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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

2 遅かった国鉄の伸展

 県都最後の国鉄開通

 伊予鉄道が明治二一年(一八八八)に全国初の軽便鉄道を運行させたのに対して、国鉄の伸展は遅く、大正五年(一九一六)になって讃予線がやっと川之江市まで通じた状態であった。それ以後はわずかずつ西進して、松山市まで開通しだのは昭和二年で、この時に讃予線を予讃線に名称をかえた。これは、わが国の県庁所在都市で国鉄が開通した最も遅い記録である。このような国鉄の開通の遅れに対して、県内の主な都市ではすでに民間鉄道が開通していた。前述の伊予鉄道のほかに、明治二五年(一八九二)に住友鉱山鉄道が新居浜―惣開―端出場間、宇和島鉄道が大正三年(一九一四)に宇和島―近永間、同一二年(一九二三)に近永―吉野間、そして愛媛鉄道が同七年(一九一八)に長浜―大洲間、同九年(一九二〇)に大洲―内子間に開通していた。
 国鉄は昭和二年以降さらに南予地域へと伸び、一〇年に伊予長浜まで開通した。しかし、八年に宇和島鉄道と愛媛鉄道が国鉄に買収されていたので、この時点で大洲まで国鉄が開通したことになる。国鉄はさらに一四年に八幡浜まで延長され、いっぽう宇和島市から卯之町までは一六年に開通、残る八幡浜―卯之町間が結ばれて予讃線が全通したのは、終戦も間近い二〇年六月二日であった。宇和島―吉野間は国鉄に買収され宇和島線となったが、これをさらに延長し、高知県の窪川町まで結ぶ四国循環鉄道の完成は地元民の長い間の夢であった。二八年に松野町吉野と高知県西土佐村の江川崎との間が開通したが、江川崎と窪川間の工事は遅々として進まず、江川崎開通に遅れること二一年、やっと四九年に完成し予土線となった(表6―5)。

 南予の鉄道の遅れ

 県内における国鉄の伸展は、全国的にも最も遅いものであったが、特に南予地域へのそれは遅かった。この理由としては、南予地域の地形が複雑でトンネルや鉄橋に工事費がかかるため、難工事の部分には民間鉄道が建設できなかったことや、有力政治家がいなかったため沿線の市町村の間で路線の争奪が行われて、政争の具にされたことによる。さらに、南予の沿岸部住民の眼が海に向けられ、鉄道への関心の度合が低かったことなどをあげることができる。路線を政争の具にした代表的な例は、世に朝令暮改線とまでいわれた南予地域の国鉄路線をめぐるものである。昭和初期に、当時の政党政友会が郡中―中山―内子―坂石―日吉―近永を通る一〇三号線を主張したのに対し、同じく民政党は郡中―長浜―大洲―八幡浜―三瓶―卯之町―吉田―宇和島を通る一〇四号線を主張して対立した。はなはだしい例としては、すでに国会で可決された路線でさえ、政党内閣が更迭するたびにくつがえるほどであった。長期間におよぶ争いの末、昭和八年の国会で一〇四号線に決定したが、それは経費節約のため最短路線がとられたことと、運転技術の進歩により一〇四号線での運行が可能となったことなどの理由による。争いに破れた一〇三号線は国鉄バスが運行されることとなった。
       
