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愛媛の祭り(平成11年度)

(1)そろいの扇子が舞う

 **さん(周桑郡丹原町田滝 大正12年生まれ 76歳)
 周桑(しゅうそう)郡丹原(たんばら)町田滝(たたき)地区は町の西方に位置し、山麓(ろく)には中山川の支流田滝川の扇状地が広がっており、周桑特産の愛宕(あたご)柿は有名で町章にも図案化されている。
 お簾(れん)踊りは、400年の伝統をもつという田滝地区黒滝神社奉納の踊りである。昔は秋の例大祭に遥拝所(ようはいしょ)(はるかに遠い所から拝む場所)や当元(とうもと)(祭りの世話をする家)で踊り、雨乞いには本社拝殿で雨が降るまで連日連夜、数人の男が交代で踊ったといわれる。ある年の雨乞いの時、本殿の御簾(みす)が動いたかと思うと、にわかに大雨が降りだしたので、以後お簾踊りと呼ぶようになったといわれる。太平洋戦争後は盆踊りとして伝承されている。優雅な扇子踊りで、踊りの休憩時の早口言葉も珍しいといわれる(⑦)。
 お簾踊りの復活に取り組み、保存会設立に努力した**さんに田滝地区のくらしとお簾踊りについて話を聞いた。

 ア 田滝のくらしと雨乞い

 「黒滝神社の遥拝所の奥に12haの田んぼがあります。これは明和年間(1764~72年)に6ha、明治の初期に6haが開墾されたと聞いています。もともと、旧徳田(とくだ)村の田滝地区と旧中川村の関屋(せきや)地区は隣同士で、農業と林業をなりわいとしていて、境界のことでいさかいが絶えなかったようです。それで松山の殿様が仲裁に乗り出し、和解の代償として開墾された田んぼが田滝地区の農民に授けられたということです。その田んぼを奥新田といい、明治に開墾された田んぼを前新田と呼んでいます。また、関屋地区にはずい道を抜いて南谷(みなみだに)から水を引いてもらうようになったということです。昔から水の問題は深刻で、双方で傷害事件が起こるようなこともあったんです。
 事実、田滝地区は井戸を掘っても水の出ない所で、水道ができるまでは村上(むらかみ)の水くみ場へ、順番を待って飲料水の谷水をくみに行っていました。それだけに雨がなければ、作物どころか命にかかわる大事になっていたようです。この田滝地区は面河(おもご)ダムの農業用水の恩恵を受けていないんです。この地区にはため池がなく、水は田滝川からの取水だけで、干ばつには弱く昔から水には苦労しているんです。この地区に雨乞踊りが昔から延々と残っているのは、やはり水不足が深刻だったんだと思います。雨乞いの行事としてわたしが覚えているのは、昭和15年(1940年)ころに村中が総出で雨乞踊りに参加していたことです。ここから2kmほど奥にある黒滝神社の本殿(写真2-2-15参照)、東三方(ひがしさんぽう)ヶ森(もり)の手前にある文殊(もんじゅ)様(仏の智慧(ちえ)〔般若(はんにゃ)〕を象徴する菩薩(ぼさつ))、そして東光山(とうこうざん)のお庵(あん)(遥拝所)にそれぞれ行く3人ずつの代表が、東予市の河原津(かわらづ)の海岸で潮垢離(しおごり)をし、みのを着てかさをかぶって3か所におこもりとお祈りに行っていたのを覚えています。現地では火は一切使わず、弁当はにぎり飯にイリコやいりマメなどでした。マメは『ふろ』と呼ぶ種類で、雨が降るとマメの『ふろ』との掛け言葉で願い事をかなえようとしていたようです。村に残った男たちは総出で、ここから見える一番高い丸鈴山(まるすずやま)に朝、登って周辺のしばや草を刈って頂上で焼くわけです。その山頂から黒い煙が上るのがここからよく見えました。煙で雨雲をつくろうというわけです。雨乞いのかいがあって、当時よく雨が降りよったことを覚えとります。わたしらが高等小学校(旧制で、尋常小学校の上に接続した学校)を卒業したころの話です。
 それでもまだ雨が降らなければ、黒滝様や文殊様に3日間もおこもりするんですから大変です。それらの場所で3人の代参者(だいさんしゃ)(他人に代わって神仏に参拝する人)は、お簾踊りだけを踊っていました。雨乞いに関しては、この地区のお盆などで踊っていた木山(きやま)踊りも新開(しんかい)踊りも踊れない決まりがあったようです。雨乞い期間中は、村の住人は夜になると揺拝所に集まって、一生懸命に祝詞(のりと)をあげて、雨をくださいと祈るわけです。その間、わたしら子供は仲間同士で太鼓や音頭のまねごとをして遊んでいました。
 また、この黒滝神社は戦前は弾(たま)をよける神様としてあがめられていました。それで、近在の西条市や今治市辺りからも出征兵士が家族とともに安全祈願に来ておりました。そして本殿でお祈りしたあと、武運長久(ぶうんちょうきゅう)(戦いで勝利の運が長く続くこと)を祈る署名がその柱やはりが真っ黒になるほどしてありました。本殿への登山道に面した田んぼで農作業をしていますと、当時の青年学校を出たような人たちが大勢お参りに来ていたのを覚えています。黒滝神社にお参りの人が多かったのは、日露戦争(1904~05年)に田滝地区からもたくさんの青年が行きましたが、ほとんどの者が元気に帰ってきたとの話が残っており、その御利益が周辺に口伝えで広がったからだと思います。
 この近くにある遥拝所は昭和55年(1980年)ころに改修しましたが、山の上にある本殿に上がるにはふもとから歩いて30分くらいかかります。この遥拝所のしめ縄を張り替えるしめ縄上げの行事(写真2-2-16参照)は、毎年、10月12、13日の統一祭りの5日前にしていましたが、最近は日曜日にすることが多くなっています。太平洋戦争前は村中が参加してしめ縄上げの行事をしていました。村の約120戸を四つの組に分けて、それぞれが4年ごとに組の中の一軒が当元を務めて、村中の人の昼と夜の食事などの賄いをしておりました。昼は当元の家が昼食を用意し、夜は境内にむしろを敷いて酒盛りをし、興が乗ってくると皆でお簾踊りを踊っていました。しかし戦時中からは食料も不足気味で、この仕来りもなくなりました。最近は田滝地区の四つの組のうち、一つの組が出てしめ縄上げをするだけになりました。しめ縄は本殿に2本、遥拝所に3本作りますが、特に遥拝所に掛けるものは大きなものを作っておりました。しかし、最近は太さも昔に比べて小さくなっています。今年(平成11年)は、下組が当番に当たっていましたが、男性約20名が朝から夕方までかかって作り、無事にしめ縄上げの行事を終えました。田滝の集会所では直会(なおらい)をして、その組の婦人たちが昼と夜のごちそうを作りました。昔からの古き良き伝統は受け継がれています。」

