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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

3 水産加工業

 削りぶし

 昭和五〇年の愛媛県の削りぶし生産は、生産量約七〇〇〇トンで全国の二八%、生産額で一八〇億円(三三%)といわれ、全国第一位を誇っている。生産の中心的業者は、伊予市にある三社で、業界一、二位にランクされるヤマキ・マルトモ花かつをと弥満仁である。そのほかにも県内には二〇業者ほどが松山市をはじめ八幡浜市・宇和島市などに分布するが、いずれも削り機を数台置いての家内工業的生産をしているにすぎない。
 伊予市の削りぶし業者は、大正五年(一九一六)から七年にかけて三社とも相次いで創業した。いずれも、当時から海産物問屋を経営していたが、名古屋で福山産の花鰹を見てヒントを得て創業したもので、その後の発達要因には次のようなものがある。当初の削り工程は手動式であり、安い賃金で、しかも豊富に雇える婦女子労働力を中心にしてきたが、現在でも製造部門の八〇%は女性が占めている。また豊富な水産資源を持つ伊予灘に面し、古くから原料となる煮干しの加工がみられたという原料産地への立地であった。また藩政時代から海産・陸産物の集散地であった郡中(現伊予市)には、海産物問屋としての商業資本の蓄積があった。海産物問屋から発生した水産加工に対する技術的伝統性の存在に加えて、原料確保や製品販売などの流通面での実績も保持されていた。このような立地条件のもとで、さらには水産加工物の特性を熟知し、時代に合った技術革新を促したことも見逃せない。すなわち昭和四七年から四九年にかけて、相次いでカツオパックの生産を始めたことにより、生産量は急増し、五四年には四六年時の五・二倍となったのである。また、問屋活動を基礎にしていたことが、原料仕入れから製品の販売に関する情報網までも保持していたことも大きくあずかっている。瀬戸内気候区に属する温暖低湿な気候は、原料の煮干しの天日干しに好都合であった。
 同じ時期に同一地区に三社が軒をならべて集中立地したことは、生産・販売などの面での競合を促したといえる。これにより加工技術は常に業界最高水準であったし、競って市場拡大、製品に対する研究・開発を行ってきた。現在ではその機能をほとんど果たしていないが、原料・製品の搬入・搬出口であった郡中港の存在も大きかった。
 削りぶしでスタートした三社の現在の主力製品は、カツオパックやだしの素・だしパックなどのパック製品で、自然食品ブームと生活の合理化を反映して好況を呈している。約一〇〇〇人の従業員の大半は、伊予市や近隣町の婦女子で占められている(表5-7)。
 ヤマキ(株)についての調査では、現在のおもな原材料は鰹・鯖・鰯で、その大部分を鹿児島県や静岡県、その他九州一円および山陰方面から仕入れており、県内では南宇和郡からわずかを仕入れているにすぎない。また、製品の輸送は、七〇%をトラックで、残り三〇%が鉄道扱いで、そのほとんどを県外に出荷している。下請企業としては、製造関係で県内に五社、県外に三社、補修関係で県内に四社があって、業界の首位にある業者としての存在を示している。操業当時の立地要因としては、原材料の確保や輸送の便、質のよい労働力の確保などが大きく左右していた。

