データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

2 瀬戸内海区

 宇摩沿岸地域

 この地域は藩政時代からイワシ網漁業が盛んであった。煎ナマコが幕府の命令によって採取加工されていた。
 海外出漁として、明治二〇年(一八八七)から宇摩郡二名村(現川之江市)漁民が、三二年(一八九九)ごろから同川之江町の漁民により、朝鮮近海や清国大連付近への通漁がみられた。二名漁民の出漁は島根・佐渡とともに草分けである。漁場は東シナ海で主にタイ網延縄により、春から秋に出かげ大正末ごろまで続けられた。昭和二七年ごろは三島二統、寒川三統のタイ縛網があった。
 この海域の潮流は香川県伊吹島を中心に還流しており、砂泥質遠浅海岸で、海底に生息するエビ類と伊吹島周辺にイワシなどの好漁場がある。
 昭和五三年の漁業センサス結果からその概況を記してみよう。
 漁業経営体数は川之江市一二八、伊予三島市八八、土居町八二と川之江市が多い。動力漁船では川之江市一六六、伊予三島市一二五、土居町三〇である。最盛期の海上作業従事者数は川之江市二八五、伊予三島市二二二、土居町二〇五とあまり大差はない。一経営体平均漁獲金額(万円)は川之江市四四七、伊予三島市八三四、土居町三二三で伊予三島市の八三四万円が上位にある。
 漁業種類では小型底びき網川之江市九七、伊予三島市三六、土居町二である。刺し網川之江市一一、伊予三島市一五、土居町一一である。伊吹島周辺のイワシパッチ網では川之江市一〇、伊予三島市六、土居町○となっている。現在も良質のイリコが生産されている。このイワシ網は地曳網、ひょうたん曳(無動力船曳網)、和船揚繰網、パッチ網へと発展したものである(図4―39)。
 ノリ養殖は川之江市二、伊予三島市六、土居町五九であるが、大型製紙工場による埋立がなければ川之江・伊予三島両市にも多くみられたはずである。漁港としては第二種が川之江、第一種に二名(川之江市)、豊岡(伊予三島市)、長津・蕪崎・天満(土居町)
がある。
 魚類別漁獲量(昭和五〇年)の第一位魚種は川之江・伊予三島両市がイワシ、土居町がヒラメ・カレイ類となっている。
 この地域では海水汚濁のもとであるヘドロ対策により浄化が進められ、藻場の回復が期待されるところである。

 周桑・新居沿岸地域

 遠浅海岸のため、砂泥質海底に生息するエビ類を漁獲する小型底曳網漁業及び採貝漁業・固定刻網漁業が発達している。
 東予の沿岸地域ではノリ養殖が盛んである。この地方のノリ養殖の歴史は江戸時代にまでさかのぼることができる。本格化するのは昭和三一年以降であり、それまでは地元農村の副業的経営であった。
 昭和五三年の漁業センサスでこの地域の漁業を概観する。
 漁業経営体数は新居浜市四五〇、西条市五一三、東予市二四三で西条市が上位にある。動力漁船では新居浜市三六五、西条市二一六、東子市一六六と新居浜市が断然多い。最盛期の海上作業従事者数は新居浜市六八一、西条市九九九、東予市五三七となっている。西条市が多いのはノリ養殖によるものである。一経営体平均漁獲金額(万円)では新居浜市二一九、西条市四五一、東予市三六九であり、新居浜市の二一九万円は零細経営となっている。
 ノリ養殖は新居浜市八二、西条市三一四、東予市一〇七と西条市が中心である。ノリ養殖の方法は、ひび建式から二㎞から四kmもの仲合にノリ網を浮かべる浮き流し式が主流となっている。東予新産業都市による工場用地の埋立、工場廃液で漁場は荒廃しつつある。
 漁業種類では、小型底びき網が新居浜市一三一、西条市一七、東予市八七となっている。刺し網は新居浜市一一一、西条市一〇八、東予市九である。
 昭和五〇年の海面漁獲統計調査による魚種別漁獲量では新居浜市のヒラメ・カレイ類、西条市のボラ、東予市のヒラメ・カレイが第一位を占めている。
 漁港としては新居浜市大島と東予市河原津が第二種、新居浜市の垣生・沢津が第一種に指定されている。西条市には漁港の指定はない。
 ノリ養殖業は近年燃油、加工機械をはじめとする諸資材の高騰による収益性の低下と、全国的な生産過剰による価格の低迷などから、昭和四八年度を境に経営体、生産量ともに減少している。

