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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

3 商業集落と商店街

 商業集落の形成

 愛媛県の商業集落は、藩政時代における城下町・在町・門前町・宿場町などを起源としているものが多い。城下町を起源とするものは、松山市をはじめ今治市・宇和島市・西条市・大洲市などがあるが、これらはいずれも県内で主要な都市に成長している。在町を起源とする集落は、松山藩の松の町(丹原町)・竹の町(吉岡新町、東予市)・梅の町(大井新町・大西町)をはじめ、大洲藩の原町(砥部町)・郡中(伊予市)や吉田藩の宮ノ下(三間町)・吉野(松野町)など数多い(図6―26)。また久万町は、松山藩の在町であると同時に門前町・宿場町として起源をもち、大宝寺の門前町、土佐街道の宿場町として栄えた。
 これら藩政時代に起源をもつ商業集落は、その後発展して地域の中心都市になったものもあるが、衰微して現在はほとんど商業的機能をもたないものも数多い。城下町起源の前述の五つの都市は、地域の中心都市として成長した例であるが、同じ起源をもつ小松・吉田・新谷は明治以後あまり発展しなかった。城下町起源に対して、在町に起源をもつ集落の多くは明治以後には衰えて、わずかに久万町・野村町・城辺町などが地域の中心としての商業機能をもっているに過ぎない。
 このように、藩政時代の商業集落が、明治以後に成長したり衰えたりするおもな原因は、藩界の消滅と交通の発達にある。藩界の存在は、たとえ隣り合った商業集落であっても、藩が異なればそれぞれ独立した経済機能を営むことを可能にし、両者が機能をうばいあうということはなかった。しかし、明治になってこの藩界が消滅し、経済活動が自由に行われるようになると、大きな商業集落が小さなそれの機能をうばう結果となった。このような傾向をいっそう助長したのが交通の発達であって、移動時間の短縮は大きな商業集落が小さな集落の機能をうばうことをますます可能にした。城下町起源の小松・吉田・新谷は、それぞれ西条市と今治市・宇和島市・大洲市に機能をうばわれてあまり発展しなかった。同じように在町起源では、たとえば郡中・原町が松山市に、宮野下・岩松が宇和島市に機能をうぱわれる結果となった。
 藩政時代に起源をもつ商業集落に対して、明治以後に都市発展の起源をもつ例は少ないが、新居浜市や広見町はそのよい例である。新居浜市は、藩政時代には西条藩の漁業地であったが、明治の中ごろに住友鉱業所が惣開に移転して以来、住友系企業の発展に伴う人口増加によって商業が急速に進展した。また広見町近永は、明治以後発展して鬼北盆地の中心的な商業集落となった。藩政時代から明治にかけてのこの地域の中心は、吉野と松丸であったが、大正から昭和にかけて、交通の要地となった近永が中心的な商業集落として発展した。この発展は、大正三年(一九一四)の宇和島鉄道の近永までの開通や、昭和になっての北宇和農業(現北宇和高校)の設立、国立アルコール工場、近永病院(現県立北宇和病院)の誘致などによるところが大きい。

 主な商店街
       
 愛媛県の商店街は、その規模・内容を問わないならば、県下七〇市町村に分布していることになる。しかしながら、それらの多くは地元のごく限られた範囲を商圏とし、取扱い商品も最寄り品の構成比が高い。
これに対して、高級な買回り品の構成比が高く、その商圏も行政域を越えて広範囲な地域の中心商店街としての機能をもっているのは、都市の中心商店街に限定される。県内には、現在三七の商店街振興組合があるが、それらはすべて都市部に位置し、このなかには県内のおもな商店街がほとんど含まれている(表6―19)。
 松山市の大街道や銀店街(湊町)は、県内で最高の水準にある商店街で、その商圏は買回り品でほぼ半径四〇㎞、とくに高額な高級品については県内全域におよぶ。両商店街を中予地域の中心商店街とすると、東予地域のそれは今治市の本町・常盤町商店街、南予地域では宇和島市の恵美須町・新橋通り・袋町・追手通りの各商店街である。新居浜市や西条市の商店街が充分な発達をみなかったころには、今治市の商店街の商圏は両市ならびに周桑郡・越智郡全域に及んでいたが、現在は越智郡と東予市をふくむ圏域に縮小した。
 宇和島市の商店街は、この地域が地形的な障害によって松山市と隔たっていることや、近くに商業活動で競合する都市がないこと、また同市がもつ交通のターミナル性などから商圏は広い。宇和島市を中心にして、東宇和郡の南部や北宇和郡、南宇和郡にわたる南予地域の大部分を商圏とし、さらに高知県南西部までその圏域にふくむ。商店街は、アーケードとカラー舗装がほどこされていて、景観的な美しさは松山市の大街道や銀天街に匹敵するほどで、商圏の広さと商業力の大きいことを推察させる。
 これら三都市以外の都市の中心商店街は、自都市と近隣のごく限られた地域を商圏としていて、ローカルな中心商店街だといえる。たとえば、新居浜市は人口規模では松山市に次いで県内二位であるが、昭和通りや登道などの中心商店街の商圏はせまい。これは同市が工業都市として発展したため商業集積が少ないことと、伊予三島市・川之江市と、西条市・今治市などによってはさまれていることから、商圏の拡大ができないことによる。

