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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

2 酪農

 酪農業の発展

 牛乳が一般の飲用に供され、その消費量が飛躍的に伸びだしたのは第二次大戦後である。戦前の愛媛県の牛乳は、乳幼児の哺乳用や病人の薬餌用に飲用される程度で、その消費は微々たるものであった。このような状況のもとでは酪農業の成立はむつかしく、明治・大正年間には、松山市・今治市・宇和島市など都市部に数頭の搾乳牛を所有する乳屋があって、特殊な需要に応じる程度であった。明治二〇年(一八八七)頃阪神方面から乳牛が導入され、明治から大正年間に県内の乳用牛の大部分を占めていた中島町では、搾乳した乳を販売するのではなく、受胎した乳牛を分娩一ヵ月から二ヵ月前まで肥育し、それを牛船に積んで阪神地方に出荷したという。それは当時県内に酪農業成立の基盤が整っていなかったことを示すものである。
 県内の主要地域に乳牛が導入されたのは、第二次世界大戦前後である。現在、愛媛県随一の酪農地である野村町へは昭和一九年に静岡県からホルスタイン種が、また肱川流域の大洲市菅田地区と長浜町白滝地区には、ともに昭和十七年に乳牛が導入されている。東予地域の酪農の発祥地である今治市富田地区に河南酪農が設立されたのは昭和二三年である。第次大戦後に牛乳飲用の習慣が広がるにつれて、県内各地に酪農業が盛んとなった。昭和一〇年に三八九頭であった乳用牛数は、二六年には二三四〇頭、三〇年には四二三四頭となり、その二五年後の五五年には三・九倍の一万六四〇〇頭にまで増加する。この間経営規模もしだいに拡大し、三〇年に一戸当たり一・三頭の飼養数であったものが、四〇年には二・四頭、五〇年には七・七頭に、五五年には一三・八頭にと拡大した。五〇から五五年の増加は、石油危機後の飼料と資材の高騰が零細経営者の脱落をもたらし、平均飼養頭数の増加をもたらしたのである。
         
 酪農地域の形成

 県内の主な酪農地域は、野村町・大洲市などを中心とした肱川流域、松山市近郊、今治市から川之江市に至る東予の臨海の平野部等である(図4―17)。このうち最大の酪農地域は肱川流域で、次いで東予地域の沿岸部、松山市近郊となる。昭和五六年の飼養頭数の地域別割合をみると、南予六三・三%、東予一九・六%、中予一六・九%である。このうち、過去二〇年間の発展が最も大きいのは南予で、それは、東・中予が都市化の影響を受けて、畜産公害との関連から酪農発展の余地に乏しいのに対して、南予は都市化の度合が少なく、酪農発展の土地基盤に恵まれていることが大きくあずかっている。また、南予は三〇年に二市一一か町村が南予集約酪農地域に指定され、続いて四一年には酪農近代化市町村に指定された市町村が多かったことも、酪農発展をうながす条件であった。
 
 酪農地域の特性

 一農家当たりの飼養規模を見ると、昭和五六年に東予二〇・八頭、中予二〇・一頭に対して、南予は一二・六頭で、かなり経営規模に格差がある。それは東・中予に専業的な酪農家が多いのに対して、南予には稲作との複合経営で酪農を営むものが多いことによっている。また、中予地域が水田で粗飼料を栽培する水田酪農の型をとっていて、隣接の都市部へ生乳を出荷する近郊酪農として成立したのに対して、南予地域では粗飼料を畑で栽培する畑地酪農で、市場に隣接していなかったので、加工乳地帯として成立したという相違がある。
 このような東・中予と南予の地域的相違は、最近しだいに解消されつつある。その第一の理由は四〇年に愛媛県酪農業協同組合連合会(県酪連)が成立し、四二年事業統合し、県内の牛乳を一元集荷し、多元販売するようになったことによる。県酪連が結成される前の県内の酪農業界は、各地域それぞれに組合があって集荷した牛乳を処理加工し、販売していた。市場に恵まれた東・中予では主として飲用牛乳にして販売し、市場から遠い南予では加工乳が多かった。とくに南予では輸送コストも高かったので、農家の手取り乳価が東・中予に比べて安価であった。しかし、県酪連が一元集荷し、プール乳価制、プール運賃制にし、乳価と運賃を統一したことは、東・中予と南予の格差を解消し、南予の酪農経営の安定に寄与した。
 現在、県酪連の集荷する牛乳は県内の九三%にも達するが、集荷された牛乳の八〇%は、県酪連の集荷した牛乳を処理加工並に、販売するために昭和四三年設立された四国乳業の松山工場などで、また一三%は県酪連の宇和島工場で主として飲用牛乳に処理加工され、これらの大部分は県内で消費される。残りの六%は明治乳業愛媛工場で乳製品に加工され、他の一%は大亀牛乳その他の中小プラントによって飲用牛乳に処理される。このように県内の酪農家の牛乳は県酪連によって大部分が集荷され、そのほとんどが飲用牛乳に加工されるので、南予の加工乳地域としての性格は解消したといえる。      

