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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

2 原子力発電と石油備蓄

 原子の火

 西宇和郡伊方町九町越で、昭和五二年一月二九日に全国で一三番目、四国では最初の原子炉が初臨界に達した。これは、四国電力が建設した原子力発電所(伊方発電所)の一号機であって、同年九月末に営業運転を開始した。ついで同発電所二号機が五六年七月に初臨界に達して、五七年三月から営業運転に入った。この発電所の最大出力は、一、二号機ともに五六・六万kwで、一号機はすでに五六年度中に三七億キロwhの電力を生産し、愛媛県のみならず四国の電力生産は「原主火従型」へ移行しつつある。日本全体でも、五七年現在、二四基の原子力発電所が運転していて、その合計出力は一七一七・七万kw、全発電設備の約二一%に相当し、さらに一七基、一五七〇万kwが建設中または計画中である。
 原子力発電は、原子力利用のもつ平和的利用と軍事的利用の二面性のうち、全く前者に属するもので、日本では昭和三〇年に原子力基本法が制定されて、原子力の平和的利用についての研究と実用化が本格的に進められてきた。電力生産に原子力を利用することは、原子力の核分裂によって得られる大量のエネルギーを「熱」として利用し、これを蒸気にかえて発電する方法によっている。日本で最初の原子力発電所は、茨城県の東海村にある日本原子力発電の東海発電所で、一六・六万kwの出力によって四一年七月から運転を開始した。
 その後、東京電力をはじめ中部・関西・中国・四国・九州の各電力会社が原子力発電に着手し、二四基が運転している。四国電力も三一年から原子力技術の調査に入り、三五年から原子力担当による具体的な技術研究や電源立地調査を進めてきた。このような原子力発電への積極的な取りくみは、発電所の運転開始の多くが四〇年代の後半から五〇年代初めにかけてでもわかるように、日本のエネルギー供給の安定化にあった。
 原子力発電が、最も期待される理由は、その巨大な発熱量を得るのに、わずかな量の燃料(ウラン)しか必要とせず、石油・石炭などの化石燃料の消費に比べて、はるかに燃料供給が安定的で、国際的にも化石燃料の輸入依存度が高い日本にとって、政治的にも戦略的にも安定がはかれることにある。とくに、「火主水従型」をとってきた日本の電力生産は、石油のほとんどを輸入に依存し、しかもその価格は変動している。発電コストに占める燃料費の割合は、石油系火力発電が平均して約八〇%、石炭火力発電が約五五%であるのに対して、原子力発電のそれは約二五%だといわれ、経済的にも後者がはるかに有利である。
 原子力発電に全く問題がないわけではない。燃料のウランの多くをオーストラリアその他海外から輸入していることから、その供給の安定のための国際協力が必要である。また、排煙もないクリーンな発電ではあるが温排水をはじめ、放射能の周辺への影響の監視、使用ずみ燃料の再処理や廃棄処理などに伴う安全性の確立である。

