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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

4 しいたけの生産

 全国屈指の産地

 きのこ類・樹実類・樹脂類・木炭・薪などは林野のなかで生産・採取されるもので特用林産物とよばれている。愛媛県は昭和三五年ごろまでは、大阪市場向けの木炭産地として重要であったが、燃料革命後は木炭が衰退し、これに代わってしいたけが重要な産物となってきた。
 しいたけは国民の食生活の多様化や自然食品・健康食品についての関心の高まりを反映して、全国的に需要が拡大してきた。県内のしいたけ生産量は、三八年には乾しいたけ一六九トン、生しいたけ七一トンであったが、五五年には乾しいたけが一二八三トン、生しいだけ一一七六トンとなり、生産量は著しい増加をみせた。五五年現在、生しいたけは全国生産の一・五%を占めるに過ぎず、その地位は低いが、乾しいたけの生産量は全国の一〇・三%を占め、大分県・宮崎県に次ぐ生産量を誇る。

 しいたけの主産地

 生しいたけは乾燥すると、その重量が五分の一程度に減少するので、生しいたけの生産を乾しいたけに換算して、乾しいたけと生しいたけの生産量をみると、県内の生産比率は乾しいたけ八四・五%、生しいたけ一五・五%で、乾しいたけの量が圧倒的に多い。県内のしいたけの産地は大洲市・喜多郡などの肱川流域が主で、五五年のしいたけ生産量の四三%は大洲市と、喜多郡で生産されている(図4―32)。このほか小田町・中山町・広田村・野村町・城川町など肱川流域の市町村を含める、県内に占める生産量は七二・三%にも達する。これに次ぐ主産地は広見川上流域の北宇和郡の山間部、上浮穴郡、玉川町・朝倉村などの今治市近郊の山村である。このうち、玉川町・朝倉村は生しいだけの生産が多く、他は乾しいたけの生産を主としている。      

 肱川流域

 肱川流域にしいたけの生産が盛んとなった最大の理由は、ここがかつてくぬぎ切炭の産地で、しいたけのほだ木として最良のくぬぎ原木が豊富にあったことによる。木炭の生産が衰退するにつれて、この原木がしいたけのほだ木に転用されていった。このように木炭生産の衰退としいたけの生産拡大は軌を一にしたものである。
 大洲市の柳沢地区はくぬぎの切炭生産の中心地で、しいたけ生産は製炭業が衰退した四〇年ころから盛んになった。四一年にこの地区に三名の大分県のしいたけ生産者が入村し、生産に刺激を与えた。大分県は現在でも全国一のしいたけ生産県で、技術的にも優れている。肱川流域のしいたけ栽培は大分県の生産者によって導入された例が多い。「豊後のナバ師」といわれた彼らはくぬぎの原木を求めて入村し、地元の労働者を雇い、企業的にしいたけ栽培をしていた。肱川上流の城川町や隣接の日吉村などでは、すでに大正初期に「豊後のナバ師」が進出してきている。
 肱川流域のしいたけ栽培は、ほだ木に主としてくぬぎを使用し、露地栽培によって春と秋に収穫する。農家は自山または他山に原木を求め、栗や稲作などの農業、あるいは育林などとの複合経営の一環としてしいたけを栽培している。自山に依存した大規模な生産者のなかには、自山のくぬぎ林に輪伐体制を確立し、毎年計画的に原木を調達している。収穫したしいたけは、乾しいたけにして、森林組合の手をへて大阪市場に出荷されるものが多い。    

 玉川町

 玉川町は昭和五五年に生しいたけの生産量二〇七トンで、県内一の生しいたけ産地である。しいたけ栽培の歴史は新しく、企業的な栽培は三六年に始まった。以後、製炭業の不振とともに、くぬぎ原木の転用としてしいたけ栽培が盛んになる。この地区は今治市場を控えた位置的に有利な条件を生かして、最初から生しいたけ栽培地として発展した。生産の拡大にっれて、出荷先は大阪市場に向かうが、ここでも今治港から大阪市場に船便で容易に輸送できた利点が生かされている。
 玉川地区の栽培法の特色は、ハウスによる不時栽培が盛んなことである。植菌した翌年の秋、自然ばえの秋こをナイロンやトタンでおおい、雨を与えないことによって発生を抑制し、一一月から二月にかけてハウスに移し、そのなかで発生させる。三年目のほだ木からは自然発生にもどし、秋こと春こを採取し、五年から六年で廃木にする。農家は自然栽培と不時栽培の両方でしいたけを栽培する。しいたけ専業農家はなく、稲作・夏秋きゅうりとの複合経営が多い。また生産量の九〇%は農協による共同出荷で、大部分は大阪市場に出荷される。

図4-32 愛媛県のしいたけの生産量-乾しいたけに換算-(昭和55年)

図4-32 愛媛県のしいたけの生産量-乾しいたけに換算-(昭和55年)