 今治・越智沿岸地域

 来島海峡を中心としてタイ・スズキなどの高級魚を対象とする一本釣漁業が卓越している。今治市の小島には岩戸漁業と呼ばれる″たき寄せ漁法″がある。暗夜の潮流に棹してかがり火で魚を寄せ、これを手網ですくいとるもので観光資源としても大切である。この島は釣漁村としても知られている。
 波方町小部は古くからの漁村で、今治付近から西は、松山市の興居島や中島町付近まで広大な海面の用益権が認められ、その上、朝鮮出兵に大功のあった故をもって浦役、夫米を永代差免されてい江戸時代には、小部の菊川長五郎なる者が松山藩二九か村浦の煎海鼠買集を請負っていた。
 広島の能地漁民の定着した菊間町の漁村などの例がある。
 昭和三八年に瀬戸内海栽培漁業協会伯方事業所が開設されている。
 昭和五三年の漁業センサスでこの海域の概況をみたい。
 漁業経営体数で今治市四九五、波方町一一七、大西町五三、菊間町五三となっており今治市の漁家が多い。動力漁船では今治市五一一、波方町一二八、大西町二〇、菊間町七一である。最盛期の海上作業従事者数は今治市七三〇、波方町二二六、大西町六五、菊間町九三である。一経営体平均漁獲金額(万円)は今治市四八三、波方町一九〇、大西町八八、菊間町二四九で大西町の八八万円が零細漁家となっている。
 漁業種類では、小型底びき網今治市二〇三、波方町四一、大西町一七、菊間町一七になっている。今治市が中心である。刺し網が今治市三〇、波方町三六、大西町一二、菊間町一〇で波方町に多い。釣りは今治市二一八、波方町一八、大西町三三、菊間町一〇と来島海峡を中心に釣漁村が卓越している。はえなわ(延縄)も今治市に一六、波方町に五がみられる。
 昭和五〇年の海面漁獲統計調査より、魚類別漁獲量の多いのは、ヒラメ・カレイ類が今治市・波方町・大西町、イワシ類が菊間町となっている。
 漁港としては第二種が今治市大浜、波方町小部であり、第一種は桜井・小島・馬島・来島(今治市)、波方(波方町)、亀岡・田の尻(菊間町)である。大西町には漁港の指定はない。

 越智諸島沿岸地域

 越智諸島の漁村には、漂海民の定着化による漁村、成立起源の不明瞭な漁村でも、漂海民の系統と考えられる漁村成立が多い。土地を持たぬ純漁民=純漁村の存在が一般的である。昔は漁村と農村、という社会的対立や緊張が顕著であった。
 漁民の漁業経営は一本釣・延縄・小型底びき網などの零細経営が多く、生鮮魚を対象とすることから小商品生産漁民の性格が強い。
 燧灘海域は魚島を中心とするタイの漁場として早くから知られ、マニュファクチュア的な漁業としてのタイ網が発達した。しかし縛網漁法への大型化も、やがて漁船漁業の発達とともに、五智網・桝網などに小型化、零細化していった。
 藩政時代にはタイの加工に対して藩の保護、統制も強かった。
 岩城村の浜部落から集団的に移住している所は、興居島の鷲ケ巣をはじめ船越・北浦・馬磯・中島の大泊、北条市浅海の原、三津の古深里などである。大三島にも漁師は少なく、宮浦の漁師は広島県の幸崎及び吉和出身だといわれている。また岡村の碇漁場は同じく沖浦の釣漁民によって開発された網代である。
 明治一三年(一八八〇)ごろから広島漁民が燧灘、斎灘に侵入、紛争の結果、一定数の入漁船を許可することで、明治四〇年(一九〇七)協定書に調印がなされた。
 昭和五三年の漁業センサスから越智諸島の漁業を概観してみる。
 漁業経営体数は魚島村七〇、弓削町七五、伯方町五一、生名村一〇、岩城村四五、上浦町五〇、大三島町三七、宮窪町二五二、吉海町七五、関前村八八である。宮窪町の二五二が中心である。
 動力漁船数では魚島村一〇一、弓削町八〇、伯方町五五、生名村九、岩城村四八、上浦町三四、大三島町三六、宮窪町三〇九、吉海町八〇、関前村九四となっている。
 最盛期の海上作業従事者数においては、魚島村一七四、弓削町一九二、伯方町一三四、生名村三〇、岩城村八八、大三島町一四七、宮窪町六一九、吉海町一一四、関前村二一○とこれも宮窪町の六一九人が最高である。
 一経営体平均漁獲金額(万円)では魚島村三五四、弓削町五四四、伯方町三八四、生名村三〇一、岩城村ニ一二、上浦町一七三、大三島町二〇八四、宮窪町五四四、吉海町三六六、関前村二〇一と大三島町の二〇八四万円が高漁獲金額をあげている。これはノリ養殖が軌道に乗りはじめたためである。宮窪町では瀬戸貝収入が大きい。関前村の釣り、魚島村の小型底びき網、吉海町の釣り、伯方町のクルマエビ養殖などに特色がある(図4―40)。

