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愛媛の祭り(平成11年度)

(3)浜で荒獅子がみだれ舞う

 南宇和郡内海(うちうみ)村家串(いえくし)では、毎年11月3日の若宮神社の祭礼に、「荒獅子(あらじし)」といわれる二人立ちの獅子舞が奉納される。この家串の荒獅子は、古くから南予地方の特色ある芸能として知られ、ときの名士の観賞に供されたり、求められて各種の大きな行事などに出演したりしてきた(写真2-1-32参照)。
 そうしたこともあってか、この荒獅子を伝習して始まったという由来をもつ獅子舞が、同じ内海村内の他の地区、大洲(おおず)市、宇和島市及び北宇和郡津島(つしま)町などの各地に散在する(⑫)。内海村では、この獅子舞を昭和39年(1964年)に村の無形民俗文化財に指定して保存伝承に努めている(⑲)。
 **さん(南宇和郡内海村家串 大正8年生まれ 80歳)
 **さん(南宇和郡内海村家串 昭和16年生まれ 58歳)
 **さん(南宇和郡内海村家串 昭和40年生まれ 34歳)
 **さん(南宇和郡内海村柏  昭和45年生まれ 29歳)
 **さん(南宇和郡内海村家串 昭和52年生まれ 22歳)

 ア 相撲練り、五鹿、荒獅子、牛鬼が練る

 (ア)荒獅子とのかかわり

 長年荒獅子にかかわってきた**さんは、昔の荒獅子の様子を次のように語った。
 「わたしは12歳で太鼓たたき(チョウともいう)を始めた。それを3年間続けた。その間、招待をうけて松山から宇和島周辺にかけて方々回っています。その当時、家串の荒獅子というと特別の人気があって、お祭りになったら、荒獅子見たさに周辺から見物人がところ狭しと集まってきました。
 昭和6年(1931年)には、東京のある百貨店の落成式に招かれた。このときには、十何組かの郷土芸能が全国から選ばれて、10日間ぶっ通しで毎日、百貨店にある劇場で踊った。そのとき、隣の愛治(あいじ)村(現北宇和郡広見(ひろみ)町)の清水(せいずい)の五鹿(いつしか)(踊り)も一緒に行きました。わたしら荒獅子が出番となったらわんさの拍手で、ほかの芸能とは拍手が違うんです。このときに、河東碧梧桐(1873~1937年)さんが見物に来ていて、あまりにも人気が強いのと芸がいいというので驚いて、『これだけ見事な芸能が我が郷土にあるということをわたしは知らなかった。』と言って、わたしらの控室に2回来なはった(来られた)。最初は羽織(はおり)袴(はかま)の正装で、2回目には背広を着て来なはった。2回目に来た時に、記念にと言って扇子に一句書いてくれ、7人全員が1本ずつもらいました。わたしらは知らんから、あの人はどんな偉い人だろうかと思いました。後で、愛媛県出身の有名な俳人だと聞いたんです。今でこそ、あの人の名前は全国的に知られて、書いたものに値打ちが出てますが、その時分は皆、これが宝になるようなものだとは思わなかったので、今ではその扇子を手元に持っている人はないんです。
 大人になってからは獅子をつかうことにはノータッチだったのですが、ただ、その代わりに後輩を手取り足取り教えてきました。太鼓をたたいて踊る12、13歳の子供三人をずうっと教えてきたわけです。」
