感のあるいい太鼓だなあと感じました。まあ、獅子舞もすばらしいんですが、太鼓は則之内の太鼓とは、また違ってメリハリがあるんです。何とかこの太鼓を覚える手だてはないものかと思ってましたら、たまたま後継者不足ということでぜひ入ってくれとの誘いがあり、早速入りました。年は31歳でした。
 北方の獅子舞は、昔は東部の1区と西部の2区との二つに分かれていたんです。持ち回りで継承されていたもんですから、東部と西部で獅子の舞が違うんですね。大体の中身は一緒ですが、例えば、獅子舞の舞から舞へのつなぎとか、獅子を締める位置とか、振り切るところとかの演技が違っているんです。それでわたしら若い後継者としては、二つの獅子舞を教わることになり、困るわけです。太鼓は東部も西部もそう大きな違いはなかったと記憶しています。ただ、獅子舞がそういう形で違った内容のものが、はしばしにあったものですから、お師匠さんによって教える内容が違うんです。ですから、お師匠さんたちとよく衝突しました。
 それでこれはなんとかならないものかということで、いろいろ協議しました。毎回の練習後に、お師匠さんたちとわたしたちが残って、獅子舞にいろいろ違いがあるんでは残していくのが難しいから、残していくためには一番動きやすい形にするとか、大きな全体像を壊しては駄目ですからその中でこういう風にしたらいいんではなかろうかとか、協議しながら今のような獅子舞を作ってきたという経緯があるんです。つまり、実際に若い者が演技するなかで師匠と協議して二つの獅子舞を一つの獅子舞にしたといえます。この動きは昭和57年から始まって、昭和63年ころまでには大体出来上がったと思います。当時獅子を振っていたメンバーはわたしらより若い20歳代であり、師匠たちの年代も若かったんですが、自分たちが今までしてきた演技内容にはこだわりもあったと思います。しかし、ある程度時間をかけて結局、1区と2区の獅子会を一つにしまして、100%ではないけど、現在の北方の獅子舞という一つの形に固めたんです。」
 こうした獅子舞の再生復活にかけた熱情が、今日隆盛となった北方獅子舞には脈々と伝えられているようである。現在、北方獅子舞保存会は北方地区に住所を有する者などを会員として結成されており、会員数は420人である。役員は平成11年現在、会長1名、副会長2名、指導部長1名、指導副部長2名、会計1名、庶務2名、監事2名、理事23名となっている。