 松山・北条沿岸地域

 広島県の能地漁民の定着化したところとして、この地域では和気浜、高浜、興居島、柳原などがあり“浮鯛抄”なる巻き物を漁業慣行平生活権のよりどころとしている。土地では「浮きタイ系図」とよんでいる。内容は能地の浮きタイにからんだものであり、その主旨は次のようなものである。
 神功皇后が三韓征伐の途次、能地に立寄った。この時に多くのタイが御船の傍に集まったので、皇后は酒をそそいだ。するとタイが酔って浮いたのでそれをすくって献上した。その功績により皇后は能地浦の漁民にたいして、海はどこまで行って魚をとってもよいと許された。これにはじまりここへ立寄った貴人への浮きタイ献上の歴史や、貴人とこの浦との交渉が記されているものである。
 岩城漁民が三津浜・高浜・興居島・浅海・安居島などへ移住ないし寄留している。能地漁民と岩城漁民の関係は詳かでないが、能地漁民が岩城島へ移住していることから二次的な発展と考えられる。
 明治二〇年(一八八七)ごろから朝鮮出漁の気運が高まり、安居遠海出漁組合明治三九年(一九〇六)九月創立、団員二二名。新浜遠洋出漁組合が明治四〇年(一九〇七)九月創立、団員一八名がそれぞれ出漁し、大正中期まで続けられた。「活魚」の運搬に従事していた者は本格的な船舶運送業に転じた者が多かった。
 昭和二七年(一九五ニ)ごろ、北条にタイ縛網が二統あった。
 昭和五三年の漁業センサスでこの地域の漁業を概観してみる。
 漁業経営体数は松山市四三〇、北条市一一七で漁業集落としては松山市の興居島・和気・堀江・三津・高浜・今出と北条市の浅海・北条・安居島などである。
 動力漁船数は松山市四〇九、北条市一二七である。最盛期の海上作業従事者数は松山市七二二、北条市二一二である。
一経営体平均漁獲金額(万円)は松山市一九五、北条市三五三で北条市の方が漁獲金額が大きい。
 漁業種類では小型底びき網が松山市一〇九、北条市二一である。刺し網は松山市四二、北条市八である。釣り漁業従事者が多く、松山市で一七二、北条市六〇となっている。これは潮流の速い高浜瀬戸や釣島海峡に面しているためである。漁港としては第一種のみで松山市の堀江・高浜・泊・御手洗・釣島・鷲ヶ巣・北浦・馬磯、北条市の浅海・大浦・柳原・磯河内・小川がある。
 三津の魚市(朝市)は元和五年(一六一九)以来、松山藩の特別の保護を受けて発達してきた。明治一三年(一八八〇)から会社組織となり、昭和三年に三津浜町営となった。昭和五六年九月には松山市三津ふ頭に新しく建設された。総工費約三九億円、入場業者は卸売二社、仲卸一七社、買参人二八五人、買出人一九一人である(写真4―5)。