 現在、家串祭保存会副会長として積極的に保存伝承活動に取り組み、神社総代でもある**さんは、荒獅子とのかかわりを次のように語った。
 「わたしは小学校4年生から相撲練り(写真2-1-33参照)に携わった。けいこの時間帯はずれますけど、獅子も一緒のところでけいこするもんだから、口太鼓(口で太鼓の音をまねること)で太鼓の音を覚えました。中学校1年生で太鼓たたきをしました。獅子をつかったのは21歳のときです。獅子つかい(カシラツカイともいう)は昔、百姓(ひゃくしょう)組(地区の農地所有者たち)というのがありまして、うちのおやじらが言うにはその人らが荒獅子のカシラツカイや太鼓たたきをしていたみたいですね。それを宮総代の人らが伝承してきて、昭和33年(1958年)にこの荒獅子の保存会を作ったという経緯があります。昔は獅子つかいは1年限りで、毎年代わっていたんです。今は、獅子つかいもする人が少ないんで、同じ人が5年も6年もして、『もうええかげんにやめらして(やめさせて)くれないか。』と言うようになっている。わたしの場合は幸い後継者がいたんで、獅子つかいをしたのは1年だけだった。その後、家串を出たんですが、昭和53年(1978年)に帰ってからは、世話人をはじめ保存会の役員や宮総代になったんです。宮総代は保存会の役員を兼ねており、率先して協力しとります。宮総代は今三期目に入ったところですが、元気な間は続けてすることになっております。」
 次に若手の**さん、**さん、**さんの三人から、祭りにおいて体験したそれぞれの役どころなどを聞いた。
 「(**さん)わたしは小学校3年生のときから小学生の間は相撲練りをした。中学生になって、上級生がいて五鹿(いつしか)(五鹿踊りのこと)(写真2-1-34参照)の役からあふれたので、太鼓たたきを中学校1年生、中学校2年生と2年間して、中学校3年生のときに五鹿の役をさせてもらった。高校を卒業してすぐ家業を手伝いながら荒獅子をさせてもらった。それまでは大体荒獅子は2年くらいで代われよった(代わることができた)が、後継者が少なくなって、わたしは4年続けた。その後は時々、後輩の指導に当たっています。」
 「(**さん)わたしは保育園の年長のころから、相撲練りの旗持ちをしていたんです。相撲練り自体は小学生の役なんです。人がいなかったんで人数調整という感じでした。旗持ちといってもほとんどは相撲練りに付いて回るだけなんです。小学校に入ってからは正規の相撲練りで踊り、小学校6年生のときに、荒獅子の太鼓をたたきました。中学生になってからは五鹿でメンジシ(雌鹿)を3年間しました。20歳で家串に帰ってきて、22歳から獅子つかいを2年間しました。後継者が増えたんでそれで卒業です。退いてからはたまに牛鬼をかいてます。今、実際には柏(かしわ)(内海村)に住んでいて、祭りには親の住む家串に帰ってきて、牛鬼(うしおに)をかくんです。」
 「(**さん)わたしは太鼓たたきを中学校1年生、中学校2年生と2年間して、3年生では五鹿をしました。獅子つかいは20歳のときから始めて、今年(平成11年)が3年目です。現在獅子つかいをしてるのは、自分のほかに、25歳が二人いて4年目と5年目の経験者です。」

