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愛媛の祭り(平成11年度)

(2)船上で盆踊り

 **さん(宇和島市蔣淵 大正6年生まれ 82歳)
 **さん(宇和島市蔣淵 昭和28年生まれ 46歳)
 宇和島市蔣淵(こもぶち)(図表2-2-3参照)は、市の中心部より10kmほど西に伸びる三浦(みうら)半島の先端部に位置している。ここには、船2隻を横に並べて結び、船首に踊り場を設け、沖で踊ったり、蔣淵の各集落を回って船を着け、踊りを神社に奉納したり、新盆の家にも船を回して供養をする、とんとこ踊りと呼ばれる盆踊りがある。江戸時代に干天、不漁、悪病が打ち続いたとき、昔、落(おとし)の鼻(はな)で遭難した平家の落人(おちうど)のたたりによるものとみて、正徳元年(1711年)にその地に供養塔を建てた。その時に始まった踊りといわれている(③④⑤)。

 ア くらしの変遷ととんとこ踊り

 とんとこ踊りと蔣淵のくらしについて、長年、地域で踊りにかかわってきた**さんに聞いた。
 「この蔣淵には、横浦(よこうら)、豊(とよ)の浦(うら)、宮市(みやいち)、宿(やど)の浦(うら)、大島(おおしま)、矢(や)ヶ浜(はま)、それに高助(こうすけ)の七つの地区があります。そこにはそれぞれお宮があり、祭りを独自に行っていましたが、今は統一の祭りとして行っています。太平洋戦争前は蔣淵に網元の船団が14統ありましたが、とんとこ踊りは網元が毎年交替で経費を賄い、酒や踊りの好きな網子(あみこ)(網元の下で実際に網漁業に従事する漁夫)が夕方から夜中まで沖合の船の上で踊っていました。当時、この踊り船は大島の方までは行かず、横浦、豊の浦、宮市、宿の浦だけを回っていたんです。踊り場は2隻の網船を組んで、その上に2枚の踏み板を渡して縛りつけ、その上で踊ってました。船のオモテ(船首)に5人、トモ(船尾)に3人、また板の下の両側でも一人ずつ踊っていました。昭和30年(1955年)ころはこの地区もイワシがいっぱいとれていましたが、昭和40年以降不漁が続いて網元も少しずつ廃業していきました。イワシの不漁が続くようになって、漁業協同組合を中心に真珠の稚貝養殖がぼつぼつ始まったように思います。こうして網元が廃業していくなかで、この地区のとんとこ踊りの世話役は地区の自治会が主体になって引き継いでいくようになりました。昭和30年代は、お盆には都会から大勢の人が墓参りに帰って来て、とんとこ踊りを見物してました。帰省客の中には、その昔、イワシ網漁に携わって踊りを経験した人がおり、その人たちは飛び入りで仲間と交代して踊っていました。お盆といってもほかに何の娯楽もなかったので、とんとこ踊りや盆踊りが楽しみだったんです。踊りは太鼓をたたく人が踊りの進行を務めていたので、太鼓のたたき方を間違えると、踊りは初めからやり直しになり、踊り手にとってはきつくて大変だったんです。太鼓打ちには昔からうまい人がおり、お酒を飲み過ぎてフラフラしながらでも太鼓はちゃんとたたいていました。イワシ漁が盛んなころでしたが、漁の合間に浮子(あば)(漁網を浮かせるウキ)に使うたるをたたいて太鼓の練習をしていました。歌い手もそれぞれの網船にいましたので、お盆が近づくとよく練習していました。わたしも、一、二度は船で踊ったことがあります。」

