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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

5 四国山地と瀬戸内海の形成

 大規模な隆起と沈降

 鮮新世(五〇〇万年前~二〇〇万年前)後期になると新たな地殻変動がはじまる。それは東西方向の軸をもつ運動で、四国山地や中国山地の隆起と瀬戸内海の沈降をひきおこした。この運動は、南からの地殻の圧縮によってひきおこされたもので、日本列島の南に位置するフィリピン付近の海底が日本の方へ押し寄せるような動きをしたために、日本付近の地殻にしわができたのだと考えられている。
 初期には、まず、東海地方で土地が沈みはじめ、小盆地がつくられた。時がたつにつれて盆地は大きくなり、西側の地域でも土地が沈みはじめた。そして、鮮新世末期には九州の有明海から伊予灘にかけての地域、燧灘から近畿地方中央部にかけての地域に海や湖がひろがった。この沈降域は瀬戸内沈降帯とよばれ、次第に成長して現在の瀬戸内海へと発達する。一方、瀬戸内沈降帯の北側と南側の地域では、次第に土地が押し上げられ、沈降帯と同じように東西方向の軸をもつ(東西方向に尾根がのびる)山地が形成されはじめる。南側の山地が四国山地であり、北側の山地が中国山地である(図2-7)。

 中央構造線の活動と四国山地の成長

 四国山地の降起は愛媛県の北部を東西に走る中央構造線の活動と密接なかかわりを持っており、第四紀(二〇〇万年前~現在)に入ると中央構造線の南側の地域は険しい山地として成長する。この時期における中央構造線の活動は新居浜時階あるいは菖蒲谷時階とよばれており、南側の三波川変成岩類の隆起量は一五〇〇m余りに達した。四国山地の隆起量は北ほど大きく、中央構造線に沿って大規模な断層崖が発達した。この石鎚断層崖が第二節で述べた宇摩平野・新居浜平野の南に連なる石鎚山脈・法皇山脈の北斜面にあたっている。また、皿ヶ峰の階段断層や、伊予灘に面した双海町付近の断層海岸もこの時代に形成された(図2-8)。
 中央構造線の活動はその後も継続し、右横ずれの断層運動が顕著にみられるようになる。更新世(二〇〇万年前~一万年前)後期以降、川之江市の南部をほぼ東西に走る池田断層や、伊予三島市から小松町にかけての山麓線とその前面にほぼ東西方向にのびる石鎚断層、寒川断層、畑野断層、東田断層、岡村断層、小松断層などの断層が活動している。これらの第四紀に入って顕著な活動をしている断層は活断層とよばれ、東予地方の山麓線沿いばかりでなく、松山平野南部にも郡中断層や伊予断層が存在している。なお、広義の新居浜時階(菖蒲谷時階)を更に分けて、中央構造線が活動して石鎚山脈の原形が形成された時期を「新居浜時階」、石鎚山脈の原形が出現してから後の堆積層を切る岡村断層や岸ノ下断層の活動時期を「菖蒲谷時階」とよぶこともある(図2-9)。
 四国山地や中国山地の隆起に伴って、鮮新世につくられた準平原は次第に押し上げられ、高い高度に分布するようになる。すでにふれた「山の上の平らな土地」はこのようにしてつくられたのである。

図2-7 鮮新世~更新世(洪積世)の古地理

図2-7 鮮新世~更新世(洪積世)の古地理


図2-8 第四紀における山地の隆起量(m)

図2-8 第四紀における山地の隆起量(m)


図2-9 四国山地における主要活断層の分布

図2-9 四国山地における主要活断層の分布