 イ 中学生の獅子、大人の獅子

 (ア)中学生の獅子と子役

 いま、祭りでの獅子舞の主役は中学生である。それは地域社会の持つ教育力によって中学生の健全育成を図るということを目的にし、後継者の育成につながればとも期待されていることによる。指導に当たっている**さんに聞いた。
 「わたしどもの獅子舞は中学生が主体なんです。先代会長のときに、中学生の健全育成ということで、地元の中学校へ獅子舞の参加をお願いしました。お祭りの前に、北方地区の氏子さんの子弟のうち中学校1年生、2年生の男女に、学校を通じて連絡して公民館に集まってもらい、女の子は大小一対の太鼓をたたき、男の子は獅子をつかうということを知らせ、獅子舞をやってもらえるかどうか確認を取ります。
 過去の参加人数を見ると、平成5年には、中学校1年生の男子6名、女子10名、2年生の男子7名、女子11名の合計34名でした。今年(平成11年)は、1年生の男子6名、女子11名、2年生の男子11名、女子7名の合計35名です。
 中学生以外の子供が出る演目に『子役』というのがあります。演じるのは小学生と幼稚園児です。子役の演技内容は、おじいさんとおばあさんが畑を耕して種をまくと、サルとキツネがそれを掘り返して農作業の邪魔をする。そこで、おじいさんとおばあさんがサルとキツネを捕獲するというものです。子役の人数はキツネが2名、サルが1名、オヤスというおばあさんが1名、オジイというおじいさんが1名の計5名です。サルは一番幼い年齢で小学生までの子、キツネは小学校3年生までの子、オヤスとオジイは小学校3年生以上で大体5年生か6年生の体が大きく表現力がある子がなります。子役のうち、オヤスは女子、オジイが男子ですが、サルとキツネには性別を設けていません。
 このほかに獅子と一体になって演技をする『獅子おこし』という役があって、これも子役に含めています。男女の別にはこだわらず2名で、大体小学校3年生から5年生くらいまでの子で2年続けてすることになっています。
 中学生の獅子の出番は、祭りの前日に設定されている川内町獅子舞競演会と祭りでの本番です。わたしは長年獅子舞を指導してきましたが、子供の体力や取り組み方、態度などが大分変わってきたように思います。昔は厳しい練習に耐えていたと言って少し厳しく教えると、今の子はもう明くる日から来なくなります。怒らせないように機嫌を取りもって(ながら)続けていかないと、当日自分たちの祭りができないことになるんです。練習期間は短いし、本当のことは教えることはできないけれども、ある程度祭りの形になるように持っていかねばならない。そうせんと(そうしないと)、祭りの朝から本番そのものが元気にはできません。」
 今年(平成11年)19回目を迎えた川内町獅子舞競演会が、祭りの前日の10月9日、川内町中央公民館前の広場で開かれた。参加団体は8団体、うち一つは伊予市下吾川(しもあがわ)の獅子舞が招待されて参加していた。澄んだ秋空のもと、さえた太鼓の音が響き、激しくあるいは優雅に舞う獅子の競演に観衆は魅了されていた。北方獅子舞保存会は中学生と大人との2団体で参加していて、前者は二羽獅子と練り、後者は獅子おこしと相の切とそれぞれ2種目ずつを演じた(写真2-1-30参照)。町の当局者の話によると、本年は台風第16号による被害が大きかったため、町内3地区で祭礼をとりやめることになり、獅子舞も出さなくなったので、この競演会が例年に比べてやや寂しいということであった。

 (イ)大人の獅子と芸の継承

 祭りの本番での主役は中学生たちに譲ったが、大人の獅子は健在である。大人の獅子の出番は、祭り以外の場面が主である。もちろん祭りにおいても、子供たちの演じた後、見事なお手本を示すことにしている。中学生に教えていくだけでは技芸は伝わらない。大人たちの芸の継承があってはじめて民俗芸能は成立する。大人の獅子とその伝承について、**さんは次のように語った。
 「保存会には20歳過ぎの人も若干おります。中学生のころ演じた人たちです。学校を卒業して地元に残りますね、そういう人が後継者として何人かおるんです。ですから、お祭りそのものは中学生主体に考えるのですが、お祭りを外れた時期に慰問とかいろんな催しには大人が行くんです。中学生はそのようなものには参加させない。中学生はお祭りだけのものであって、それ以外は大人がするんです。それがあるから獅子舞が残ってきているんです。
 保存会のメンバーは20名で、そのうち獅子つかう人が10名足らず、太鼓たたきが6名であと残りが指導者です。お祭りの当日も毎年、各お旅所で子供が演じた後、大人が獅子をなんぼかは(いくらかは)つかうんです。だから、中学校を卒業して地元に残った人に本当の獅子舞を教えていくんです。中学生に教えるのと同じ型なんですけど、演技の細かいとこやメリハリとかはまったく違うんです。練習は例えば、午後7時半から9時まで子供がすると、その後午後9時から10時までの1時間は、大人が残って練習していくことにするんです。北方の1区と2区と二つの獅子舞があるのでこれを一つにしようというのは、若い後継者を中心とした大人の獅子舞で作ろうとしたわけです。中学生では時間がないもんで、そこまでの細かい詰めはできません。ただ舞の型を追うだけで精一杯です。太鼓についてもメリハリのとこまでは中学生には分からないんです。
 町内外での対外的な活動には、この大人の獅子舞がもっぱら当たっているわけです。川内町が島根県東部の大原郡木次町(きすきちょう)と姉妹都市を結んだとき、交流会として先方からは出雲神楽がここへ来て、こちらからは昭和53年(1978年)に北方の獅子舞が行きました。あちらではこういう獅子舞はないですから、結構好評でした。そのほか選挙の啓発活動やデパートの催しなどには大人の獅子舞が行きます。よそへ行くのに恥ずかしいものを見せたくないから、よく練習して行きます。」
 今年(平成11年)は8月22日に指導部会を開き、8月29日には保存会総会を開催した。9月4日に中学生を集めて説明会を開き、中学生や子供たちの練習は、北方公民館を会場として翌5日から開始し、祭りの前日まで行った。