 (イ)青年団が仕切る祭り

 かつて荒獅子などを仕切っていた青年団について、**さんと**さんに聞いた。
 「(**さん)わたしがはやし方を始めたころ、獅子つかいは青年団で、わたしらが東京へ行ったのもすべて青年団が仕切ってました。」
 「(**さん)昔から牛鬼をかくのは独身者、神輿(みこし)をかくのは妻帯者という決まりで、今でも大体それは守ってます。」
 「(**さん)青年団が牛鬼をかく。神輿は消防団がかくという区分があった。神輿は昔と大体同じ、今は12、3人でかいている。牛鬼は今の1倍半くらいの大きさで、30人くらいの人が入らなかったらかけませんでした。今は小さくなった。昔の方がずうっと大きうて重かったです。」
 「(**さん)それで余計に競争意識があって、神輿と牛鬼の鉢合わせもすごかったですよ。小さくなった今の牛鬼にも同じ30人くらいが入っています。昔の人は肩が強かったんですね。
 つまり、まつりごとは自治会が仕切って、行事は青年団が仕切っていたんです。花びらき(祭りの寄付を開くこと)をした後、荒獅子は青年団長の家、五鹿は副団長の家、相撲練りはその行司の家というように分かれて賄いをしていたんです。青年団は、昭和32年(1957年)ころまでは行事を仕切っていたでしょう。しかしその後、青年団の活動がなくなってからは宮総代さんらが世話をしていたんです。それではいかんので、名称や世話人もはっきりしようということで、昭和33年(1958年)に保存会ができたんです。」
 かつての獅子は文字通り荒獅子であったという。昔の荒獅子の様子を、**さんと**さんが語った。
 「(**さん)昭和15年(1940年)ころまでここはイワシ網が盛んで、家串いうと内海村でも一番勢いがあった。それで人々の生活が成り立っていた。網は4統あって、網元が絶対の権力を持っていました。」
 「(**さん)やっぱりそのころは祭りもにぎやかでした。とにかく力のある人がするからね。神輿も相当壊れていたみたいです。各網元の家ごとに20貫(1貫は3.75kg)とか18貫とかする力石というのがありまして、漁師たちは普段から、それを抱えては両手で差し上げるんです。」
 「(**さん)漁師は力仕事ですから、頑丈な青年がたくさんおりました。だから、今の獅子とわたしらがしていたそのころの獅子とは、形や荒さが違うんです。昔は本当に荒れ獅子で、獅子そのものの力の荒さというものが、今とは問題になりません。それだけ、獅子頭をつかう青年が頑丈な者でなかったらできなかったわけです。昔の獅子の頭は木製で重かったが、今のは張り子で軽くなってます(写真2-1-35参照)。」