 松山市の中心商店街

 松山市の中心商店街は、大街道・銀天街の両商店街であるが、藩政時代の商業の中心は松山城の西の松前(古町)地区であった。明治になって武士階級が没落すると、外側が古町に代わって商業の中心となった。それは外側が南部に広大な後背地をもち、県庁や市役所が城南地区に立地し、さらに伊予鉄道の駅が外側に置かれて、そのターミナル性が強められたことなど立地条件が向上したことによる。
 大街道は明治以後、中心商店街として銀天街をしのぐ地位にあったが、昭和四〇年代の後半からその地位が逆転した。二一年に大街道に進出した三越は、「いよてつそごう」が四六年に市駅に立地するまで松山市の百貨店の地位を独占し、小売業の核的存在となって大街道の発展に寄与してきた。しかし、四五年のダイエーの千舟町への進出や四六年の四国初の地下街「まつちかタウン」の開設、さらに同年のターミナルデパートいよてつそごうの開店を契機として、松山市駅周辺の顧客吸収力は飛躍的に上昇した。
 これまで郊外電車やバスが松山市駅に集中し、さらに松山市南部における人口の急増という立地条件に恵まれていた銀天街は、「いよてつそごう」を中心とする核的店舗の立地によって、ついに大街道をしのぐ中心商店街に成長した。現在では、販売額、路線地価、通行量などいずれの点でも銀天街が上回っている。業種構成でも、両商店街には大きな相違があって、大街道は飲食店・食料品店や書店の構成比が高いが、銀天街は呉服・洋品店の構成化が高く専門店化が進んでいる(表6-20)。
 両商店街の地位は逆転したけれども、松山市の中心商店街としての地位はいぜんとして高い。これは立地条件に恵まれたことにもよるが、両商店街の地位を守るための努力も見逃せない。その努力の最も顕著な例がアーケードの設置とカラー舗装である。両商店街とも数次の改修を行い、銀天街は昭和五六年に、大街道は五七年に近代的なアーケードとカラー舗装を完成させた(写真6―16)。両商店街の努力は、業種構成の変化にもみることができる。戦前の昭和一四から一五年ころと最近の業種構成を比較すると、婦人服店や紳士服店の急激な増加が目立つ。これは戦後の大型店進出に対して、各商店が専門化への道を婦人服などに見い出し、買回り性(高級品)を一層強めたことによると考えてよい。   

 今治市の中心商店街

 城下町として栄えた今治市は、古くから海陸交通の一大結節地としての地位を占めていたことから、越智郡島しょ部と今治平野・周桑平野の一部を商圏とする商業の町として発展した。同市の郊外の桜井は、椀船行商や割賦販売業の発祥地という歴史をもつが、このことでもわかるように、今治市は「伊予の大阪」とよばれて古くから商業の盛んな都市であった。同市は、藤堂高虎の町割以来の中心商店街で呉服屋が多い本町商店街と、明治以後急速に発展した銀座商店街(常盤町二、三丁目)の二つが中心商店街である。後者は戦後になり新町と川岸端が一直線の商店街となったために、港務所から「ドンドビ」、今治駅方面への通行路となり、立地条件に恵まれたために発展したものであるが、今や本町商店街をしのぐ地位にある(写真6―17)。
 両商店街の地位の逆転の理由としては、さきにふれた交通条件のほかに、本町商店街からの大洋デパートの撤退と、昭和四〇年代後半からの「ドンドビ」交差点周辺への四店の百貨店とスーパーマーケットの集中立地がある。この大型店の集中立地は、各商店街の置かれている立地条件に大きな変化を与えた。大型店に遠い本町商店街や常盤町一、二丁目の商店街は願客が減少し、これに対して大型店に隣接する常盤町三丁目や大正町一丁目が新たに繁華街となった。「小売業は立地産業」と一般に言われるが、そのよい例が今治市の中心商店街の変遷である。同市の中心商店街は、今治が中四国でも有数の大型店過密都市であることや、買回り品の松山市への一部購買流出があることからみて、経営的にはきわめて厳しい状態にある。

 宇和島市の中心商店街

 宇和島市は藩政時代に城下町として栄え、明治以降も南予地域の中心商業都市として発展したが、これは交通のターミナル性によるところが大きい・従来から海上交通の重要な結節地であった同市は、昭和二〇年の予讃線の開通によって新たに陸上交通の一大結節地となった。このような交通のターミナル性が同市の小売商業を発展させる大きな原因となったが、さらに松山市と遠く隔たっているという地理的条件によるところも大きい。
 藩政時代の商業の中心は本町通りであったが、明治になって追手通り・袋町・新橋通りが新たな中心商店街となった。さらに大正から昭和にかけては、市街地の北部への発展につれて恵美須町も新たに商店街化された。この結果、同市の商店街は、追手通り―袋町―新橋通り―恵美須町と連続した商店街を形成するようになって、これらを総称して宇和島銀天街と呼ばれるようになった(写真6―18)。昭和三八年にはアーケ―ドが完成したが、五五年から五七年にかけて、新橋通り・恵美須町・袋町の各商店街は全面的にアーケ―ドを改修し、さらにカラー舗装が行われた。これによって景観的にも県内で最高レベルの商店街となり、業種構成でも呉服・洋品店の構成比が四〇%を超えていて、専門店化の進んだ商店街となっている(前掲表6―20参照)。商店街の商圏は南予地域全体に及ぶが、さらに高知県の幡多郡や宿毛市もその商圏にふくんでいる。

図6-26 愛媛県の城下町と在町

図6-26 愛媛県の城下町と在町


表6-19 愛媛県の商店街振興組合

表6-19 愛媛県の商店街振興組合


表6-20 愛媛県の主要商店街の業種別店舗数(昭和57年)

表6-20 愛媛県の主要商店街の業種別店舗数(昭和57年)