 運行の近代化

 県内の線路上を走行する列車もしだいに近代化されてきたが、その主な努力は高速化と無煙化であった。高松―松山間が開通した昭和二年には、表定速度が時速二九・五㎞で三九五分を要したが、戦時中の一七年には時速四六・六キロに増加し、所要時間も二五〇分と大幅な短縮をみた。戦後は一時表定速度が遅くなったが、二五年には予讃線に戦後初めて本格的な準急「せと」が登場して戦前の水準に回復した。
 四国の国鉄にとって、高速化と無煙化のうえで画期的だったのは、三三年に高松―松山間の準急「やしま」の登場であった。これまで石炭による蒸気機関車であっだのに対し、「やしま」はディーゼル機関による四国で最初の気動車準急であった。この気動車準急の登場によって表定速度は時速五四㎞、高松―松山間は二一六分に短縮された。さらに気動車による無煙化は急速に進行し、三三年に内子線が気動車化され、三五年には宇和島線(現予土線)に気動車準急が運行されて、四〇年までにはほぼ完全な無煙化の達成をみた。列車のスピードアップはその後もつづき、三六年には四国初の急行「四国」、四七年には特急「しおかぜ」が運行され、それぞれ表定速度六三㎞、七二・四㎞で高松―松山間を一八五分、一六〇分へと短縮した(表6―6)。現在予讃線には特急「しおかぜ」が上下各四本、急行「うわじま」が高松―宇和島間を上り六本、下り七本、急行「いよ」が高松―松山間を上り六本、下り四本運行されている。

 営業係数の悪化

 経済の高度成長にともなう自動車化の影響を最も強く受けたのが国鉄である。昭和三〇年度の国内の旅客輸送人キロでは、鉄道が八二%のシェアを占めていたものが、五四年度には四〇%と半減し、また貨物輸送トンキロでも、同じく五三%から一〇%へと急減した。このような国鉄輸送の衰退は、全国的な傾向で愛媛県もその例外ではない。県内の移動旅客数のうち、国鉄のシェアは四〇年の一五・九%から五五年にはわずか四・一%へと減少した(図6―5参照)。
 県内における国鉄の衰退を、輸送人員、取扱貨物量の推移から見てみよう(図6―8)。昭和三〇年代には予讃線・予土線・内子線とも順調に輸送人員をのばしてきたが、各線とも四〇年を境に急激に減少し、五六年には最高を記録した四〇年のそれぞれ五三%、二四%、二九%にまで減少し、内子線にいたっては、五六年の一日当たりの輸送人員はわずか五一三人にまで減少した。このような急激な輸送人員の減少のうちで、とくに定期客の減少が目立っている。予讃線では、最高時の四〇年には定期客が一〇万人を超えていたのに対し、五六年では約四万六〇〇〇人と半分以下の減少である。このような定期客の減少は、国鉄が短距離の通勤・通学交通手段としての機能を失ないつつあることを示している。国鉄主要駅の一日当たり乗車人員をみると、都市ではすべて一〇〇〇人を超えているが、逆に郡部ではすべて一〇〇〇人以下であって、特に内子線、予土線各駅の乗車人員はきわめて少ない(図6―9)。
 輸送人員の急激な減少は、当然のように営業係数の悪化となって表れる。営業係数とは、百円の収入を得るのにどれだけの費用が必要かを示す係数である。これによると、輸送人員の最高を記録した四〇年において、すでに各線とも営業係数が一〇〇を超えて赤字であったが、それ以降さらに状態は悪くなって、五五年には予讃線は二三一、予土線は六一一、内子線に至っては一三四四と大幅な赤字である。五〇年から五五年にかけて各路線とも営業係数は多少改善されたが、これは数次におよぶ運賃の値上げと貨物取扱駅を減少させたことによる。しかし予讃線はともかくとして、他の路線はいぜんとして大幅な赤字続きで、その存続すら危ぶまれている。

表6-5 愛媛県における国鉄の伸展

表6-5 愛媛県における国鉄の伸展


表6-6 予讃線高松・松山間列車表定速度と所要時間(昭和2~47年)

表6-6 予讃線高松・松山間列車表定速度と所要時間(昭和2~47年)


図6-8 国鉄輸送人員および取扱貨物量(昭和30-56年)

図6-8 国鉄輸送人員および取扱貨物量(昭和30-56年)


図6-9 愛媛県の国鉄主要駅の1日当たり乗車人員(昭和56年度)

図6-9 愛媛県の国鉄主要駅の1日当たり乗車人員(昭和56年度)