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愛媛の祭り(平成11年度)

(2)人馬一体で駆け抜ける

 **さん(越智郡菊間町高田 大正14年生まれ 74歳)
 **さん(越智郡菊間町高田 昭和48年生まれ 26歳)
 **さん(越智郡菊間町浜  昭和30年生まれ 44歳)
 「馬なくて何の菊間の祭りかな」などといわれるほどに、菊間町の加茂(かも)神社では馬の存在が大きい祭りの行事がある。これは「お供馬(ともうま)」と呼ばれ、昭和40年(1965年)に愛媛県の民俗資料の指定を受け、昭和52年(1977年)に県無形民俗文化財に指定替えされた。この行事は「走り馬」「稚児競馬」あるいは飾り立てた馬であることから「役者馬」とも呼ばれ、「お供馬」の呼び方が定着したのは県の指定を受けてからだそうであるが、走り込みの後、神輿の渡御にお供することからきた呼び名であるといわれる(写真2-3-34参照)(⑬)。
 菊間町は愛媛県の東予地方の西端にあって、松山市から車で40分ほどの所にあり、伝統産業である菊間瓦(かわら)が全国的に有名である。加茂神社の例大祭は10月9、10日の二日間行われるが、その10日に「お供馬」の行事が行われる(*23)。飾り立てた馬に着飾った7、8歳から14、15歳までの子供が乗り、約300mの参道を一気に駆け抜けるものである。これは京都の上賀茂(かみがも)神社の競馬(くらべうま)とのかかわりを持ち、500年以上の伝統を有する勇壮な行事であるといわれている(⑭)。

 ア お供馬とともに

 お供馬とのかかわりについて、愛馬会2代目会長の**さんに聞いた。

 (ア)お供馬を飼う

 「お供馬の飼料はわらが主体で、その中にトウモロコシを3から5cmくらいに切って入れます。それに、刈ってきた草や、『ふすま』(小麦から小麦粉を7分取りくらいにした後の粉かす)を混ぜて食わすんです。トウモロコシは愛馬会が休耕田を、2反(たん)(1反は約1,000m²)ほど借りて作っているんです。
 食料のわらは、1頭で年間2反分は要ります。馬屋の床も1週間に1回くらいは敷き替えてやるが、その敷きわらが3反分くらい要ります。人によっては、わらの外に、おがくず(のこぎりで引き切る時に出る細かい木くず)や、かんなくずなども使っているようです。いずれにせよ、5反分くらいのわらが要ります。今ごろは、それだけのわらの確保は大変なんです。馬の健康にも気を遣います。日本脳炎の予防注射を年1回、これは馬主が一斉にやります。虫くだしの薬などは、個人個人で馬の調子を見てやります。蚊取り線香をたいてやったり、扇風機をかけることもあります。今は雌雄の馬(昔はほとんど雌馬だけを走らせたという)が走りますから、荒い馬は去勢することもあります。馬の運動不足も問題です。わたしは10m四方ほどの草場を造っています。そこへ馬を出して放しておいてやると、運動にもなるし、馬のストレス解消にもなるんです。でも皆さんが広場を持っているわけではありません。だから連れて歩くとか、休耕田を借りるとか、イネの刈り上げが済んだ後の田へ、柵を作って運動させるとかしています。
 馬を飼うのは犬や猫と違って、ペット的に飼えるものではないんです。まず馬小屋、1年分の飼料や敷きわらの確保場所、馬の運動の場所のことがあります。何よりの問題は、大きな生き物ですから、その食事や運動などの世話が一日も欠かせないということです。家族皆で旅行するなど家を留守にすることはとてもできません。大きなものですから他人さんに預けるわけにもいけないのです。その毎日の世話が一番難しいんです。これは自分だけではとうていできないことです。家族みんなが助けてくれるからできるんです。それでも馬を飼うのは、やはり馬が好きなんです。馬はかわいいもんです。」

