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愛媛の祭り(平成11年度)

(1)堤婆が乱舞する

 **さん(温泉郡重信町山之内 昭和13年生まれ 61歳)
 温泉郡重信町山之内麓地区は、車の往来の多い国道11号新横河原(よこがわら)橋から北へ約7km重信川をさかのぼり、荒木谷(あらきだに)地区に架かった橋を渡り、曲がりくねった険しい山道を2kmほど登りきったところにある10軒ほどの集落である。
 この地区に伝わる楽頭は、お盆の8月14日夜、地区内の薬師堂の境内で行われる念仏踊りである。その時には、地区の人は堂のかたわらの高神様(たかがみさま)と呼ばれる石像(文政12年〔1829年〕造立)のそばに、さおの先にあんどんをつけた高灯(たかとう)ろうを立て、この高神様と堂の奥の六地蔵(*3)に奉納するのが楽頭の本来の姿であったが、現在は五輪塔(近年発見された残欠)と六地蔵に奉納する形をとっている(①)。
 長年、お盆行事の楽頭に携わってきた**さんに、麓地区のくらしと踊りの舞台となる薬師堂の改築について話を聞いた。

 ア 麓地区のくらしと薬師堂の改築

 「麓地区のくらしは昔も今も林業が中心で、わたしも中学校を卒業してすぐに父に従って山林の仕事に就きました。小、中学校は神子野(みこの)にあったので、山道を通り中塚(なかつか)を経て通っていました。朝は学校まで下っていきますが、夕方の帰りは逆に上りになり40分くらいかかりました。山では植林や下刈り、そしてパルプ材の切り出しが主な仕事で、そんな仕事をずっとしてきました。この地区には、太平洋戦争後の引き揚げ者を含めて60人くらいは住んでいたと思いますが、現在は20人くらいに減っています。以前は交通事情が悪く荒木谷(あらきだに)地区まで下りていくのも大変でしたが、昭和40年(1965年)ころから道路が少しずつ改修舗装されて便利になりました。現在、麓に残っているのはわずかに7戸で若者がほとんどおらず、一部の人が森林組合の仕事に出ているほかは敬老会や老人クラブに寄り合う人が多くなっています。
 わたしが麓地区の世話をしていた昭和53年(1978年)に、薬師堂の改築の申請を県にして、かやぶきの屋根にトタンをかぶせるなどの修理をしてもらいました。この薬師堂の横にある高神様に関しては詳しいことは分かりません。昔はこの石像を地域の青年が担ぎ石として力自慢の競争をしていましたが、いつの間にか石像の頭部が欠けてしまいました。その後、この石像を**家代々の先祖として祀(まつ)り、供養をするようにと地区の福見寺の住職に言われて、塚の石と石像をまとめて薬師堂の庭に安置しています。また、お宮(五十八社大明神(だいみょうじん))の修理も同時に行いました。お宮のイチョウの木も大変古いもので、地区を挙げて保存していますが、不思議なことに横に伸びた枝にだけ実がなります。わたしの父もこの実を植えて太らせましたが、やはり実は横に伸びた枝にだけ付きます。
 わたしもお盆行事の楽頭の世話を長年してきましたが、年を取り体調を崩したりして平成5年から3年間は楽頭行事も中断しておりました。その後、平成8年からこの山之内地区に残る青年たちが後を継いでくれて何とか伝統行事も復活しました。」