 忽那諸島沿岸地域

 津和地・二神などでは漁家率が高く、漁師が多い。昔は漁獲物としてイワシが多く、由利島をはじめ好漁場に恵まれていた。また津和地付近では、沢山の針をつけてイワシを釣る漁法や、春期には鵜攻めと称する鵜(あび)を利用してイカナゴをすくう漁法も行われていたが、今はアビも減りその漁法も全く姿を消してしまった。
 中島町は津和地島、怒和島、中島、睦月島、野忽那島、二神島からなっている。松山市の興居島を入れて忽那七島と呼ばれている。この島々にはさまれた海域は潮流が早く、海底も起伏に富みマダイの好漁場を形成しており、ローラ五智網及びマダイ専門の漁業が盛んに行われ県下有数の漁場である。
 二神島の島民の大部分は、イワシ漁業期に八〇日間由利島へ移住して漁をしていた。漁期は七月末から一〇月初めまであった。四〇〇人から五〇○人の人々が食糧や薪をもち家族連れで渡っていたが、昭和三八年からとりやめられた。
 タコの養殖業は、昭和二四年に二神漁協で創業されたのにはじまるといわれる。
 由利島は、明治年間に高浜と二神とで奪い合いをしたことがあり、結果は高浜も入漁させることにして二神の所属となった。
 中島粟井の大泊は純漁村である。明治七年(一八七四)ごろ岩城村の浜部落から移住してきたといわれている。夏はイワシ網(二統)、冬は打瀬網を操業していた。昭和四八年から二神島地先に藻場(五八・五万㎡)の保護水面が設置され、マダイ幼・稚魚の放流が実施されている。
 昭和五三年の漁業センサスで中島町の漁業を概観してみたい。
 漁業経営体数は野忽那五〇、睦月三三、中島(神浦・西中島を含む)二一九、二神一〇一、怒和一〇四、津和地九四、計六〇一である。動力漁船は五一四、最盛期の海上作業従事者数一〇九三、一経営体平均漁獲金額一四一万円である。
 漁業種類は野忽那島の釣り・刺し網、睦月島の刺し網、中島の釣り・刺し網・採草、二神島の採草・刺し網・釣り、怒和島の延縄・採草・釣り、津和地島の釣り・船びき網・刺し網にそれぞれ特色をもっている。昭和五〇年の海面漁業漁獲統計調査による魚類別漁獲量第一位は高級魚のタイであった。
 漁港としては全部第一種で、野忽那、睦月、長師、神浦、饒、上怒和、元怒和、津和地、二神、由利である(写真4―6)。

 長浜・伊予沿岸地域

 この地域は伊予灘断層海岸という地形的な条件に規制されている・直線状の海岸線は漁港の発達を阻害し、双海町などでは漁船を陸揚げせねばならなかった。近世以降この地域にもイワシ網漁業が起こっているがそれは地曳・船曳網漁業であり、明治以降も存続してきた。近年の慢性的なイワシ離陸現象から、待ってとる地曳・船曳網に依存していた漁村ではそのほとんどが休廃業してしまった。双海町上灘のみはイワシ巾着網を採用し漁場を沖合に拡大、イワシ網漁業を存続させている。
 伊予灘沿岸漁村の水産物の流通過程は三津浜市場、長浜市場を中心とする地域が多い。これは消費市場である松山及び背後の農村地帯に隣接しているためで、早くから松前のオタタ、双海町上灘・下灘、長浜町の漁民の婦女子による直接鮮魚行商が発達してきた。長浜には魚問屋、仲介人が多く存在している。伊予市の削りぶし、松前の珍味、上灘の煮干加工などの特殊産業を発達させた。
 昭和二七年ごろ長浜二統、松前二統、郡中一統、青島一統のタイ縛網があった。
 昭和五三年の漁業センサスから当地域の漁業の概観をしてみたい。
 漁業経営体数は松前町三七、伊予市四六、双海町一七六、長浜町二七三と西に進むほど多い。動力漁船では松前町三五、伊予市六〇、双海町一九四、長浜町二四六となっている。
 最盛期の海上作業従事者数は松前町七四、伊予市一三八、双海町四六九、長浜町四四六と双海町が多い。一経営体平均漁獲金額(万円)では松前町二七九、伊予市六四六、双海町七一七、長浜町一一三で長浜町に零細漁家が集中している。
 漁業種類においては松前町の小型底びき網、伊予市の小型底びき網・刺し網、双海町の小型底びき網・刺し網、長浜町の小型底びき網・釣り・はえなわ・刺し網などがある(写真4―7)。
 昭和五〇年の海面漁業漁獲統計調査の魚類別漁獲量第一位は、松前町・伊予市・双海町でイワシ類、長浜町でヒラメ・カレイ類となっている。
 漁港としては第二種漁港が、双海町の上灘・下灘、長浜町の櫛生である。森(伊予市)、高野川(双海町)、青島・喜多灘・肱川口・須沢・出海(長浜町)は一種漁港である。