 (イ)愛馬会

 「馬好きの連中で愛馬会を作って、お供馬の行事へ馬を出しているんです。わたしは今2代目の会長ですが、最初は、馬が減ってきてお供馬が途切れそうになったのを何とかしたいということでした。わたしらが若いころは、旧菊間だけで250頭ぐらいの馬がいました。昭和の初めから太平洋戦争直後でも、菊間、亀岡合わせて300頭くらいはおりました(菊間町誌によれば、昭和25年[1950年]に398頭、昭和33年には341頭いたとある)。それが昭和30年代中ころから耕耘機(こううんき)が出始め、山にも道がついて車が入るようになったり、菊間は瓦産業の町ですが、その瓦の燃料が重油に変わったりしました。それで、農耕馬として、あるいは、農閑期の瓦の燃料の松葉や木出しの運搬に使っていた馬が要らないようになったんです。そして40年代に入ると急激に馬が減ってきて、昭和47、48年ころは、菊間町内で1頭だけになったことがあります。
 このお供馬の行事は、県の無形民俗文化財に指定を受けたことでもあり、500年以上の伝統的な行事を何としてでも続けたい思いもあったわけです。だから、そのころは、西条(さいじょう)市や新居浜(にいはま)市の乗馬クラブから、また広島県福山(ふくやま)市や高知(こうち)市の競馬場などから馬を借りてきたことが何年かありました。ところが、昭和51年に、現役の競走馬を借りてきて、練習中に事故で一人が亡くなったため、1年休んだことがありました。そんなこともあって、いつまでも借り歩いているわけにはいかんという思いがあったんです。」
 愛馬会事務局長さんの話によると、ちょうどそのころ、町の方でも、昭和49年に「御供馬の行事保存会」を町長を会長として結成し、昭和55年には「御供馬導入資金貸付基金条例」を作って、馬を購入する資金として、1頭50万円までは馬主に貸すことにするなどして、町を挙げて、お供馬の行事継続に立ち上がってくれたとのことである。
 「(**さん)お供馬を続けたいということで、馬好きの者15名ほどが集まって、導入馬会(馬を買い入れる会)を昭和50年(1975年)ころに作った。それが現在の愛馬会になったんです。そして、馬好きの者たちで北海道へ馬を買いに行きました。北海道へというのは、昔は菊間にも博労(ばくろう)さんがいて、農耕馬を年に10から20頭ほど北海道から買(こ)うてきていたんです。それで北海道に行けば馬が買えると考えたんです。その時は18頭ほど買うて帰ったと思うが、あのころは、わりあいに馬の値段が高かった。1頭20万円か30万円くらいで買えると思って行ったのに、50万円もするので、これではよう買わんなどという話も出たが、何とか頭数だけはそろえて買って帰ったんです。そのころから大体20頭前後でお供馬の行事が今日まで続いています。今は、12軒で17頭ほど飼っているんですが、愛馬会のメンバーも年配の者が多くなり、後継者づくりが課題なんです。」

 イ お供馬を訓練して

 馬が走ってこそのお供馬であるが、その馬の調教の話を中心に、**さんに聞いた。

 (ア)わたしとお供馬

 「わたしは満1歳になったばかりで祭りに競馬上(あが)りの馬(競馬を引退した馬)に乗ってお宮へ行ったそうです。乗(の)り子(こ)(騎手になる子供)として走りだしたのは、小学校1年生の時からです。その時は、恐ろしいというか不安でした。それからは中学校3年生まで、毎年お供馬には乗りました。でも本当に楽しくなりだしたのは小学校4年生ころからでしょうか。そのころからは、普段でも馬を連れ出して散歩や草を食べさしに行ったり、友達も連れ出して、馬と一緒に遊んだりしたものです。だから、中学生のころになると、自分で馬を調教し始めました。わたしの場合はそんなふうに、小さいころから馬が友達くらいに自然にかかわってきたから馬への愛着も人一倍かもしれません。その馬と一緒にお供馬として観客の中を走ることはこの上もない興奮とそう快さを覚えたものです。今は自分で飼っている馬を走らせ、人が乗ってもけがしないように調教して、乗馬の楽しさや祭りの興奮を体験してもらいたいと思っています。」