 (ウ)家串若宮神社の祭礼

 家串の若宮神社の祭礼の今昔について、**さんと**さんの二人から聞き取り、今年(平成11年)行われた祭礼の様子を交えて要約すると、次のようである。
 祭日は、南宇和郡の地方祭の祭日が統一される昭和40年ころまでは旧暦の10月26、27日であったが、現在は11月3日である。昔は旧暦の10月26日、今は11月2日が宵宮で、自治会の役員や宮総代たちは宵宮の神事に参加する。青年団などは、恒例である神輿と牛鬼の鉢合わせに備えて準備をする。とりわけ牛鬼は鉢合わせのため、しりの部分が壊れているので、タケを切り出してきて半日がかりで修理する。
 祭りの当日、家串の南端にある若宮神社において、午前11時から神事があり、拝殿の中では相撲練り、五鹿、荒獅子の順に舞と踊りが奉納され、正午に宮出しとなる。神輿は1体、子供神輿が1体である。この奉納に先立ち、相撲練り、五鹿、荒獅子は、午前8時ころからカドマワリ(門回り)といって家串の家々を1軒1軒回る。始めは各団体の長とか役員など祭りに携わる人たちの家を回り、後はウラヅケといって残りを回るという。したがって、宮出しの際の奉納のためには、相撲練り、五鹿、荒獅子はころあいを見計らって若宮神社に寄せてくる。さらに宮出しの後も、これらは神幸には随行せず、カドマワリに戻り、翌日も続けて家串のすべての家々を回り終えるという。
 神幸は、猿田彦(さるだひこ)が先頭でその後に牛鬼、神輿が続き、道中を練りながら牛鬼と神輿が鉢合わせをする。途中午後2時ころ、中旅所(なかたびしょ)で奉納の舞と踊りを行う。その順は宮出しの際に拝殿で行う順と同じである。中旅所は、お旅所と若宮神社との中間に当たる吉良家の屋敷跡で、現在は南宇和郡農協家串出張所の敷地となっている。この家串の吉良家とは、当地方の漁場の開拓者の一人で、元宇和島藩領の御荘(みしょう)組に属する内海浦の枝浦の一つである家串の組頭役、浦役人として活躍し、後には網元を務めた家であったという(⑳)。午後3時ころ、神輿はお旅所に到着する。お旅所は家串集落の西端、かつては海浜に仮の宮を建てていた。今その海浜は埋め立てられて立派な作業所が設けられている。その作業所と民家との間の空き地にお旅所は設営される。ここで神事の後、奉納の舞と踊りが宮出しのときと同じように行われる。この奉納での芸はなかなか楽しいものだと、**さんと**さんが次のように語った。
 「(**さん)荒獅子は、現役が済みますとOBが飛び入りでするんです。これが楽しくてね。一杯飲んでするもんだし、現役の子とOBの親がしたりします。これがまた、ここの楽しみの一つです。相撲練りなんかも、子供だけやなしに(だけではなくて)、相撲甚句(じんく)にのどのええ人の飛び入りがあったりしました。今はわたしが時々入るくらいでそうそうないですね。飛び入りが入るからここが一番長いんです。1時間以上踊りがあります。」
 「(**さん)あのいわゆる飛び入りですが、あれは本当に見ものです。昔からずっとありました。」
 昔の神幸には、四つ太鼓とオフネが随行していたという。四つ太鼓は2基あったが、日中戦争が始まった昭和12年ころにはなくなっていたという。また、オフネとは船の形をした出車(だし)の一つで、きれいどころ(芸者衆のこと)を乗せて三味線や太鼓を演奏する乗り物のことである。これも戦後はなくなったという。ただ、昭和30年(1955年)から昭和50年くらいまでは、女子中学生を40人くらい乗り物に乗せて練りに参加させたことがあるという。
 お旅所での行事が終わると、午後4時30分ころから海上パレードに移る(写真2-1-37参照)。かつてはお旅所近くの磯に、網舟を幾そうも着けて一行を分乗させたという。今は、作業所前の船着き場から出る。先頭の一番船は猿田彦を乗せ、サカキでもって海上を清めていく。次に二番船で牛鬼、三番船が神輿、四番船が子供神輿、そのあとは荒獅子、五鹿、相撲練りの順に7隻の船が行く。船主の多くが験(げん)を担いで、神輿を積みたいと特に希望するので、何を乗せるかくじ引きをするという。大漁旗をなびかせた船の列は、内海湾の中の真珠養殖いかだの周りをぐるりぐるりと3周したあと、若宮神社前の海岸に着けられ、神輿を始め一行は下船する。海上パレード中、五鹿と荒獅子とは太鼓をたたいてドンチャカと踊り、相撲練りはもともと静かだが、荒獅子の小太鼓を借りてたたき、これも負けずににぎやかにするようである。あたりが暗くなったころに宮入りする。今年の宮入りは午後5時30分であった。
 この海上パレードは太平洋戦争後始まったものだという。**さんは、海上パレードについて次のように語った。
 「昔はお旅所から歩いて宮入りしてました。終戦までは海上パレードはなかったわけです。祭りに携わった者を乗せるのは、船主にとっては有り難いということで、船に酒、肴(さかな)を積んで賄いをするんです。」

 イ 荒獅子の舞と猛練習

 二人立ちの獅子舞であるこの荒獅子の舞の内容については諸説がある。大獅子が神楽を奉納する少年に屈服するという意味を表すという説(㉑)、キツネを捕らえようとする獅子が荒れ狂うさまを表現するという説(㉒)、チョウを捕らえようとする獅子が荒れ狂うさまを表現するという説(⑲)である。今回の聞き取りでは、話者たちがチョウと獅子との説を唱えていることが分かった。

 (ア)演目と衣装

 演技の時間は間を入れて全体でおよそ20分間で、その構成は次のようである。

 ① 空太鼓(からだいこ)「太鼓の舞」
   演技時間は約9分間である。空太鼓のときには、獅子は舞わずに据えられているだけで、はやし方の演奏と舞が演じられ
  る。