 イ とんとこ踊りを踊り続けて

 今も現役でとんとこ踊りを踊っている**さんに、とんとこ踊りにかかわる活動について聞いた。

 (ア)神踊りと供養踊り

 「古老からよく聞いていた話ですが、とんとこ踊りは昔は8月13日の宵に月明かりのもとで地区内の全集落7か所の浦を巡って船を着け、踊りを披露していたようです。当時は踊り船を迎え九地区の区長は浜辺に正座し、扇子を前に置いて平伏して迎えたとのことです。踊りの庭(にわ)(踊りを数える単位)数は各集落の神々の数に相当し、都合65庭を踊っていたようで、これを神踊りと呼んでいました。公民館の記録によれば、最初に横浦で11庭踊り、豊の浦で7庭、宮市で8庭、宿の浦で9庭、大島で13庭、それに高助で17庭を踊り、横浦に帰るならわしになっていたようです。現在は横浦、落(おとし)の鼻(はな)、大島、矢ヶ浜、高助の5か所を回るようになっています。
 そのあと引き続いて、初盆を迎えた家の近くの港に船を回して踊ります。これは、初盆の家が施主(せしゅ)(寺や僧などに物を施す人)となって、酒1升(1升は1.8ℓ)と肴(さかな)を献上して、新亡(しんもう)(はじめて盆を迎える仏)の供養に踊りをしてもらう習慣が今も残っており、これを供養踊りと呼んでいます。しかし、最近は新亡さんのいる家からは、金一封(ぷう)(礼金などで、金額を明示せずに紙に包んで封をして贈る金)を頂いています。昔は、この神踊りと供養踊りを延々と続けるうちに、夜が明けてしまうこともあったと聞いています。
 お盆の14日は庭(にわ)踊りといって浜の広場でレコードを掛けながら盆踊りをしていました。これも初盆を迎えた家が経費を負担しており、婦人会や青年団が中心となって踊っていたようですが、現在は中断されています。
 また、8月15日の昼には豊の浦から落の鼻まで踊り船を海上に出して蔣淵に祀(まつ)られている神々に各種の踊りを奉納していたようです。公民館の記録によれば、石鎚(いしづち)様には日向(ひゅうが)踊り、戎(えびす)様や宮島様には宮島踊りなど、地区の神様ごとに海上を移動して踊りを奉納していたようです。
 船で巡回する中で、落の鼻は最も大切な場所で、ここで奉納する48庭の踊りは、この浅瀬で遭難したと伝えられる48人の平家の落人への手向け(死者の霊にささげる)の踊りです。ここでは竹筒を用意し、踊りを一庭終えるごとにそれに刻み(切り目)を入れて数え、全部が終わるとそれに酒を詰めて海に流していたようです。その後は流した竹筒の方を絶対に振り返ってはならないと古老はやかましく言っていたのを覚えています。そして踊りの約束事として、昔も今も踊りは人々の見ている陸に背を向け、すべて沖を正面にして踊っています。踊りを奉納する神々が海上におられるということでしょうか。
 そして25年くらい前からは、神踊りと供養踊りを兼ねて、8月13日に1日だけ踊りを奉納するようになりました。」

 (イ)踊り船と踊り手

 「とんとこ踊りは、シルシと呼ぶ飾りを付けた踊り船を海上に浮かべて踊ります。シルシというのはササに扇、短冊や吹き流しを付けたものです。踊り船は、昔は2隻の網船を横に結びつけ、オモテ(船首)の方に踏み板2枚を渡して踊り場としていましたが、最近はハマチ養殖に使う船2隻に専用の舞台を設置しており、踊り場も広くなっています。そのほかトモ(船尾)の方には鉦と太鼓のはやし方や地区の会長が乗り込みます。そして踊り場の周囲には、はしごを横に倒してササを飾り、結界(けっかい)(修業の妨げとなる者の入ることを許さない地域)としています。
 昔は踊り船を地元の有力な14戸の網元が交代で提供し、踊り手はそれぞれの網元の網子が務めていたようです。その各網元により少しずつ歌や踊りの所作(しょさ)(身のこなし)に違いがあったと聞いています。しかしこの蔣淵も、昭和40年(1965年)以降イワシの不漁が続いて網元が廃業していき、また青年が都会に就職していって踊り手が不足したことにより、踊り船を出すのは5年ほど中断していたようです。その間は陸上で子供会と老人会によって踊られていましたが、昭和51年(1976年)に地元の青年団により復興されています。
 踊り手の8人は右手に60cmほどのシデ(ここでは紙のフサをタケの両端に飾った棒)を体の前で8の字に回しながら、太鼓や鉦や口説(くどき)(盆踊りなどに用いる民謡・流行歌で、叙事的な長編の歌)に合わせて踊ります。また、服装は子供も大人も、そろいの浴衣にたすきを掛け、はだしで踊ります。」