 (イ)大切な馬の調教

 「昔は大体馬主さんが調教していましたが、今は馬を飼っている人は年寄りが多くなり、調教まではできない人が多くなりました。わたしは小学生のころからずっと、お供馬で馬を走らせてきましたから、今はよその馬も調教しています。今は昔と違って、道路もアスファルトやコンクリートになってますから、乗馬する場所がないんです。乗馬クラブとか、馬の運動場とかあれば別ですが、今の馬は普段に走っていないし、運動も少ないから、前年走った馬でも練習しないと走れないんです。それに農耕馬は太り過ぎると走れないんです。だから競馬上りの馬はそのまま飼い続けますが、農耕馬のお供馬は2、3年で買い替えるんです。それで毎年初めて参加する馬が3から5頭はいます。その新しい馬が農耕馬の場合ですと人を乗せたことがないから人が乗ることに馬が恐怖心を持っているんです。だから調教するんですが、大事なのは人が乗ることに慣れさせることなんです。
 最初は二人に馬のくつわ(馬の口に含ませ、手綱を付ける道具)を持ってしっかりと馬を捕まえてもらい、ゆっくりと体重をかけて乗るんです。乗れるようになったら、口引き(馬のくつわを持って引くこと、またその人)の状態で少しずつ歩かせ、次に口引きなしで歩かせるんです。やがてゆっくりと走らせるということになります。簡単に人を乗せる馬もありますが、頭を上下左右に振ったり、足を蹴上げたりする馬もあれば、前へ行かずに後ずさりして嫌がる馬もおります。最初にきちっと従うように教え込むことが大事なんです。大体はその日のうちに歩き、ゆっくり走るくらいまではできます。9月に入ると、日曜日や祝日に、大体午後3時ころから日暮れまで走り込みをする参道の馬場で練習しますが、4、5日の練習で人を乗せて走れるようになります。次に大事なことは、馬に十分コースを覚えさせることなんです。そこまできちんとしてないとお供馬で走らすことができないんです。乗り手が子供で、普段から馬に慣れている者だけではないし、絶対にけががあってはならないからです。
 祭りの1週間前に、神輿をかく時その揺れを防ぐために、神輿を綱でしっかり縛るヨコジメという作業を行います(その日もヨコジメと言う)。その日に参道と観客を分ける柵(さく)を作ったり、参道(馬場)に土を入れたりして整備も行います(写真2-3-36参照)。そのヨコジメに入ってからは、毎日の練習ですから、馬も大分調子が上がってきます。そして一日一日違ってくるような感じです。その時には、馬場としての柵も全部できますから、走るコースも馬自身にはっきりと分かってくるんです。馬場は神社の参道で、入り口の鳥居から奥まで300m足らずの距離です。奥まった所が池の土手になっているんですが、そこまでは直線、そこから急に左に曲がって、神社沿いの土手を上り切るまでのコースなんです。馬場の幅はスタートの鳥居の辺りは4、5mで狭く、その奥の方は10mほどと広くなり、最後の30mほどの池の土手の坂の道幅は3mほどの狭さです。この場所は左に曲がって急な上り坂になっていますから、坂に向かって曲がらずにまっすぐに走って行こうとする馬もあるんです。でも、練習さえ十分にすればコースを覚えるもんです。それに愛情を持って接すればそれが十分わかるんですからかわいいもんです。」

 (ウ)競馬上りの馬と農耕馬

 「農耕馬に比べて、競馬上りの馬の方がはるかに調教しやすいんです。第一、人を乗せることに慣れていて、走ることも知っています。それに競馬馬は賢いから、少しずつ慣らして数回コースを走らせると、走るコースや止まるところもしっかり自分で調整さえしようとします。ただスピードが出過ぎるのが難点なんです。それに元々競争馬ですから、他の馬と並んだりすると、先へ出ようとして急にスピードを上げようとする習性があるんです。それが子供が乗るお供馬では、かえって困るんです。馬の背丈が高くてスピードが出るわけですから、小学生の慣れない乗り子は振り落とされるのではないかという不安や恐怖心に襲われるんです。だから遅くても農耕馬の方が安全だと思ってそちらを選択することになるんです。農耕馬は、胴回りも太く短足で背が低くてがっしりしていて、見た目にも競馬馬に比べると安定感があります。でもスピード感は落ちます。特に最後の駆け上がりが急な坂になっているから、たいぎがって(走ることをめんどうがること)走らないようになったりすることもあるんです。それを最後まで走り切らす練習をきちんと仕上げておく必要があるんです。その訓練をするのは競馬上りの馬に比べると倍以上の時間がかかります。
 わたしが子供のころは、当日走るまで、練習は全然なくてぶっつけ本番でした。それでも昭和30年(1955年)ころまでのように、自分の家の子供なら、普段から馬に乗っているし、自分の家の子供という安心感もありました。しかし、最近は普段から馬に慣れていない親せきの子とか他人の子供を乗せることが多くなりました。だから、少しでも練習することにしているんです。何しろ乗り子は子供であり、その子供の乗り子による走り込みが菊間の祭りのメインであり、皆さんの期待と楽しみですから。
 子供を乗せるまでにはもちろん馬は十分慣らしておきます。馬が子供でも安心して乗せ、子供も安心して乗れるんだと思わせることです。これがお供馬の絶対条件なんです。だから子供の練習よりも馬の訓練に時間をかけます。でも子供にとっては、馬に乗るだけで、視界や目線が違いますから、初めて乗る子はその違いに面食らいます。さらに馬が走るとなると、振り落とされるかもしれないと不安がったりします。だからこそ、慣れることが大事なんです。そのためには馬と触れ合い、知り合うことが一番です。それでも走ってみようという気持ちになるまでには相当の時間も要ります。」