 空太鼓について**さんは次のように説明した。
 「現在大太鼓は三つあるんですが、もともと大太鼓は一つだったんです。それで少年一人が大太鼓をたたき、後の少年二人がいわば太鼓なしでたたく振りをするので、『空太鼓』ということなんです。はやし方は大太鼓1、こばやしという小太鼓2、ジャンジャンという鉦(かね)(銅拍子)1で踊っていたんです。笛は一時期入れたんですが、太鼓の音に消されてしまうということでやめました。太鼓をたたくのは、一番、二番、三番の舞の曲を順番にたたいていくんですが、それと同じことを少年二人は太鼓なしでの振りだけをしていたわけです。これもかわいいというて人気があるんです。」

 ② 一番「神招きの舞」、③ 二番「祈願の舞」、④ 三番「修めの舞」
   一番から三番までそれぞれ約3分間の舞であるが、二番がやや長く、一番、三番がやや短い。空太鼓もまた、一番から三
  番までの内容の舞で構成されている。

 衣装をみると、獅子つかいの青年3人は、筒袖(つつそで)の着物に獅子模様のついた股引(ももひき)をはき、黒のへこ帯を締め、黒の胸当を着け、牡丹(ぼたん)と獅子模様の腕貫(うでぬき)(*32)、足袋(たび)にわらじを履く(⑫)。太鼓たたきの少年3人は、中振袖(ちゅうふりそで)の着物に、脚絆(きゃはん)(*33)兼用の股引をはき、相撲風の化粧回しを着ける。チョウの触覚を表すという鉢巻きを締め、五色のたぐり角帯に左で蝶々(ちょうちょ)結びにした帯揚げ(*34)をする。牡丹と獅子模様の腕貫に手甲(てっこう)(*35)と脚絆、足袋にわらじ履きである(⑫)。いずれも伝統的な衣装で、姿、形を変えないで今日に至っているという。