 イ 麓地区に伝わる楽頭

 (ア)不思議の面

 「この念仏踊りは、先祖の霊を慰め、豊作と組中の安全を祈願するものです。踊りの際に、大提婆(だいば)に扮(ふん)する踊り手がかぶる御面については専門家がいろいろ研究していますが、御面様として五十八社大明神の御神体として祀られ、『不思議の面』として地域の人々から信仰され、お盆のときしか薬師堂から出しません。」
 この御面については、「面箱の銘によれば、[遠江守(とうとうみのかみ)宝物 火難水難盗難除 龍○精]と墨書されている。龍○精は龍猩精(りゅうしょうじょう)と考えられ、この仮面は猩猩(しょうじょう)(*4))面と判断される。(中略)当五十八社大明神の御面も古くから雨乞いに用いられ、度々霊験を得たことは有名である。古い時代のことは記録を失って不明であるが、村の記録簿(明治36年1月起)によると、①明治37年旧6月、②大正6年旧7月、③昭和19年7月と雨乞いをなし、そのつど霊験を得たとある。昭和19年の場合、7月19日本村大字志津川部落(旧北吉井村、現重信町志津川(しつかわ))植付幾日照(植付け後日照り続き)のため、用水少なく雨乞い祈願を五十八社神社に部落民一同参拝し、当組より加藤与作、加藤孫作参列し雨乞いの祈禱(きとう)をなす。志津川部落代表者橘延四郎氏より御神酒五升樽を献納す。御利生(りしょう)(仏の御利益(りやく))あり。21日降雨ありたり。(以下略)(②)」と記録されている。
 「この御面は昭和44年(1969年)に重信町の有形文化財に指定されています。御面の頭髪はもともと長く、かぶった折に腰くらいまであったと聞いていますが、今は擦り切れて短くなっています。何でも狸狸の毛だといわれており、この毛をせんじて飲めば体調がよくなると聞いていました。わたしはこのお面をかぶって何度も踊っていますが、お盆の行事を復活した折に息子がお面を着けて大提婆の役を踊ったところ、漆(うるし)にかぶれてつらい思いをしたようです。それで、その後は小提婆の役に回って毎年踊っています。」

 (イ)『芸能百選』に選ばれて

 「昭和46年(1971年)9月にNHKの番組『芸能百選』に選ばれ、東京のスタジオで踊った時は、わたしは大提婆の役を演じました。NHKホールには、能登(のと)の御陣乗太鼓(ごじんじょうだいこ)(石川県輪島(わじま)市名舟(なぶね)町に伝わる太鼓の曲打ち芸)など全国から鬼に関係した幾つかの伝統芸能が集まって共演しましたが、どれも勇壮なものでした。わたしらが着けた赤熊(しゃぐま) (赤く染めたヤクの尾の毛。また、それに似た毛髪)や白装束は、貧弱で恥ずかしかったことを覚えています。この赤熊は東京公演の前に仲間と作ったんですが、シュロの木の皮を丸い厚紙で押さえる程度のものだったんです。その厚紙部分のほつれをNHKの係の人に指摘され、慌てて修理してもらって出演しました。スタジオでの収録は大変で、朝から夕方まで細かな指示を受けながら練習し、夜になってようやく録画撮りが終わりました。NHKが全国から集めた鬼に関する芸能の仲間に入ったのは、楽頭の踊りの中で大提婆がお面をかぶって踊るからだったと思います。東京へは2泊3日で行ってきましたが、当時わたしの家ではカイコを飼っていて、9月はちょうどカイコがあがる(繭(まゆ)をはく)時期と重なり、スタジオで踊りながら家のことが心配で、気が気ではなかったのを覚えています。
 昭和19年(1944年)の雨乞い祈願とかかわりがあるかどうかは分かりませんが、わたしが古老から聞いた話では、昔、古老が若いころ2晩3日の雨乞いをしたとのことです。雨乞いに行く前には、石川(いしがわ)と呼ぶ場所で水垢離(みずごり)をとって行ったようです。組内の女性が炊き出しをして弁当を作り、男性はみのかさ姿で念仏を唱えながら、まず裏山で雨乞いをし、山を下って吾味(こみ)の烏(からす)が滝(たき)神社で雨乞いをしたそうです。次に、奥黒滝(おくくろたき)の竜神社で雨乞いをし、最後にカンオン山の福見寺で雨乞いをして麓に帰ってきたとのことです。願いがかなったのでしょうか、帰る途中に降りだした雨で重信川が増水し、川を渡れず麓地区の家に帰れなかったと聞きました。」

