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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

2 近代的道路の発達

 道路整備の遅れ

 富国強兵や殖産興業を国家建設の目標においた明治政府は、交通政策のうえで、まず大量輸送機関である鉄道と海運の育成に主眼を置いたために、道路の整備は道路交通機関の未発達などもあってなおざりにされがちであった。明治九年(一八七六)に太政官布告により道路の種類を国道・県道・里道に区分し、管理区分、標準幅員などを定めたが、この体系は大正八年(一九一九)の道路法の制定に至るまで道路行政の基本として存続した。このように法制の改編は行われたものの、具体的な道路の整備はほとんどなされず、藩政時代の旧街道がそのまま用いられた。「愛媛県に道路なし」とは、明治初年から二〇年頃にかけていわれた言葉で、これは当時の道路および道路行政の実状をよく示している。たとえば、徳島と松山を結ぶ四国の最も重要な国道筋にさえも、橋が架せられていないところが多かったのである。
      
 四国新道

 このような県内の道路状態も、明治中期から大型の荷馬車が荷物運搬に使用されるようになってきたために、道路整備の必要が生じしだいに改善された。四国の近代的道路の夜明けは「四国新道」から始まった。この新道は現在の国道三二号線(高松市と高知市間)と三三号線(高知市と松山市間)であって、明治一九年(一八八六)に工事が開始され、三坂峠の開削などを経て二七年(一八九四)に完成した。この四国新道は、構造規格が当時としては画期的なもので、質量ともに四国の近代道路の先駆となった。       

 幹線道路の改修

 讃岐街道(現国道一一号線)は、明治に入って松山駐屯の第二二連隊と、香川県善通寺市の第一一師団とを結ぶ軍用道路として重要な意味をもち、明治一八年(一八八五)に国道三一号線として指定された。国道としての改良が開始されたのは明治二〇年(一八八七)以降であるが、桧皮峠(一三一二m)などの峠部分の改良をはじめ国領川や加茂川などでの架橋工事が行われ、明治末までには改良工事が完成した。
今治街道は明治三〇年代に入って改良に着手し、四三年(一九一〇)に県道松山―小松線として開通したが、この路線は昭和四〇年に一般国道(旧二級国道) 一九六号線に指定された。
 松山市から大洲市・宇和島市を経て南予地域に至る道路整備は、宇和島市以北と以南とでは時期的な遅れがある。すなわち、松山市と宇和島市の間は、明治三四年(一九〇一)に法華津峠、同三七年(一九〇四)に犬寄峠が改修され、明治末までにはほぼ改修が完了したのに対し、宇和島以南のいわゆる旧宿毛街道は、四〇年(一九〇七)まで改修が行われなかった。この当時の幹線道路である県道のうち、改修が加えられなかったのは宿毛街道のみであったが、それはこの地域が地形的に複雑で山地が連なり、平野が少ないため道路の整備が困難であったことに加えて、他の幹線道がおもな都市間を結ぶことによって道路整備に対する経済的意義が高かったのに対して、宿毛街道はこのような意義が低かったことなどが理由であった。
 整備の遅れた宿毛街道も、明治末から大正・昭和初期にかけてようやく整備が進んだ。明治四三年(一九一〇)に松尾坂の整備、大正八年(一九一九)には鳥越トンネルが開通して、宇和島市から御荘町までが開通した。しかし御荘から南下して宿毛までの道路の整備は昭和初期まで待たねばならなかった。この松山市から南予地域に至る道路は、旧道路法では県道松山・宇和島線、宇和島・宿毛線に、昭和三九年には一般国道(旧二級国道)五六号線に指定されて現在に至っている。
 このようにして県内のおもな幹線道(現国道)は、戦前までに第一次的改築ともよべる整備が行われたけれども、ほとんどが未舗装であったし、また屈曲の多い道路で、本格的な自動車交通に適応するものではなかった。戦前の陸上交通では、鉄道交通がその中心的役割を担っていて、自動車交通は補助的役割にしかすぎなかった。