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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

4 窯業原料鉱物

 県内の鉱床

 愛媛県内で産出する窯業原料鉱物には、珪石・陶石・橄攬岩および蛇紋岩・滑石・石灰石・ドロマイト・珪灰石などがある。橄攬岩および蛇紋岩はあわせて超塩基性岩とよばれ、その利用は鋳物用造形砂、耐火材、均熱炉炉床材、高炉製銑浴材、岩綿板、岩綿フェルトなど多方面におよんでいる。県内の橄攬岩の産地は、土居町から別子山村にかけての山嶺を占める赤石山脈東部で、わが国最大の規模をもっており、その一部は赤石鉱山で採掘されている。
 滑石は、その鉱石は良質なものは白色で、用途は純粋なものは窯業原料となり、高周波絶縁体も作られ、磁器素地や釉薬などにも用いられる。しかし、国内産のものは鉄分など不純物を多量に含み、淡青緑色・灰色・淡褐色などを呈し利用面も制限され、製紙用・農薬などの混和剤・充てん剤・化粧品・玩具(石筆)などに使用されている。愛媛県では川之江市の法皇鉱床、伊予三島市の藤原鉱床、土居町の宇野鉱床、新居浜市の船木・別子鉱床、西条市の黒瀬・荒川鉱床などに滑石鉱床がみられる。
 珪灰石は陶磁器原料として利用され、焼成温度の低下や焼成時間の短縮、焼成収縮の減少、機械的強度の増加等の利点があるため、陶磁器業界ことにタイル業界に注目されている。熱変成作用をうけた石灰岩中に産出し、関前村の小大下島の岡村鉱山は四国唯一の産出地であった。

 陶石

 陶石とは岩石・鉱物学上の名称ではなく、いわゆる商品名で、従来から陶石と称せられているものは「単味焼成によって磁器化しうるもの」をさしている。陶石は、鉱物学的にみれば、石英を主とし、絹雲母および粘土鉱物を伴った白色緻密な岩石である。四国では香川県と愛媛県に陶石鉱床がある。県内には多くの鉱床があって砥部町川登・万年・扇谷・弘法師、広田村上尾・満穂、中山町佐礼谷、双海町高野川、伊予市鵜ノ崎・障子山、松山市久谷町三坂・中島町・三間町・城辺町僧都などが知られている(図5-6)。そのうち砥部町および広田村のものは、一般に耐火度も高く、量的にもまとまっていて、それは粗面岩質安山岩の陶石化したもので、県内の陶石資源として最も重要なものである。
 広田村玉谷の上尾峠にある共立窯業伊予鉱業所は、昭和二二年に開発され、三六年には名古屋市の共立窯業株式会社によって再開され現在に至っている。三六年から五一年の間の生産量は約四万トンで、そのうち約九割は愛知県へ出荷している。露天掘・階段採掘をしており、二〇人の従業員がいる。採掘・選鉱場は上尾峠にあり見学も容易である。広田村玉谷にある四国陶石鉱業所は昭和二九年に開発された。一時休止ののち三五年に再開をみた。三六年から五一年の間の生産量は二・七万トンで主に岐阜県多治見方面に出荷した。このほかこれまでに五〇〇〇トン以上の生産実績をもつ鉱山には砥部町川登・扇谷・万年におよぶ砥部陶石、広田村満穂の満穂陶石などがある。