 (ウ)北方獅子舞の芸態

 獅子舞の芸態は、調査記録(⑫)及び**さんの説明によるとおおむね次のようである。

 ① 乱獅子(二人立ち獅子1頭による)
   ○ 神楽
     神に奉納する獅子舞
   ○ 三番叟
     神に奉納する獅子舞で、子役の獅子おこしを配する。獅子おこしの口上は、「おおさいや おおさいや よろこび 
    やよろこびや このところよりほかにはやらじと あんまははあ」である。獅子おこしの衣装は、着物にたすき掛け、
    ズボンに化粧回し風の前掛けを着け、足袋にわらじ履きで、頭には立烏帽子(たてえぼし)をかぶる。
   ○ 練り
     獅子が練り歩き、遊ぶさまを表現する舞
   ○ 千鳥
     獅子の動きが千鳥の動き、千鳥足のようであるところからこの名称がある舞
   ○ 獅子おこし
     獅子に子役の獅子おこし(かつては狩人といっていた)を配する。獅子おこしが山野に潜む獅子を発見し、傘(か
    さ)、長刀(なぎなた)、鉄砲などで捕らえるさまを表現する。獅子おこしの衣装は着物にたすき掛け、白足袋にわらじ
    履きである。
   ○ 相(あい)の切(きり)
     獅子の1日の生活を9場面に分けて表現している舞。ひより(天気の様子を見る)、あしくい(自分の足の掃除)、
    つべくい(自分の尻の掃除)、かたおとし(床から起き上がっての準備運動)、ふりだし(えさを探す)、いかり
    (えさが見つからないので腹を立てる)、いもほり(イモを掘る)、さんごき(満腹)、すまし(自分の巣に帰る様
    子)で約40分(口絵参照)
   ○ 角廻(すみまわ)し(スマシ)
     委員獅子ともいわれ、北方の水利委員長の家で一度だけ舞われる。祭りの諸経費を負担してくれた水利組合に対する
    お礼の意味がこもっているという。
 ② 二羽獅子(「庭獅子」とも書く。二人立ち獅子2頭による)
   2頭の夫婦獅子に獅子おこしを配して舞われる。川内町の他の地区にはない獅子舞である。大回り、小回り、しのびと
  よばれる動きがある。夫婦獅子が、一列になって場内を大きく回ったり、場内を互いに半周し合ったり、向かい合ったり、
  逆方向を向いたり、相手を静かに見つめ合ったりする。この獅子たちに、着物にたすき掛け、前掛け姿に鉢巻きをして、小
  刀を腰に差し、2本のボンデンを持った子役の獅子おこしが一体となって演技する。夫婦獅子が山野で戯れ合うさまを表現
  した舞だといわれる。
 ③ 子役(仮面劇)
   獅子自体は登場しないが、獅子舞の演目として行われる。

写真2-1-25 川内町南方の川上神社 

写真2-1-25 川内町南方の川上神社 

左奥が本殿、中央が拝殿。平成11年10月撮影

写真2-1-26 北方獅子舞「神楽」

写真2-1-26 北方獅子舞「神楽」

揚神社拝殿にて。平成11年10月撮影

写真2-1-27 中学生の北方獅子舞「三番叟」

写真2-1-27 中学生の北方獅子舞「三番叟」

獅子つかいと太鼓は中学生、子役は小学生である。北方公民館にて。平成11年10月撮影

写真2-1-28 三島神社での奉納

写真2-1-28 三島神社での奉納

演目は中学生と小学生とによる「獅子おこし(傘)」。平成11年10月撮影

写真2-1-30 川内町獅子舞競演会

写真2-1-30 川内町獅子舞競演会

演目は北方獅子舞の「練り」、獅子つかいと太鼓はともに中学生である。平成11年10月撮影