 ウ 母の思い

 **さん(越智郡菊間町高田 昭和18年生まれ 56歳)
 **さんの母親である、**さんに、我が子を初めてお供馬に乗せたころの母としての思いを語ってもらった。
 「昭和48年(1973年)ころ、高知で競馬の騎手をしていたわたしの里の父が定年で辞(や)めて菊間に帰ってきていたんです。帰ってみると、祭りに馬がいなくて寂れている。これではいかん、何とかしたいと思っていたらしいんです。ちょうどそのころに男の孫が生まれた。孫をお供馬に乗せるということと合わせて、この際、自分の余生をこのお供馬の復興にかけると言って、馬の好きな人々と相談して、導人馬会を作り、やがて愛馬会の初代会長を引き受けたようです。だから、自分で高知の競馬上りの馬を連れて帰ったりしながら、まずは、わたしら子供たち、次においやいとこや親せき中にも声を掛けて順々に馬を増やしていこうとしたそうです。**は9月生まれで、翌年の10月の祭りには、1歳1か月でおしめをつけながらお供馬に乗って加茂神社へお参りをしました。ところが、赤子には馬の鞍(くら)が高くて、馬がちょっと跳ねたりすると鞍で額を打って大きなタンコブ(こぶ)を作ってました。それでも嫌がりはしなかったです。心配もしましたが、晴れ姿よという思いもありました。その後は毎年乗っていきました。暇があると、わたしの里の父の所へ行って、馬の扱い方も乗ることもですが、馬のくつわや面(おも)がい(馬の頭の上からくつわに掛ける飾りひも)の作り方も教えてもらっていました。今では、皆さん方の馬の面がいも作ったりしているようです。**をお供馬で初めて走らせたのは小学校1年生の時でした。わたしとしては、まだこんなに小さいのにと思いましたが、乗ることには慣れているということで走らされたんです。でも乗って歩くのと走るのとでは危険度も乗り子の怖さも全然違います。それに当時は今のように練習して順々に慣らしてから乗せるのではなくて、ぶっつけ本番ですから、余計に心配でした。でも親はどんなに心配しても、ここ菊間では皆そうして育ったんだと思うて覚悟するより仕方なかったんです。年に一度の祭りで男の人は燃えますから、息子もその中に加わると思えばうれしくもあり、晴れ姿は立派にも見えました。それでも心配は心配でした。その気持ちは口には表せませんが、主人は『女は、見てて心配したりおろおろしたりするより家におれ。』なんて言っていました。それでもじっとしておれなくて見に行きました。神様には落ちませんように、無事乗りこなせますようにと手を合わせたもんです。でも一度乗り切るとほっともしますし、その度ごとに子供もたくましくなっていくんですね。だから、親は、心配でも、それに耐えて押し出すように送り出さんといけないこともあるんだと思います。今の**は喜びも楽しみも体験してきたし、自分でなきゃあできない調教もあり、やりがいのあることだと思うているんでしょう。そんな子供の成長の姿は頼もしいし、うれしいものです。」