 (イ)芸態

 獅子は二人立ちで、演者は青年3人、13歳の少年3人である。青年3人は交代で、二人が獅子をつかい、一人がはやし方に回る。すなわち一番から三番までの舞の演目ごとに、3人の青年が獅子振り、後振り、鉦(ジャンジャン)打ちを交代で務める。13歳の少年3人ははやし方で、空太鼓では一人が大太鼓を打ち、あとの二人は太鼓を打つ振りをする。
 一番から三番までの舞では演目ごとに交代しながら、一人の少年が大太鼓を、あとの二人の少年がこばやしの小太鼓を打つ。獅子の据え方や演者の交代について、**さんは次のように説明した。
 「空太鼓のときは、獅子は舞わずに据えとるだけです。獅子つかいの青年3人はこばやしとジャンジャンとをそれぞれ分担します。獅子の頭は、人間の背丈ほどの脚立(きゃたつ)に載せ、しりの方は太鼓たたきが予備に用意している腰掛けの高さの脚立に置き、ちょうど人間が構えた格好にして据えるんです。
 空太鼓が済むと、一番の舞に入ります。少年一人が大太鼓へ行き、少年二人がこばやしへ、青年二人が頭としりにそれぞれ入り、青年一人がジャンジャンに行きます。二番の舞では、ジャンジャンの青年が頭に入り、頭はしりへ行き、しりの青年は出てジャンジャンへ行きます。少年は大太鼓からこばやしへ、こばやしの一人が大太鼓へ行きます。三番の舞では、ジャンジャンの青年が頭へ、頭がしりへ、しりがジャンジャンへ行き、少年はこばやしの一人が大太鼓へ、大太鼓はこばやしへ行きます。」
 なお、空太鼓から一番、二番、三番の舞までが一つのまとまりであり、これを宮出し、中旅所、お旅所などでは演じるという。それ以外の場面での獅子のつかい方について、**さんは次のように語り、時と、所によって至極柔軟に使い分けていることを明らかにした。
 「海上パレードでの獅子は簡単にします。太鼓鳴らしてにぎやかにするくらいのものです。カシラツカイも酒も飲まないといけませんしね。カドマワリでは短く簡単にします。祭り当日に有志の家を回るときには、一番か三番かの短い舞を適当に舞います。これは厄払いのものですから、すべてを踊るということはありません。」
 荒獅子の芸態や演技を表現するユニークな言葉がよく使用されている。その言葉について、**さんと**さんが次のように解説した。
 「(**さん)『あちこち』とは、太鼓を中心にして獅子が左右に動くことです。『カーッ トコトン』は『カーッ』が太鼓の縁をたたくこと、『トコトン』は太鼓の中心をたたくことです。」
 「(**さん)実際は『カーッ トコトン』とは、『カーットン カーットン カーッ トコトン』のことでよく出てくる。『ハースッ トーコトン』は二番と三番の舞に出てくるんです。『ハースッ』は太鼓の縁をバチで回し、『トーコトン』は中心をたたくという太鼓の演技、音です。すべて譜面の代わりの口太鼓なんです。それで覚えさせていくんです。
 次にしぐさの表現として、『獅子おこし』は一番の舞で出てくるもので、寝ている獅子を起こすしぐさです。『獅子追い』はチョウが獅子を追い回すしぐさで、『振り踊り』は獅子がいやいやする感じです。『さるとび』は舞が、サルがチョウを足でけるような感じに似てるからです。」
 「(**さん)口太鼓でも、獅子の舞を表すことはあります。『カーットン カーットン』は、獅子が噛(か)んで退いて再び噛んで退いて、噛んで斜めに退く動きで、首を振る動きです。『ハースッ トーコトン』は、獅子が跳んでいってしゃがんで、また跳んでいってしゃがんで、勢いよく天を目指して上る感じを表します。」
 「(**さん)荒獅子という舞は、寝ていた獅子が起き上がり、チョウをくわえようとする。しかし、くわえることができなかったので、振り戻して、もう一遍チョウを追っ掛けていく(写真2-1-41参照)、というような流れの舞なんです。そこは舞と太鼓たたきとの兼ね合いがあるんです。『ハースッ トーコトン』なんかは太鼓に舞が長年ずうっと付いて回ってるわけです。譜面の代わりの口太鼓で我々がそがい(そのように)言うと、向こうもその気で習ってくれるもんです。そのほかに、あまり動きのないとこは『トコス トコス』として、次に『ハースッ トーコトン』とか『さるとび』にもっていくのがあります。
 また、『ドンドロスッカ ドッデン』といって太鼓を右手で打ち、同じ右手で太鼓を打ち切る(打ち終える)ことが、なかなか難しくて、毎年一人くらいは必ず最初から最後まで練習をしなければいかん子が出てきます。とくに今、大太鼓が三つになって、空太鼓では三人が一緒にたたかないといけないので、最後の打ち切りがなかなかうまく合わんのです。」