 イ 保存会をつくる

 「わたしは昭和37年(1962年)ころ、1年半ほど療養生活をしていました。その当時は地区のお簾踊りに興味はそうなかったんです。時たま、お盆に帰ってきた時に古老の皆さんがうたったり踊ったりするのを見ていたんです。他県で療養している間に、やはり故郷の田滝地区のことが気に掛かるようになったんです。今は故人になってしまった古老の方といろいろ話をする中で、田滝地区の踊りのことが話題になりました。この方は当時、お簾踊りの立派な指導者だったんです。その方のよもやま話(世間話)によると、お簾踊りは太平洋戦争中は中断していたようです。それでここから500mほど行った所にある東光山のいおりで、踊りの好きな者同士が集まって、細々と踊っていたそうです。また戦前は各地区の縁日などの催し物には自分たちがその地区まで出向き、踊っていたようです。それも夜の縁日だったようですが、それでも田滝地区から太鼓を持ち運んで各地で踊っていたようです。
 そんな話を聞いたあと、病院で一人で考えているうちに、踊りの好きな人がいっぱいいる地区で、保存会をつくるようにしたらどうかと思うようになりました。それで昭和39年(1964年)に退院して地区の古老の皆さんに相談したところ、熱心に後押ししてくれることになったんです。それまでは地区の盆踊り大会やお地蔵さんの祭りに細々と行っていたのですが、昭和39年に田滝民俗芸能保存会をつくりました。そして皆の推薦でわたしが会長を41歳で引き受けたわけです。当時わたしは踊りはもちろん、音頭取りや太鼓もまったくできなかったんですが、音頭だけでもと思って習いました。」

 ウ 県指定無形民俗文化財への働きかけ

 「保存会が発足したあと、このお簾踊りをもっと意味のあるものにしようということで、当時の徳田村の公民館長さんに、愛媛県に文化財の申請をしていただいたんです。そして、県から調査に来てもらって実際に踊りを見てもらった結果、いい感触を得たわけです。また、その当時の松山市の伊佐爾波(いさにわ)神社の神官さんにも田滝に来ていただいて、直接踊りを見てもらいました。専門家が見ると、踊りの足の出し方や手の遣い方で大体の年代が分かるらしいのです。調査の結果、『これは価値があるものだ。大体350年から400年前にあったものであろう。』と、年代を推定してもらったんです。それですぐに県の無形文化財に指定されました。その記念碑を集会所の前に建てて、その裏に次のように記しています。