 佐田岬沿岸地域

 三崎半島の岬端地域に進むにしたがって採貝、採藻漁業が多くなる。特に三崎は愛媛県における唯一の海士漁業地である。明治一四年(一八八一)に西宇和郡三崎村(現三崎町)串の岡崎孫太郎ら海士が朝鮮へ出漁したのを初めとして、三崎信用組合明治三八年(一九〇五)六月創立、団員五一名、神松名(現三崎町)信用組合明治三九年(一九〇六)九月創立、団員四八名、三机(現瀬戸町)出漁組合同年八方創立、団員三〇名、川之石(現保内町)遠海出漁組合同年七月創立、団員二〇名と海外出漁の盛んな地域である。
 伊方町の豊ノ浦は明治初年から打瀬網で知られていた。昭和二七年ごろ三机に二統のタイ縛網があった。岩石海岸である宇和海には大敷網が数か所にあった。三崎町の串・与侈・正野には海士が一〇〇人から一二〇人おり、岬端でアワビ・サザエを潜って採取している。昭和四三年、佐田岬燈台下に磯物蓄養池(三〇〇〇㎡)が完成し出荷の調整ができるようになった(写真4―8)。宇和海の北部では集魚灯を照し四ツ張網でイワシを獲っていた。昭和三〇年ごろにほとんど休廃業した。
 昭和五三年の漁業センサスから、岬端地域の漁業を概観してみる。
 漁業経営体数は保内町九〇、伊方町二五〇、瀬戸町一六ニ、三崎町四一一と三崎町が群を抜いている。動力漁船数では保内町九四、伊方町二〇五、瀬戸町一四二、三崎町三〇七である。最盛期の海上作業従事者数は保内町一五八、伊方町四九六、瀬戸町二七七、三崎町五七一となっている。一経営体平均漁獲金額(万円)は保内町一八九、伊方町二一七、瀬戸町一〇〇、三崎町二九五である。漁業種類では保内町の刺し網・釣り・採貝、伊方町の釣り・刺し網・小型底びき網・採貝、瀬戸町の釣り・刺し網・採藻三崎町の釣り・採貝・刺し網・採藻などにその特色がみられる(図4―41)。
 この地域は伊予灘と宇和海の両海域にまたがる漸移地帯である。伊予灘側では採貝、採藻が多く、宇和海側では小型底びき網・刺し網などにその特徴が伺える。
 昭和五〇年海面漁業漁獲統計調査による魚類別漁獲量の第一位は、保内町でサワラ、伊方町・瀬戸町でイワシ類、三崎町で高級魚のブリとなっている。
 漁港としては佐田岬の四種避難港、二種の豊ノ浦、他は全部一種漁港である。豊予海峡は潮流の速いことで知られている。磯物申ブリの好漁場であるが、海難事故も多い。

図4-39 燧灘東部の漁協所在地とパッチ網創業区(昭和55年)(門田原図)

図4-39 燧灘東部の漁協所在地とパッチ網創業区(昭和55年)(門田原図)


図4-40 関前村岡村島の漁業暦(昭和57年)(門田原図)

図4-40 関前村岡村島の漁業暦(昭和57年)(門田原図)


図4-41 三崎町の漁業暦(昭和46年)

図4-41 三崎町の漁業暦(昭和46年)