 エ 潮垢離に身を清め

 「(**さん)祭り1週間前のヨコジメから潮垢離(しおごり)という禊(みそぎ)を行うんです。毎日、乗り子と口引きが海へ行って、素っ裸になって、けがれを払うために海水で身を清める『行(ぎょう)』です。潮垢離は昔は晩に行っていました。潮垢離して、潮水を徳利(とっくり)にくんで帰って、夜は神棚に供えておくんです。昔は馬も連れて行っていたのですが、今は連れていきません。馬小屋にはしめ縄を飾り、毎朝、神棚に供えた潮水で清めのお払いをしていました。
 祭りは昭和47年(1972年)まで、10月19、20日でしたから、海に入っている間はそうでもないんですが、裸になって海に入る時は冷たいし、海から上がって風でもあったら、そりゃあガタガタ震えていました。しかし、その行(ぎょう)のお陰でけがもしないとか、逆に行を怠ると馬から落ちたりするとか言われて、震えながらも、身も心も引き締まったものです。この潮垢離は今も続いています。」

 オ 人馬一体となって

 祭り二日間のお供馬の様子について**さんと**さんに聞いた。

 (ア)昔の走り込み

 「(**さん)大正末ころは100頭以上のお供馬がいたそうです。わたしらが知ってからでも70、80頭は集まっていました。わたしが口引きを始めた昭和15年(1940年)ころは、鳥居の方から奥へ走り込むだけではなくて、逆に奥から鳥居の方へ走り出すこともさせていました。だから、走り込みの奥の方の池の堤の下の辺りや坂を上がり切った池の上、鳥居の辺りにも口引きがおって、走り過ぎようとする馬を止めるんです。昔は馬は練習してないから走るコースを知らんし、乗り子も練習なんかしていないから、走り出したらすんなりとは止まらんのです。それに普段働いている馬だから勢いもあるんです。だから走り込んできて止まらない馬に口引きが飛びついて止めたりしていました。口引きに飛びつかれた馬はそのままざざあっと滑りながら止まるんです。ところが馬の勢いがあり過ぎて、口引きがよう止めないとその勢いで家へ向かって走ったり、池の奥まで走ったりする馬もおったんです。加茂神社への入り口の所に橋がありますが、昔は石橋で手すりも無いものだから、勢い余って鳥居から走り出して、そのまま川へ飛び込んだりすることだってありました。
 走り込みの奥の真正面のところに池の堤があって、その土手の傾斜地にはお客さんがいっぱいいたんです。それに向かって飛び込んで行く馬もおりました。だから口引きがそんな馬に飛びついて止めるんです。
 また馬場と見物席の境の柵はしっかり作るんですが、中にはその柵を飛び越えてお客さんの方へ飛び出す馬がおるもんだから、その近くの者はぱあっと走って逃げたりしていました。『よい! 3人か5人はけがしたようだ。』などと乗り子で達者になった者は、後でそんな話をしたもんです。昔はここで馬を走らせて馬にけがをさせられても、文句を言う者はいませんでした。昔はそれで済んだんですが、今はそれでは通りません。人をけがさせてはいかんということが皆の頭にあるんです。」