   私達のこよなく愛する郷土田滝にその祖先の方々が毎日の生活と共に400年もの間、黒滝の神に祈り、豊作に踊り伝えて
  来たお簾踊りが県の文化財に指定せられた。
   私達田滝の住民は祖先の築かれた歴史と共にこの貴い文化財を受け継ぎ、末永く栄え伝えることを誓うものである。
                         昭和40年4月2日 田滝民俗芸能保存会

 無形文化財の指定を受けた折に、その芸を受け継いでいく認定書を頂き、音頭取り、踊り、太鼓に関して、わたしを含めて5名の者が後継者として認定されました。しかしその5年後には無形文化財は無形民俗文化財に指定替えになり、この地区の保存会は民俗芸能保存会になりました。昭和40年の県指定無形文化財になった年には、県の代表として松山市での中国四国地区民俗芸能大会に、お簾踊りの音頭取り、太鼓のたたき手、それに踊り手の総勢30名の者が参加し、続いて昭和45年にも岡山県津山(つやま)市の同大会にも出場しました。その折、わたしはお簾踊りの音頭を取りましたが、この時にはこの地区で踊られているお簾踊りの他に、木山踊りと新開踊りも披露しました。西条市氷見(ひみ)地区では新開踊りを浸鎧(しんがい)踊りとして踊っています。そのほか、昭和41年ころに島根県の出雲(いずも)大社でも踊ったこともありますが、よそに招待された折、文化財に指定されたお簾踊りだけを披露するのでは寂しいもんですから、三つの踊りを一緒にして踊るようになったんです。すると見ている人も喜んでくれるようになりました。
 昭和46年(1971年)には、田滝地区の古老が音頭の歌詞から早口口上(こうじょう)(早口言葉で言うこと)まですべて記憶していたものを、当時の徳田村の公民館長さんが聞き取りをして執筆、編集し、田滝民謡集という小さな冊子(B5版62ページ)ができました。早口口上などは今の若い者は恥ずかしがってしようとしませんが、昔は古老の方たちが競い合ってしていました。すべて暗記して言うのですから大変なことだったと思います。その昔、山の下草刈りや田んぼの耕作の合間には、古老が練習していたのを覚えています。ここに調査に来られた民謡研究家の方も、『早口口上は全国的にも貴重で珍しい。』と言われてました。この早口口上は、お簾踊り、新開踊り、木山踊りの中休みに音頭取りが行います。昔は早口での踊り場のほめ言葉があり、その次に『ただいまのおほめの口上に対しまして。』と、ほめ言葉のお礼の早口口上を述べます。その後、音頭取りは順次交代して、ガマの油の口上や、その他いろいろの早口口上を述べていました。この早口口上は、長い文章を猛烈な速さで述べるので、文章を見ていないと何を言っているのかさっぱり分かりません。
 お簾踊りの歌詞はつぎのようなものです。

   険しきみ山の黒滝に 祭る12社大権現 人も居らぬに神かぐら
          月に三度は笛や太鼓の音がする 笛や太鼓の音がする
   天狗(てんぐ)様かや何人ぞ ひびく太鼓に振りつけて 踊りを捧げて祈るなら
          いかなる望みも神もいさめば成就する 神もいさめば成就する
   踊りを捧げりゃ照る月も 俄(にわ)かに曇るぞ黒雲が 神の利益(りやく)か有難や
          五穀を思(おも)やこそ神の恵みの雨が降る 神の恵みの雨が降る

 踊りは二本の扇子を遣う優雅なもので、歌は七五調の語句が一節となり、あまり類例のないものだといわれています。女子の衣装は浴衣に腰巻きを着け、菅笠(すげがさ)に赤いたすきを締めます。扇子は練習の折は安いもので済ませますが、本番では京都で特別注文して作ったものを使います。女子の浴衣は3種類あり、それぞれ40着ほど作りましたが、お嫁にゆく際には道具として持参するようです。男子は、浴衣に鉢巻き姿で踊ります。
 現在、若い**さんが保存会会長を受け継ぎ、早口口上も若い**さん一人だけがしています。それも前口上の踊り場のほめ言葉だけをしています。この早口口上の後継者が心配されます。踊りそのものは昭和43年(1968年)ころに、田滝小学校の校長先生にお願いして保存会の顧問になってもらいました。それ以来、小学校の特別活動として踊りを練習してもらっており、運動会には必ずPTAと一緒に児童も踊っていますから、芸能伝承の点でも大変心強く安心しています。」

写真2-2-15 黒滝神社本殿

写真2-2-15 黒滝神社本殿

雨乞い後、かすかに動いたといわれる巨大な石。平成11年7月撮影

写真2-2-16 黒滝神社遥拝所でのしめ縄上げ

写真2-2-16 黒滝神社遥拝所でのしめ縄上げ

平成11年10月撮影