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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

1 稲作の動向

 稲作の地位

 古来、日本の農業にとって最も重要な作物であった稲は、愛媛県でも最も重要な作物であった。昭和三五年の県内の農業粗生産額をみると、米が三三・九%、果実が二二・六%、畜産が一一・九%で、米が全体の三分の一を占めていた。その後、果樹・畜産業の伸展によって、米の地位は低下するが、それでも五四年の農業粗生産額に占める割合は一九・三%で、果実の三〇・六%、畜産の二六・六%に次いで多い。五五年現在、稲の作付面積は、全耕地面積の三六%(二・五万ha)、稲を栽培している農家数は全農家数の六七%(六・六万戸)に達し、稲は農家と最もかかわりの深い作物であることには変わりがない。
 県内の稲作は、五五年現在作付面積では全国三四位、収穫量でも三四位、水稲一〇アール当たり収量では二三位と、決して高い地位を占めるものではない。しかし、明治・大正年間には篤農家や農事試験場において優良品種が相次いで育成され、米の単位面積当たり収量も全国的に高かった。篤農家の選出した優良品積としては、相徳・栄吾などがあり、農事試験場が人工交配によって育成したものでは伊予旭や松山三井などが有名である。

 稲作の変遷

 県内の稲の栽培面積・収穫量に関する統計は明治一一年(一八七八)以降からある。同年の栽培面積は四・一万ha、収量は六・一万トン、一〇アール当たりの収量は一五一㎏である。栽培面積はその後漸増し、大正四年(一九一五)に四・七万haに達するが、これが戦前の最高である。戦後は昭和三二年の四・二万haが最も多かった。収穫量は、単位面積当たりの収量が増加するにつれて増加し、明治二三年(一八九〇)に一〇万トン、同三七年(一九〇四)一三万トン、昭和八年一七万トンに達したが、これが戦前の最高である。戦後は四二年の一八万トンが最も多かった。明治以降、稲の単位面積当たり収量は着実に増加してはきたが、年による変動がきわめて大きかった。その収量が高位で安定したのは昭和三〇年以降であるといえる。
 昭和三五年以降の稲の栽培面積・収穫量・一〇アール当たりの収量の推移を見ると、三五年の栽培面積四・二万haは四四年まで漸減するが、収量は、単位面積当たりの収量が増加するので、むしろ増加している。四二年の一八万トンは有史以来県内の最高記録となった(図4―6)。

 米の生産調整

 愛媛県の稲作に大きな変動をもたらしたのは、昭和四五年にはじまる米の生産調整と、五三年にはじまる水田利用再編対策である。四二から四四年の三年連続の豊作は、全国的におびただしい過剰米を生み、ここに休耕と転作を内容とする米の生産調整が打ち出される。四五年県内の稲の栽培面積が前年に比べて一気に四〇〇〇haも減少をみたのは、生産調整の結果である。その後四九年までは米の単年度需給の均衡が保たれたが、休耕奨励措置の打切りや生産調整目標の引下げなどのために、全国的に稲の作付面積が増加し、再び米の供給過剰が問題となってきた。五三年にはじまる水田利用再編対策は、この対応策として、稲にかわる転作を推進したものである。五三年以降県内の稲の栽培面積が急減しているのは、この影響である。五六年の稲の栽培面積二・四万haは、三五年の五七・八%にしかすぎない。このように稲作面積が減少した理由としては、三〇年代から四〇年代の前半にかけて、稲よりも生産性の高いみかんを栽培するため水田がみかん園に転換したことにもあるが、最大の理由は、米の生産過剰に対する国の対策であったといえる。

図4-6 愛媛県の稲の栽培面積・収穫量・単位面積当たり収量の推移(昭和35~56年)

図4-6 愛媛県の稲の栽培面積・収穫量・単位面積当たり収量の推移(昭和35~56年)