 (イ)参道の走り込み

 「(**さん)朝5時ころ、乗り子、口引きは最後の潮垢離に行きます。清めた身体に、当日の晴れの衣装(普通は、白衣の上に平袖(ひらそで)の長襦袢(ながじゅばん)を着て、その上にたすきを十文字に結び、頭には黄色い鉢巻きをきりりと締めて、手には竹根のむちを持つ)を着て出かけるんです。正装して出かける前に、昔からの儀式として、口引きと乗り子はいりこを食べ、お神酒(みき)を一杯いただき、馬にもちょっとなめさせ、潮水でお祓いをしてから加茂神社へ出発します。
 神社へ着くと、まず拝殿へ上がる階段の下で馬を参拝させます。口引きが馬の頭を軽く押さえてやると素直に頭を下げます。その後で、乗子と口引きは、あらためて階段を上がって参拝を済ませてから走り込みに入ります。
 午前8時ころから走り始めます。主には、午前10時ころからです。この時間になると、お客が馬場の柵の外や正面の池の堤の傾斜面を埋めつくします。今年は17頭の参加で、一度に3から5頭くらいで走らせます。1頭がそれぞれ10回ほど走ります。昭和30年(1955年)代ころまでは、会長さんの話では70から80頭参加して、一度に5、6頭から10頭以上で走ったそうですから、今以上に華やかで、盛大だったと思います。乗り子は中学生までですが、今年は中学生が1人で後は小学生です。完全な競争ではないから、一斉にスタートさせるのではないんです。遅い馬を先に離すとか、短い距離を走らすとか、ある程度乗り慣れた乗り子を遅れてスタートさせるとかいろいろしてみるんですが、競馬上りの馬は、すぐに追いつき追い越そうとするんです。
 小学生などで、初めて乗る子は、手綱(たずな)と馬のたてがみにしがみつくような状態だったりしますが、何年も乗ってくると、片手手綱でむちを当てる者、両手を手綱から離して大きく振り上げ、さっそうと乗りこなす者もいます。そうなると馬の飾りがなびき、紺地の長襦袢の子供たちが、『ホーイヤー ホーイヤー』と歓呼の声をあげながら人馬一体となって走り抜けていきます。その姿は、時代絵巻さながらです。馬も乗り子も何回か走り込みをしますが、走れば走るほど、子供たちの晴れ晴れとした喜びの表情が見えてきます。観衆も一体となって拍手を送ってくれますが、そうした姿を見ると、馬を育て訓練したかいがあったなとつくづく思います。その陰には、息子の晴れ姿を心配しながらじっと祈るような気持ちで見守る親もあれば、見事に乗り切った子供と馬の姿に安堵(あんど)の胸をなでながら、この日のために馬を育てて来た馬主さん方の喜びの姿もあるんです。
 わたし自身は今でもお供馬で走ってみたい思いがあります。今は、自分が調教した馬に子供たちが乗って、無事走り切って、喜んでくれるのを楽しみにしています。ここの晴れ舞台の主役は子供ですから、その子供たちが、見事に乗りこなしたり、はじけるような喜びの表情を見せてくれたりするのが何よりうれしいです。そのための十分な調教に心掛けています。とはいえ、やはり、自分の子供を乗せてやりたいという気持ちは強いです。やがては自分の子供が乗って走る姿を見たいというのが楽しみというか夢なんです。」

 カ お供馬パレード

 **さんに神輿のお旅へのお供とパレードについて聞いた。
 「昭和30年代後半まで、神輿は、加茂神社を出発して、国道沿いの八幡神社までお旅をしていました。その時のお練りの行列は、最初は牛鬼が出てその後へ20台以上の神輿が並び、最後にお供馬が続くんです。そのころは馬も80頭くらいいたと言いますが、それらが延々と1kmほども続いた行列だったんです。それが車の交通量も多くなり、神輿のかき手も少なくなり、その運営ができなくなったんです。だからお旅所を神社の近くへ移し、やがては参道の内でお旅行事をするようになって、平成6年までお旅への行列はなくなっていたんです。それを何とか復活させようと、わたしと同じ41歳の厄年の男たちで相談して、神社や若い人たちに呼びかけました。町の人たちからも随分と協力もいただいて、お旅への行列を25年ぶりに復活させたのが平成7年でした。あの時は依頼に回ったり、あれこれ協議を重ねたり祭りを盛り上げようと皆の気持ちが燃えたものです。
 お供馬も、今は走り込みと同時に本来の神輿のお供としてお旅へのお練りに加わり、華やかな衣装で乗りこなす姿は祭りを盛り上げてくれます。それと同時に1日目には、午前10時ころから2時間ほど町並みを通ってのパレードを行っています。これはお供馬がそろって加茂神社を出発して、海岸近くの埋立地まで行き、そこで、榊の葉で潮によるお祓いを済ませた後、町中を練り歩くものです。町の人たちは着飾ったお供馬を喜んで迎えたり、お花(祝儀)をくれたりして、お供馬と町の人たちとの交歓の場になっているんです。
 今は、お供馬の行事に2万人以上の観客が来てくれますが、今後のことを考えると馬を飼う後継者作り、乗り子をどう育てるかなどの課題もあります。愛馬会の人たちが頑張ってくれていますが、町の人たちの協力や町の援助などみんなの力で、伝統あるお供馬の行事を一層盛んにしていきたいと思っています。」


*23:平成12年からは、祭日の変更に伴い、10月第4日曜とその前日に変更される。

写真2-3-34 神輿のお旅へのお供

写真2-3-34 神輿のお旅へのお供

平成11年10月撮影

写真2-3-36 参道の馬場と最後の調整

写真2-3-36 参道の馬場と最後の調整

平成11年10月撮影