 伊方発電所

 佐田岬半島の伊予灘側、伊方町九町越の海岸に、原子力発電所を誘致することが町議会で決議されたのが昭和四四年七月で、土地売買や漁業補償、環境影響調査などが進んで、内閣総理大臣の伊方一号炉の原子炉設置許可がおりたのが四七年一一月、その後、建設着工で一号炉の初臨界が五二年一月であった。四国電力は、伊方町に先だって四一年に津島町大浜海岸を候補地としていたが、事前調査で不適とみなされたために伊方町からの誘致に応じたものであった。発電所の用地は、海面埋め立ての一〇万㎡をふくむ約七五万㎡で、一号機の工期は四八年六月から五二年九月まで、二号機は同じく五三年二月から五七年三月まで、それぞれ約四年を要した(写真5-8)。
 原子炉の型は、軽水炉加圧水型(PWR)で、関西電力の美浜、高浜、大飯や九州電力の玄海などの発電所と同型であり、将来運転される予定の日本原子力発電の敦賀二号や北海道電力の泊発電所なども同型となる。軽水炉は燃料に濃縮ウランを使い、減速材や冷却材に普通の水(軽水)を用いるもので、炉の中に圧力を加えて蒸気の温度をあげ、蒸気発生器を通して、そこに生じた蒸気でタービンを回して電気を起こす仕組みになっている。この蒸気は、原子炉の冷却用とは別の水であり、燃料はウラン二三八が大部分で、燃えるウラン二三五は約三%と低い。
 伊方発電所の立地は、他の二三基の原子力発電所と同じように、海岸のしかも人口の少ない辺地にある。これは、用地を広く必要とすることや、大量の冷却用の水を海水からとること、またその温排水の放流を必要とすることなどから立地に制約があることによる。もちろん、地震国日本では、安全性のうえから地盤の固いところが絶対的条件となる。伊方発電所では、冷却水として水深一七mからの低温海水を毎秒約六五トンも取って、排水には水深八mから放射状に流して温度を下げている。このほか、気象条件も考慮され、周辺への放射能の影響調査も常時監視されている。
 伊方発電所が立地したことによって、県内の電力地図は大きく変わった。それは、立地条件からして電力を必要とする都市や工業地域と遠く離れていることから、送電線が大洲変電所を経由して、松山市の南東の川内変電所まで、二本の幹線が七三kmも走ったことで、この間に鉄塔は合計四一三基を数える。さらに、川内から西条変電所までの幹線が建設され、長さ三五㎞、鉄塔は八七基もあって、ともに県内のみならず四国の電力供給の大動脈となっている(前掲図5-11)。
 原子力発電所の建設は、一基で二〇〇〇億円から三〇〇〇億円の投資が行われる。伊方町でも建設工事などで最高四一〇人ほどの雇用が確保され、また四九年に公布された電源開発促進税法、電源開発促進対策特別会計法、発電施設周辺地域整備法の、いわゆる電源三法によって、一号、二号機の建設にかかわる二二・四億円が伊方町の地域振興や社会福祉向上のための事業に交付されている。それは、総事業費の約六三%を占め、周辺の保内町や瀬戸町にも、それぞれ一一・二億円余が交付されている(昭和四六年度から五六年度)。さらに、佐田岬半島一帯の地域開発なども進められている。

 石油の地下備蓄実証プラント

 越智郡菊間町の斎灘に面した葉山海岸に、昭和一六年から操業している太陽石油菊間製油所がある。県内では松山市の丸善松山石油とならぶ石油精製工場であるが、この菊間製油所構内に、石油公団によって日本で最初の石油地下備蓄施設が完成した。
 この施設は、実証プラント(実験施設)であるが、菊間製油所の背後にある花こう岩の丘陵地に、岩盤を横穴式に掘削し、自然または人工の地下水圧によって油もれを防いで、いわゆる水封システムで石油を貯蔵するものである。工事は五五年三月に起工し、五六年末に完成、つづいて各種の実験が行われていて、原油二・五万klを貯蔵することができる。貯油槽は海面下四二mから六二mのところにあり、その上部にある地下水面を適切に保つことで、貯油槽の空洞をとりまく地下水の圧力を貯蔵した油の圧力より高くして、安全に貯蔵する仕組みである。
 このような石油備蓄は、石油資源に乏しい日本が、これまでに経験した輸入先の政情不安による輸入量の不安定と、価格の変動から国民生活と産業を安定化するために国家的政策としてとられたもので、石油公団は六三年度までに三〇〇〇万klの備蓄を達成しようと努めている。これまでの備蓄方法は、ほとんど陸上タンクによるものであるが、地価の上昇によって広い土地を必要とする陸上備蓄は困難となってきた。菊間の地下備蓄施設は、実証プラントではあるが、日本のエネルギー資源の供給で石油のより安定した供給をはかるうえで、国土の利用からみても重要なものである。

 波方ターミナル
        
 越智郡波方町宮崎の海岸では、波方ターミナルによって、約二九・七万㎡の土地に天然ガソリン(NGL)や低硫黄原油、石油化学工業やガソリンの原料となるナフサなどを貯蔵する基地が建設されている。これには大小二六基の貯蔵タンクがあり、五八年秋の完成予定である。瀬戸内海でも海上交通量が多いことで知られる来島海峡に近い波方町に、このような石油基地が建設されることは、原油の輸入や製品の国内輸送に海運がなお重要な役割を果たしていること、とくに波方ターミナルは、海外からの輸入を一時貯蔵して、需要に応じて国内各地に中小型船で輸送するのに優れた条件をもったところである。
 伊方発電所をはじめ石油備畜やターミナル基地の建設は、愛媛県が瀬戸内海をはじめ海岸線が長く、しかも、瀬戸内海沿岸の都市や工業地帯に近く、エネルギー需給のうえで海運を利用するのに有利な地理的位置にあることを改めて知らしめるものとして注目したい。