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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

1 予州塩業のおこり

 予州塩業
    
 古来瀬戸内海において有数の製塩地として知られていたのは、東寺の荘園弓削島である。久安六年(一一五〇)のころに貢塩一二〇籠が弓削島から上納されている。文治五年(一一八九)に三七三籠であったものが、延応元年(一二三九)一九〇石と著しく増加している。鎌倉時代の弓削の塩浜には既に人工が施されており、堤防を作った揚浜になっていた。それでもまだ一戸当たり一五〇歩(約〇・五アール)から二〇〇歩(約○・七アール)程度のもので、家族労働に加え牛を使用した。
 佐島・生名・岩城も弓削にならって塩を製したが、これは山城国(京都)石清水神社への年貢塩であった。また大島では山城国の醍醐寺へ年貢塩を納めていた。

 塩業の発達

 江戸時代における製塩法は入浜塩田であった。入浜塩田の基礎は中世末期から江戸時代初頭にきずかれたものと想定される。海浜に臨む諸大名は塩田構築に注目し、塩の自給自足ないし販売による財政収入の増大を意図し、製塩業の保護育成に力を注いだ。
 濃縮海水の獲得方法には大別して、揚浜塩田と入浜塩田とがあった。製塩技術の発展方向としては揚浜塩田より入浜塩田へと進展した。
 入浜塩田の開発は巨大な土木工事を前提としてはじめて可能であり、元禄(一六八八~一七〇三)期以降に急速な展開がみられた。さらに入浜塩田による製塩に欠かせない地形・海浜の状態・天候事情などから瀬戸内海沿岸が有利であった。その大部分は十州(播磨・備後・備中・備前・安芸・周防・長門・阿波・讃岐・伊予)地方で製造され品質も秀れていた。
 文化年間(一八〇四~一七)の全国製塩高は五〇〇万石で、その九〇%に当たる四五〇万石は瀬戸内海沿岸の十州塩田のものといわれる。