 (ウ)保存会の結成と活動

 「昭相51年のとんとこ踊りの復活後は、新亡供養と平家の落武者供養の両方を兼ねて8月13日だけ踊っていますが、地元に残った青年有志が小学校6年生に踊りを教えて大人と交代で踊るようになりました。わたしも小学校6年生の時に初めて踊りの練習を地元の寺でしました。そのころはこの地区にも同級生が20人くらいはいましたが、男子だけが1か月くらい練習をした記憶があります。わたしが中学校を卒業して大阪に働きに行き、21歳で蔣淵に帰ってきた昭和49年(1974年)ころは、むらのお盆行事は人手不足で中断していました。そして昭和52年にわたしたちが中心になって、とんとこ踊り保存会を結成しました。その後少子化か続くなかで、踊りを継承していくために平成元年ころより小学校4年生から踊りを教え、保存会員と交代で踊ってきています。
 踊りは6種類で、宮島踊り、住吉踊り、寺見踊り、新吾(しんご)踊りのほかに、花見踊り、日向踊りがあります。踊り方は、シデを8の字に回すのはすべて同じですが、その後の所作が少しずつ違います。前の四つが比較的簡単でそれぞれ約6分、あとの二つは踊り方がまったく違っていて難しく、約8分かかります。最近は小学校4年生から教えますので、簡単なものだけを覚えたらいいということで、8月に入って約2週間練習をしています。夕食前に公民館でシデだけを持ち太鼓の拍子に合わせてしますが、初めて経験する子たちに2週間で教え込むのは少し無理があります。踊りは歌を覚えないと実際には踊れないんですが、その歌が難しいんです。それで大人がそばで次々と声を掛けて、次の所作を指示しないと踊りになりません。練習時のジュースやビールによる慰労は個人持ちでしています。それでも保存会の会長などは大きな出費になりがちです。
 女子は、平時には船に乗れますが、お盆の折は今でも船に乗ることはできないことになっています。また、昔から踊りの途中で太鼓や鉦を打ち間違えたら、最初から踊り直さないといけない決まりになっていますが、今はもう守っていません。何しろこのところ、踊りをあげる(奉納する)各地区の新亡さんが多いんです。この新亡さんのお一人、お一人に踊りを一つずつあげると、踊り直さなくても午後10時くらいになります。最近は各港の桟橋で新亡さんの生前の名前を呼びますと、遺族の方が船の前に正座されるので踊りを奉納していきます。今年(平成11年)は新亡さんが37名と多かったため、いつもより30分早く午後4時30分から踊り船の運航を始め、終わったのが午後10時30分ころでした。踊りを終えて、次の港の桟橋に行く間に大人はお酒を飲みます。小学生にはジュースを用意しています。飲んで元気を出さないと疲れ果てて、次の場所でとても踊れません。大島、矢ヶ浜、高助の三つの港を回り、横浦港での奉納踊りを終えて慰労会になりますが、その時はお酒も大分入っており、疲れていてあまり飲めません。1時間足らずでお開きになります。落の鼻沖の平家の落人の供養は、昔は48庭も踊っていたようですが、各港を回るだけでも結構時間がかかるので、最近は二庭だけ踊って供養をしています。また大島から矢ヶ浜に回る折には少し波があると、二つの船をもやっている(つないでいる)綱が外れることがありました。現在、保存会の会員は24名で、それに小学生が全部で12名です。舞台で踊るのは8人ですが、年々小学生が減少するので後継者が心配されます。仲間と協力して何とか頑張っていきたいと思っています。」

図表2-2-3 宇和島蔣淵関係図

図表2-2-3 宇和島蔣淵関係図