 野村町の酪農
        
 野村町は「ミルクとシルク」の町といわれ、酪農と養蚕では県内随一の生産量を誇る。昭和五六年の乳用牛飼養戸数は三二四で、県内の二九%を占め、飼養頭数は四〇五〇で、同じく二四%を占める。酪農の盛んな地区は旧野村地区と大野ケ原で、前者が一〇頭程度で稲作との複合経営を主体としているのに対して、後者は二〇から五〇頭規模の農家が多く、県内で最も大規模な集団的酪農地域を形成する。
 旧野村地区に乳牛が導入されたのは昭和一九年であったが、市場に遠いことで牛乳の販売に苦しんだ。二五年に酪農組合の熱心な誘致によって、明治乳業野村工場が設立され、バターと煉乳の生産を開始し、ついで二七年からはチーズの生産に入り、地区の牛乳はこの工場へ加工乳原料として出荷されるようになる。野村地区に刺激されて、大洲市や宇和町・城川町などでも酪農業が盛んになったが、これらの地区も明治乳業の集荷圏として加工乳を生産する。明治乳業は三九年に大洲市若宮に工場を新設し、これまでの野村工場を四三年に閉鎖したが、工場移転後も野村地区の加工乳の生産地としての性格は解消されなかった。野村地区が加工乳の生産地から脱脚したのは、県酪連の結成後である。
 開拓地として有名な大野ヶ原に乳牛が導入されたのは三四年である。大野ヶ原の営農は、開拓当初は雑殼を主とした自給農業、三〇年ころからは高冷な気候を利用して馬鈴薯と大根の栽培が始まるが、酪農に切り替えたのは、開拓組合長の武田寛が大根の連作障害を察知しての処置であった。大野ヶ原は広大な採草地、放牧地に恵まれ、飼料の自給率が高く、また、冷涼な気候は夏季の搾乳量の低下を防止し、酪農の適地といえる。しかし、その最大の隘路は輸送にあった。牛乳は明治乳業の野村工場、のちに大洲工場に出荷するが、輸送コストが高く、乳価は最も低くおさえられた。
 大野ケ原の酪農景観で目をみはるのは原色あざやかな近代的牧舎とサイロの群である。牧舎とサイロの近代化は四九年にはじまる愛媛県農業開発公社の建売り牧場によって建設された。建売り牧場は草地の造成とその付属施設としての牛舎の建設をしたが、造成草地ha当たり八〇万円、四○頭搾乳舎一三〇〇万円で農家に払下げられた。牛舎の施設は最新式で搾乳機とバルッククーラ(牛乳冷却器)を結ぶパイプラインが縦横に走り、ウォータカップや糞尿の自然流下溝なども完備している。規模拡大にともなって施設の近代化は急速に進んだがそれは制度資金などの融資を受けたもので、農家の負債は大きい。五一年では、一農家当たり一〇〇〇から二〇〇〇万円の負債を持っているものが多く、借入金の返還は経営を圧迫する一要因となっている。南予地域の酪農家には補助事業や制度資金の借入れによって施設の近代化をはかっている者が多いが、大野ケ原ではその最先端の姿を見ることができる。

 今治市富田の酪農

 東予地域の酪農の発祥地は今治市南郊の富田地区である。酪農発展の契機は、当時の富田村村長の砂原鶴松の指導のもとに、昭和二三年に河南酪農組合が結成され、牛乳処理場が建設されたことによる。この地区は、今治市場に近く、鉄道便で新居浜方面へも市乳の販売が可能であったことから、初めから都市近郊の飲用牛乳の産地として発展した。
 飼料は水田地帯であったことから、冬季に稲の裏作として牧草を栽培し、夏季は河川の土手や畦畔の野草、稲わらなどが利用された。規模拡大につれて飼料は夏季の水田にもソルゴーやとうもろこしが栽培されるようになった。現在は農用地増進事業などで借用した水田に飼料を栽培しているものが多く、二〇頭程度の飼養農家でも飼料の自給率は七〇%程度と高い者が多い。
 河南酪農は昭和三二年には砥部酪農、三三年に伊予酪農と川之江酪農、さらに三五年には新居浜酪農を合併して、愛媛酪農農業協同組合と改称した。さらに松山市の勝山酪農も合併した。牛乳処理工場としては、今治市・松山市・香川県国分寺町に工場を設立し、東予地域の全域から中予地域の一部と香川県にまで集乳圏を拡大し、県酪連結成時には県内最大の酪農組合にまで発展していた。しかし、発祥地の富田地区では都市化の波に洗われ、五七年にはわずか一一農家が酪農を営むだけとなっている。今治市の近郊住宅が拡がっている田園のなかに点在する酪農家の畜舎は、南予地域の酪農家と比べると、施設の近代化は遅れている。東予地域の酪農家は制度資金の導入による施設の近代化などはあまり行わず、自己資金による堅実な経営をめざしている者が多いが、富田地区の残存酪農家は、その典型的な例である。

表4-8 愛媛県の家畜飼養戸数と頭羽数の推移

表4-8 愛媛県の家畜飼養戸数と頭羽数の推移


図4-17 愛媛県の乳用牛と肉用牛の飼養頭数の分布(昭和55年)

図4-17 愛媛県の乳用牛と肉用牛の飼養頭数の分布(昭和55年)