 水産練り製品
  
 宇和海沿岸での水産加工は、すでに藩政時代、乾鰯や串鮑が各地で生産され、藩の重要な財源となっていた。庶民の味として欠かせないかまぼこの歴史は古く、宇和島では慶長一九年(一六一四)、伊達秀宗が宇和島藩主として入国の際、出身地の仙台から業者を伴ったことに始まるという。八幡浜では明治二三年(一八九〇)に宇和島から鈴木峯治郎が来住してその製法を伝えたことによる。
 かまぼこを中心とする水産練り製品について、八幡浜市と宇和島市を比較しながらみてみよう。昭和五〇年の県内のかまぼこ製造業者は、八幡浜市の四〇をトップに、宇和島市三五、今治市二〇、松山市一四となっている。
 八幡浜市は中型底びき(トロール)漁業の基地として、年間水揚げ高約三万トンに達する県内最大の水産業地である。これを背景として、練り製品、節類、珍味加工、冷凍、煮干し、飼料・肥料、魚油、その他の水産加工業が発達している。事業所数のうち、水産加工業が四三%も占める。かまぼこ類の製造工場は、市街地に分散して立地しているが、魚市場に近い大黒町や八幡浜駅前通りの新・旧国道一九七号線沿いにやや集中傾向を示している。経営は、家族従事者も含めた従業者五人以下の零細工場が四六%を占め、家内工業的である。最大の規模を誇るのは、三二年に八業者の統合によってできた八水蒲鉾の九八人で、二〇人から三〇人規模の工場が四工場あるにすぎない。
 原料は、宇和海で獲れるえそ・ぐち・たちうおなどが主で、零細業者の多くはこれらを用いて高級品の加工を行っている。しかし、鮮魚の解体処理は、水仕事のうえに魚臭があるため若者は敬遠しがちで人手が不足気味である。四〇年代からは中規模メーカーを中心にすけそうだらなどの冷凍すり身への依存も多くなって、五〇年には原料の七五%が冷凍すり身である。このことは大衆品の生産割合が高いことを示すもので、これに対して、宇和島市では、冷凍すり身の比率は三五%と低く、高級品の生産に重点がおかれている。
 製品販売の特色は、宇和島市では業者の直接小売の直販制をとっているのに対して、八幡浜市では、卸売制が多い。これは大衆品製造が中心で、大量生産、大量販売をねらったためで、特に中規模製造業者にこの傾向が強い。販路は、県内が五五%、九州・地元・その他が各々一五%となっている。
 宇和島市のかまぼこは高級品として全国に知られ、おみやげ用、贈答用としてひろく利用されている。原料は、新鮮なえそを主体に原料魚が大半を占めているが、冷凍すり身の使用も三五%ぐらいに達している。また、原料魚の三分の二は八幡浜市から仕入れている。歴史は前述のように古いが、企業的生産をしている業者は一二にすぎない。それは、当市のかまぼこ類の加工は、鮮魚商や料理屋が売れ残った魚の処理加工の目的から発足した業者が多いためである。五七年三月現在、宇和島かまぼこ組合の三四人の組合員のうち、かまぼこ主体に加工している業者一二、鮮魚商八、鮮魚商とかまぼこ類加工の兼業四、仕出し屋とかまぼこ加工の兼業四、鮮業商と仕出し屋とかまぼこ加工を兼ねる業者三、仕出し屋一、仕出し屋と鮮魚商の兼業一、めざし加工とかまぼこ加工の兼業一となっている。これらのうち、兼業の加工業者には、まったくの地元消費を対象に、月に二回ないし四回くらい製造する程度のものもある。従って八幡浜市以上に零細経営である。
 品目別生産割合をみると、小零細企業を中心にてんぷらが五四%で最も多く、ついで中堅企業を中心にかまぼこが三二%を占める。販売ルートの約六〇%は、製造業者自らの直接小売が占め、主な販売先も宇和島市および周辺町村である。ただ、中堅企業では京阪神や京浜方面へ約四分の一を販売している。
 このほか、松山市では大市場を対象として松山蒲鉾企業組合と松山蒲鉾鮮魚仲買人組合の二業者を中心に大衆品の生産がみられる。また、すまきの産地として全国に有名な今治市にも二〇業者を数える。

 珍味加工

 珍味とは、主に水産物を原料として特殊加工による独特の風味を生かし、貯蔵性をもち、かつ再加工を要することなく食用に供せられるものである。文字通り「珍しい味の食品」であって、水産物を主体にしているが、陸産物に類似の加工をほどこしたものも珍味の一部に含まれている。
 愛媛県の珍味業界は、全国的にも重要な地位にある。珍味業者は広く全国各地に立地しているが、集中立地地域は、いか製品の特産地である函館、おかきやあられ・ピーナツなど陸産珍味に特色のある東京、そして小魚珍味を得意とする県内の松前町およびその周辺の本県である。小魚珍味だけをみると、全国生産額の八〇%以上を愛媛県が占めているが、その代表的製品である小魚珍味の歴史は明治期にさかのぼる。それは、瀬戸内海で獲れる小魚やえびを原料として生産を開始したものである。この小魚やえびを利用した珍味は、もともと福岡県の宮野儀助が佃煮の腐敗を防ぐ研究の過程で考案したことから「儀助煮」という名称がつけられている。県内での珍味の始まりは、この儀助煮であって、三津浜や松前町が先発地となっている。とくに松前町は、古くから海産物の行商が盛んで、戦前には国内はもちろん、満州・朝鮮・ハワイなどにまで販路は広がっていた。戦後は、三〇年代までは業者数も少なく、松前町を中心に数軒を数えるにすぎなかった。珍味業界が今日の隆盛をみるにいたった要因は、四〇年代の高度経済成長期に入り、レジャー需要の増大から食品の簡便化が求められるようになったことにより、消費拡大が進んでからである。たとえば、創業年代別企業数をみると、戦前が三、戦後の二〇年代が四、三〇年代が三に対して、四〇年代は実に一二の企業が創業されている。五五年現在、四国珍味商工協同組合に加盟の業者数は三六で、その分布をみると、松前町二三・八幡浜市四・伊予市三・双海町・松山市各二・県外二となっており、海産物行商に端を発した松前町と原料確保の容易な漁港を背景に立地がみられる。
 本県の珍味の特色は、魚種別生産比率でみると明らかなように小魚類の比率が高いことである。すなわち、小魚類五〇%、いか類・かわはぎ各一五%、貝類一三%、海藻類七%の生産比率である。また、原料魚が新鮮であることから、製品の品質がよいことも特色の一つである。当業界の従事者数は、男一〇四人、女三七三人、計四七七人、パートタイマー一九九人である。これ以外に一三〇〇人前後にのぼると推計される家庭内職従事者を含めると、婦女子を中心にかなり多数の人々が従事していることになる(五五年)。
 製品はそのほとんどを大阪をはじめ、九州・尾道などの消費地問屋に販売しており、地元で袋詰めして自社ブランドとして販売しているのは二社にすぎない。そのため出荷額一〇〇億円以上といわれながら、意外に知名度は低く、一次加工が主体となっている。

表5-7 伊予市の削りぶし3社の概要

表5-7 伊予市の削りぶし3社の概要