 石灰石

 四国地方の石灰岩は、広範囲にわたって分布しているが、そのうち最も重要なものは地質のうえで秩父帯といわれるところで、これについで結晶片岩帯の三波川南縁帯が多い。四万十帯・内帯の分布はきわめてわずかである。四国通産局鉱山部では、昭和三五年末にこれらの石灰岩の埋蔵鉱量を集計したが、これによると、四国全体の埋蔵鉱量は約七三億トンで、そのうち可採鉱量は約四二億トンとされ、ほとんどが秩父帯のものである(図5-7)。
 昭和四七年の四国の県別生産は、高知県が最も多くて一一九四万トン(九〇%)、ついで愛媛県八五万トン(六%)、徳島県が四四万トン(三%)であったが、香川県は皆無である。愛媛県の秩父帯の石灰石鉱床で四七年現在で稼行対象の鉱床は、埋蔵鉱量一〇〇〇万トン、可採鉱量九〇〇万トンといわれる宇和島湾北岸を中心とする地区と、そのほかに内帯にある越智郡の小大下島(関前村)・大三島・弓削島の三つの島で、その埋蔵鉱量は約六〇〇万トン、可採鉱量では約四〇〇万トンといわれる。
 越智郡関前村小大下島にあった井村石灰石鉱山は、明治三一年(一八九八)に採掘を開始したもので、当時は石灰・築石用などに供給していた。その後大正六年ころからセメント用に供給するようになり、ついで、昭和七年に電力および機械設備を完備して生産能力をあげ、一三年ころまでは年産五万から六万トンであった。しかし、一四年以降は生産の減少をみ、戦後は、二六年に石灰石が法定鉱物に追加されたことから二九年六月に鉱業権を設定し、主としてセメント用に採掘され、一部をガラス用と自家用タンカル用に向け出荷した。二一年から五一年の間の生産量は三八万トンであった。
 同じく小大下鉱山は、明治二一年(一八八七)に村上源蔵により開鉱された。当時は石灰窯による消石灰・生石灰の製造に終始していた。その後幾多の変遷を経て、昭和七年に大阪窯業セメントによって操業されるようになり、その後設備も充実し、採掘もすべて機械掘を実施し、月産二万トンの実績をあげていた。戦後は二一年、二九年と再開され四七年まで稼行した。この間の生産量は一五二万トンであった。
 同じく本村上鉱山は、明治初期に村上通重により開発された。当時はおもに石灰製造であったが、漸次用途も広がり、特に四阪島製錬所に多量に送ったほか、セメント原料として出荷をみるにおよんで生産量も急増した。昭和八年には日東セメントと売鉱契約を結び、一五年からはその直営となった。二一年から五一年の間の生産量は九九万トンであった。戦前の最盛期は大正時代から昭和初期で、このころには朝鮮半島出身の人も一〇〇人くらい働いていた。戦後の最盛期は三〇年ころで、今治や木之江の商人が出張販売に訪れたほどであった。しかし、五二年八月に休山し今日に至っている。このほか小大下島には、明治二〇年(一八八七)ころ開坑の水の元鉱山があり、昭和四五年三月まで稼行した。また、関前村大下島には大正六年に開坑した大下鉱山があったが、昭和四三年休山した。
 弓削町には弓削島石灰鉱山と森久石灰があった。また、大三島町には明日に大三島鉱山があり、現在も稼行中で、おもにタンカル(石粉)用として供給している。
 東宇和郡明浜町の宇和島湾に面する海岸地帯の鉱床群は、仏像構造線の北側に接し、十数鉱山あったが、ほとんどが月産五〇〇トン程度までで、白滝・小僧津共同・高山石灰・窓磯・小網代共同・公受・都屋・藤井繁一・白滝共同・藤井長浦・高山・山本・二宮・小僧津・水の元などの諸鉱山であった。昭和四四年現在で生産実績をあげたのは高山・水の元・藤井繁一・公受・窓磯・小網代共同であった。これらのうち高山鉱山は、月産四・五万トンの生産高を示し、当時県下最大の鉱山であった。
 明浜町の石灰石は、当地域の石灰焼成用原石として開発された。したがって、石灰業の消長とともに採掘の状況も変遷した。当初土佐方面から石灰焼成技術をとり入れたものといわれ、文政一一年(一八二九)高山村の源右衛門が村内の岩井部落の石灰原石山に小型の窯を築き、薪・木炭などを燃料として焼き始めた。その後、宇都宮義一工場の創始者が宇和島藩の免許を受けて石灰製造をはじめ、明治維新後は、全村あげて営業権を獲得し、明治・大正の好景気時代には大小四〇工場を有し、窯数七〇基、従業員一〇〇〇人におよび、年産三・五万トンに達して各方面に出荷した。しかし、大正末期より人造肥料の影響で生産も低下し、一部建築用に品質改善を図ったが、合理化のおくれと鉱量枯渇のためほとんどが休止した。

 ドロマイト

 ドロマイトは原石のままで、あるいは粉砕して製鋼用耐火材・鉱滓調整・ガラス・陶磁器・土建・苦土カルシウム肥料用などに使用される。わが国のドロマイトの採掘は、江戸時代から始められたといわれるが、それは普通の石材として使用されたもので、本来の性質を目的として採掘されたものは大正時代に入ってからである。四国のドロマイト生産は、昭和四七年現在、年産約八万トンでその多くが果樹園の苦土肥料に、一部が製鋼用に出荷されている(図5-8)。
 野村町野村にある宇和ドロマイト鉱山は、昭和二八年に開発された。当初は肥料用として生産を開始したが、三四年からは鉄鋼用としての生産も始まった。三四年から四四年の間の生産量は一四・五万トンであった。五七年三月現在も従業員一七人で稼行中である。現在は耐火レンガ炉用七割、苦土石灰用三割で、前者はトラックにて明浜町俵津港へ運び、新日鉄八幡・大分へ海上輸送している(写真5-4)。このほか、八幡浜市の予州ドロマイト鉱山や城川町の田之野鉱山・黒瀬川鉱山などが知られている。

図5-6 愛媛県の陶石鉱床(桧垣淳原図:塚脇祐次補足,1972)

図5-6 愛媛県の陶石鉱床(桧垣淳原図:塚脇祐次補足,1972)


図5-7 四国地方の石灰岩の分布(沢村武雄)

図5-7 四国地方の石灰岩の分布(沢村武雄)


図5-8 四国のドロマイト鉱床の分布(沢村武雄,1971)

図5-8 四国のドロマイト鉱床の分布(沢村武雄,1971)