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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

4 用材生産地域の形成

 林業の成立条件
       
 木材はその重量の割には価格の安い商品なので、用材生産地域は、交通不便な時代には、都市に近接した地域か、河川による流送ができる地域に成立する例が多かった。日本で有名な林業地域である京都府の北山や東京都の青梅などは前者の例で、木曽や吉野は後者の例である。愛媛県で明治年間用材の伐採・搬出の多かった地域として注目されるのは、西条市の加茂川流域と宇和島市の鬼ヶ城山系などであった(表4-14)。ともに西条藩・宇和島藩が林制に意を注いだところで、明治年間には旧藩有林に起源する国有林の美林となっていた。これらの両地域は、加茂川流域が加茂川の流送によって西条に搬出され、鬼ヶ城山系は宇和島から距離にして一〇㎞にも満たず、共に木材の搬出には便利な地域であった。

 加茂川流域
     
 加茂川上流域における明治年間の用材生産の中心は国有林であった。国有林のなかには、もみ・つがなどの巨木が多く、伐採された木材は加茂川の流送によって下流の西条で陸揚げされ、西条・小松・永見などの製材工場で加工された。製材は東予地域一帯の建築用材として利用されるとともに、一部は大阪や高松などへも出荷された。加茂川は急流で木材の搬出には必ずしも恵まれていなかったので、筏流しは行われず、もっぱら管流しであった。それでも激流のなかで岩に当たったり、折れたり、割れたりした材木が多かったので、山中で板や柱などに加工し、製品となったものが、「仲持ち」といわれる担夫によって搬出されるものも多かった。奥地への道路の開通は大正年間で、流送や「仲持ち」は昭和の初期までみられた。国有林以外では住友林業の山林が広く、両者の育林技術は地元住民に大きな刺激を与えた。明治中期以降は地元住民によっても、すぎの植林が盛んに行われ、加茂川林業の名を生むに至った。

 滑床国有林
     
 鬼ヶ城山系の明治年間の用材生産の中心は滑床の国有林であった。山中には、もみ・つがの天然林が多く、明治年間にはその伐採・搬出が盛んであった。滑床渓谷の川は高知県の中村方面へ流れて行くので、木材を宇和島へ流送することは不可能であった。木材は山中で板などに加工され、馬の背によって海抜高度九八〇mの梅ヶ成峠を越え、集散地の宇和島へと運び出された。宇和島に集荷された製品は、その半分が海路大阪方面に出荷された。もみ板は天井板に利用されたものが多く、宇和島地方では天井板はもみと相場がきまっていた。大正から昭和と時代が変わって、道路が整備されるにつれて、宇和島市は木材集散の機能を強め、高知県幡多郡の国有林材や、北宇和郡・東宇和郡などの民有林の木材をも集荷することにたった。すぎ材は大正年間から昭和の戦前にかけて、二階建の蚕室を兼ねた住宅建設に用いられ、まつ材は戦前には北九州の炭田へ坑木として出荷されるものが多かった。

 肱川流域

 肱川流域も明治年間以降用材の生産が多かったところで、これは肱川が筏流しに利用できたからである。
 肱川は水量が豊かで、河床の勾配も緩やかなために川舟の運行や筏流しが盛んに行われたが、その起点はともに野村町の坂石であった。坂石は肱川の本流と支流の舟戸川・宇和川が合流し、第二次大戦前には筏師の集団が三つもあり、ここに管流しや馬車で集まった木材が筏に組まれて三日行程で河口の長浜町へ流送された。川舟で下った代表的な林産物は薪や木炭で、とくにくぬぎの薪はニブ木といわれ、火もちの良い薪として大阪方面で珍重された。川舟は河口の長浜町まで二日の行程であった。支流の小田川も河床の勾配が緩やかで、筏流しが盛んで、その起点は小田町の突合であった。小田深山の国有林の木材も上流の蔵谷・宮原などから管流されたものが、ここで筏に組まれて河口の長浜町まで下った。筏流しは大正年間に道路が発達するにしたがって衰退したが、野村町の坂石からの筏流しの最後は昭和二八年であった。
 肱川流域の木材は杉小丸太と松材に特色があった。河口の長浜町には明治三〇年(一八九七)以降木材問屋が成立し、集荷された木材は機帆船で、広島県・山口県・岡山県・香川県などの瀬戸内海沿岸に出荷され、昭和になると坑木用の松材が北九州の炭田地帯へも盛んに運び出された。昭和の初期には長浜町は県内随一の木材集散地となり、県内では唯一の貯木場があって、製材工業の最も盛んな地区となった。