 (ウ)仲間と踊り続けて

 「楽頭を奉納する際は、白衣・白足袋で、大数珠と榊(さかき)を持った神主が、まず祝詞(のりと)と般若心経(はんにゃしんぎょう)を唱えます。神仏混交(しんぶつこんこう)の御祈禱(ごきとう)をしますが、これをわたしたちは高神様を拝むと言います。お盆の8月14日の夜は薬師堂の高灯ろうに灯をともし、鉦(かね)や太鼓ではやし、念仏を唱和しながら踊ります。構成は、神主、大提婆、小提婆、鉦打ち、それに念仏を唱える念仏衆からなっています。大提婆は白衣、白足袋にわらじを履いて、はばき(遠出などの折、すねに巻き付けるもの)を着けます。また頭には赤熊を着け、提婆の面をかぶり、胸に大太鼓を付けます。小提婆の服装は大提婆と同じで頭に赤熊だけを着け、胸に小太鼓を付けます。鉦打ちの服装も大提婆と同じで頭に赤熊だけを着け、念仏鉦を持ちます。念仏衆は白衣と白足袋だけを着けます。神主は昔から地元の古老が演ずることになっています。
 楽頭の踊りは、昔はまず高神様に奉納し、ついで六地蔵様にも奉納していましたが、現在は高神様にだけ奉納しています。公民館が新築されて六地蔵様の前では踊れなくなったためです(図表2-2-2参照)。
 踊りは重労働です。特に小提婆は終始、腰をかがめて踊るので大変です。大提婆が体を後ろに反るようにして、胸の大太鼓をコテカンツンテンとバチでたたきます。それにこたえて、小提婆は腰をかがめながら、小太鼓をコテコテコテと打ち鳴らします。これを合図に念仏が始まり、鉦打ちも加わって三者一体の乱舞となります。
 大提婆が跳躍しながら左に回る後を、小提婆が続いていきます。また鉦打ちも、大太鼓に合わせてカンカンカンと鉦を打ちながら、大提婆と小提婆の間を踏み分けるように念仏に和して踊り抜けていきます。
 これを見ながら、念仏衆も南北に分かれて、『ナーマミダーブヤ ナーマミダー』と交互に念仏を唱えていきます。この念仏には別段の曲節はなく『ナ』と『ダ』の部分を高い音程で唱えます。
 踊りは、『おくじおろし』と呼ばれる行事で終了します。これは、神主が御祈禱中に繰っている大数珠を指先でさっとしごき、そのしごいた数珠の数の丁半(ちょうはん)(偶数、奇数)で楽頭を終わるか続けるかを判断します。偶数であれば終了、奇数だとまたやり直しです。その終了の時期は神主の意思によって決まります。神主が高神様を拝んでいる間は、大提婆と小提婆、それに鉦打ちは踊り続けなければなりません。そして神主が高神様のお告げがあって、おくじがおりた(踊りの迫力や参加者の態度などが神様の意向にかなった)と判断した時に楽頭を終了します。踊りは動きが激しいので体力と気力がないとできません。それに最近は踊り手も一組しか編成できないので、実質は10分程度で終わるようにしています。昔、踊り手の交代要員が大勢いたときは、入れ代わり立ち代わりして皆で踊っていました。踊りが終わると、皆に難儀させたというので各家から酒や肴(さかな)を持ち寄って打ち上げ会をしていました。最近は本番ではアマチュアの写真家も含めて大勢の見物人が来てくれるので、踊り手にとっては励みになっているようです。ただ残念なことに、今年(平成11年)は雨にたたられて踊りを奉納することができませんでした。息子も含めて地区の青年たちは仕事を終えてから薬師堂に集まり練習を積んできましたが、当日は激しい雨で中止せざるを得ませんでした。踊り場では昔はかがり火をたいており、たいまつの炎がゆれて踊り手の白衣を浮かび上がらせていました。また、踊り手が打ち鳴らす太鼓と鉦の音が麓地区の谷間に響きわたり、お盆帰りの人々の憩いになっていたように思います。この楽頭は、山之内の藤之内(ふじのうち)地区でも盆の行事として行われていましたが、現在は中断しています。また、松山市福見川(ふくみがわ)町にも同じような念仏踊りが残っています。福見川のものは『庭入り』といい、8月15日の夜、地区の庵の境内で行っていると聞いています。このような伝統行事を継承していくには、重信町や地区住民の理解と協力が必要ですが、何とか残していきたいと思っています。」


*3:六道(衆生が善悪の業によっておもむき住む六つの迷界)のそれぞれにあって衆生の苦しみを救う地蔵菩薩(ぼさつ)。
*4:中国で想像上の怪獣。人に似て体は狗(いぬ)のごとく、毛は長く朱紅色で、面貌(めんぼう)人に類し、よく人語を解し、
  酒を好む。

図表2-2-2 踊り場の見取り図

図表2-2-2 踊り場の見取り図

**さんからの聞き取りより作成。