 (ウ)猛練習に泣く

 保存会ができる以前の練習風景を**さんと**さんに聞いた。
 「(**さん)今の子らはおそらくバチで頭をたたかれるようなことはないだろうが、昔はそれがあった。それは厳しくって泣いて帰ることが度々あった。カシラツカイの青年団の方でも、指導者は50、60歳代の年配の方々で、これもまた厳しくしてました。相撲練りなんかでも、型の悪い子のなかには、『お前はもう、いね(帰れ)』と言われて、家に帰される子が数(たくさん)おりました。」
 「(**さん)それだけ厳しく教わっとるものだから、後になっても忘れることはないんです。例えば、どこからか招待があるとすると、現役がいなかったらOBで3、4日練習して、いつでもすぐ出れるんです。そういう者はごろごろいるんです。今の子供たちに、翌年急にしてみなさいと言っても大体はできません。」
 昭和33年(1958年)に家串祭保存会が結成された。会長、副会長、世話人など15名で構成され、荒獅子の保存伝承活動を主にしながら、合わせて相撲練り、五鹿の保存活動にも携わっている。一方、神輿と牛鬼の運営は家串地区の自治会と消防団が担当している。
 荒獅子の練習は、かつては盆明けから始めていたようだが、近年は地元の中学校の運動会が終了する9月20日前後に始まる。中学生の帰宅時間に合わせ、夜8時30分ころから10時ころまで、若宮神社の拝殿で毎晩行われ、1か月半に及ぶ。指導は保存会の役員やOBが中心となって行われる。現在指導に当たっている**さんは次のように語った。
 「運動会が終わったころ、保存会の正副会長で獅子つかいや子供たちの役を決めて集め、世話人さんたちにも来てもらって懇親会を開きます。そして指導方針の説明やお願いをして練習に入ります。昔は、練習の時におやつ代わりとして煎(い)り豆などを出したりしていたが、今はそういうこともできないので、ジュースとおやつを出します。途中で慰労を兼ねた『中祝い』をします。まじめにしてくれているし、ご苦労だねという意味で、子供たちにもジュースやお菓子を出します。
 宵宮の前に皆を寄せて総練習し、宵宮のときにリハーサルをします。そのときの衣装は普段着で、正式の衣装着けるんは祭り当日だけです。十遍のけいこよりもステージ一遍の方が自信につながります。それで宵宮のときにリハーサルをすると、明くる日の踊りがぐんと違うてきます。それからカドマワリをするんですが、場所の狭いところも広いところもあって、だんだん踊りのコツを覚えてきます。本番のお宮での奉納のときには、あの子がこんな踊りができたかねというような感じで、もうたまげる(びっくりする)ようなときもあります。これは太鼓たたきも五鹿もすべてがそうです。
 練習は最低でも一月、毎晩です。獅子はとにかく前と後ろで足がそろわな(そろわないと)いかんでしょう。太鼓とも合わさないかんでしょう。一番、二番、三番と舞を全部マスターしないといけないんです。ただ、太鼓は皆たたいた経験のある子ばっかりですから、その辺は大丈夫なんです。
 9月の末から10月の末というこの練習の時期は、アコヤ貝(*36)を選別、出荷する真珠養殖業界では一番せわしい(忙しい)ときなんです。せわしいときにはわたしも休みの前日しか行けなかったんですが、最近は暇だから、週に3回も4回も行っています。」
 親から子へ、子から孫へと伝えられている祭りにかかわる芸能は、この家串の荒獅子に見ることができるように、地域の強い支えと厳しい練習によって確かなものとして伝えられている。本年(平成11年)の11月3日、家串若宮神社の祭礼では、内海湾内に太鼓の音が高く響き(写真2-1-42参照)、その勇壮で華麗な荒獅子の妙技が各所で演じられ、多くの観衆を魅了した。


*32:手首から肘(ひじ)までの腕を包む筒型の布。
*33:旅などで歩きやすくするため、脛(はぎ)にまとう布、上下にひもをつけて縛る。
*34:女が帯を太鼓結びや下げ結びにするとき、結び目が下がらないようにするため用いる絹布。
*35:布や革で作り、手の甲をおおうもの。
*36:ウグイスガイ科の二枚貝。養殖され、優良な真珠を産する。

写真2-1-32 大正11年の宇和島市長からの感謝状

写真2-1-32 大正11年の宇和島市長からの感謝状

皇太子殿下(のちの昭和天皇)に宇和島市天赦園で御覧いただいたときのものである。平成11年6月撮影

写真2-1-33 家串の相撲練り

写真2-1-33 家串の相撲練り

中旅所にて。平成11年11月撮影

写真2-1-34 家串の五鹿踊り

写真2-1-34 家串の五鹿踊り

お旅所にて。平成11年11月撮影

写真2-1-35 現在つかわれている荒獅子の頭 

写真2-1-35 現在つかわれている荒獅子の頭 

平成11年11月撮影

写真2-1-37 海上パレード

写真2-1-37 海上パレード

平成11年11月撮影

写真2-1-41 チョウを追う獅子

写真2-1-41 チョウを追う獅子

若宮神社拝殿にて。平成11年11月撮影

写真2-1-42 真珠いかだが並ぶ内海湾

写真2-1-42 真珠いかだが並ぶ内海湾

家串漁港を臨む。平成11年11月撮影