 久万

 上浮穴郡や銅山川流域は現在では県内の重要な育成林業の地域であるが、明治年間には木材の搬出に不便な地域であった。上浮穴郡の久万町は久万林業の発祥地で、明治初年から先覚者の井部栄範の指導のもとに植林が盛んに行われた。彼は明治五年(一八七二)菅生山大宝寺の住職として紀州(和歌山県)から来住し、還俗後明治一二年に菅生村戸長に就任するや、村民に植林を熱心に奨励した。明治一二年の村会では全戸に一か年二〇〇本宛の植林を決議し、苗木の無い者には苗木を無償貸与し、林野の無い者には村共有林を立木一代限りで貸与するなどして植林の普及につとめた。明治末年から昭和の戦前にかけて、彼に刺激された隣村の篤林家が植林を推進し、ここに杉小丸太生産を特色とする今日の久万林業の基礎が確立した。
 井部栄範が植林事業とともに力を入れたのは三坂峠の国道建設工事であった。四国新道といわれたこの国道の建設が着工をみたのは明治一九年(一八八六)で、翌二〇年には三坂峠が開削され、同二七年に松山市と高知市との間を結ぶことになったが、道路建設の地元側の推進の中心になったのも彼であった。道路開発までは駄馬によって木材は松山市方面に出荷されたが、その量は微々たるものであった。
 道路開通後は馬車によって木材の搬出が容易になり、久万地方の木材の伐採・搬出が盛んになった。明治年間以来昭和の戦前に至るまで、久万地方の木材は郡中(現伊予市)に出荷された。郡中で製材された木材は松山市で消費されるとともに、大阪の消費地問屋と結びついた木材問屋の手によって、素材や製材で海路広島や阪神地方にも盛んに出荷された。久万林業は集散地の郡中を介して、松山や阪神の市場と結合して発展したのである。なお、久万林業の木林が直接松山市に大量に出荷されるようになったのは、昭和三一年に県森連松山原木市場が、三四年に松山原木相互市場がそれぞれ松山市に開設されてからである。

 銅山川流域
      
 銅山川流域の育成林業では住友林業が重要な役割を果たしてきたが、住友林業は元禄四年(一六九一)の別子銅山の開坑にともなう銅山備林にその起源をもっている。すなわち銅の製錬には焼鉱用の薪と、熔鉱用の木炭を大量に必要としたので、銅山備林は、当初は薪と木炭の採取用であった。植林事業が本格的になったのは明治二三年(一八九〇)の銅山川の大水害以降で、それは荒廃した林野の治山を目的としたものであった。銅山川の源流地帯の住友林業の木材は、別子銅山の坑内電車と鉱山搬出索道を利用して新居浜市に運ばれ、その製品は戦前は社内用にだけ利用された。したがって、住友林業は地方の市場と結びついて成立した林業ではなく、木材搬出でも、地元住民の木材輸送ルートの開拓に貢献したというものでもなかった。
 住友林業に刺激されて、銅山川流域の住民の植林活動は明治末年に始まるが、最初は村内自給用であった。銅山川流域の用材生産が盛んになって、植林事業も活発化してきだしたのは大正の中ごろからである。その契機となったのは、大正八年(一九一九)に高知県大川郡に白滝鉱山が開発され、同所より宇摩郡三島町に鉱石運搬用の索道が架設されたことである。この索道は銅山川流域の木材や木炭の三島町への搬出を可能にしたので、銅山川流域の林業がにわかに活発化した。しかし索道による搬出量には限度があったので、木材の多くは山元の移動製材で加工されたものが三島方面に出荷された。そして銅山川流域の素材が三島・川之江方面に本格的に出荷されだしたのは、昭和一一年に堀切峠に車道が通じ、さらに三五年に法皇トンネルが開通してからである。

表4-14 愛媛県の主要林産物

表4-14 愛媛県の主要林産物