データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)
4 内陸盆地の集落
宇和町岩木
南予地域の山間部には、宇和盆地や鬼北盆地などの内陸盆地がある。これらの内陸盆地では、集落は低湿な盆地底をさけて、山麓の高燥地に立地しているものが多い。ことに宇和盆地はその代表的な例で、盆地に位置する二五の集落のうち、永長と真土を除いて、すべて山麓に立地している。これらの山麓部には縄文時代や弥生時代の遺跡をはじめ古墳も多く分布するので、山麓の高燥地は先史時代からの重要な集落立地点であったことがわかる。
宇和町の岩木は山麓の高燥地に立地する集落の典型である。この集落は現在宇和町の一つの大字であるが、藩政時代から明治二二年(一八八九)の町村制が実施されるまでは一つの行政村で、村落共同体の実態をなすものであった。戸数一七七戸に達するこの集落は、背後に山林をひかえ、前面の盆地底に水田が広がる。山林は山頂部が旧村有林で入会採草地、その下が私有林で薪炭採取林となっていた。旧村有林は現在宇和町の町有林となっているが、岩木の分収林でもあって、岩木の住民によって大正年間から植林され、今日に至っている。前面の水田は山麓にある六つの溜池によって灌漑されているが、溜池は集落の管理下にあり、池掛ごとに二人の水番が灌漑水を田に導いている。この集落もまた、入会採草地と灌漑水を通じて集落運営が行われている平地農村の典型である。
集落が山麓に立地したことについては種々の要因があげられるが、その第一は、山麓が高燥地で集落の立地点としてすぐれていたことである。岩木の集落領域の南を流れる川を深川、その付近の水田を深田とよぶが、深川流域は幕末に水田が開かれるまでは一面にあしの群生する低湿地であった。開拓された水田もひざを没するほどの湿田で、牛は農耕用には使えず、耕起の作業はすべて人力に頼らなければならなかった。このような湿田は裏作の麦の栽培が不可能であったのみならず、米の反当収量も集落背後の谷田の六〇%程度にすぎなかった。この湿田が美田に生まれ変おったのは明治三九年(一九〇六)に始まった耕地整理事業によってであるが、それまではこのような湿田は土地利用上も、集落立地上も魅力のある土地ではなかった。
第二の要因は、山麓に清冽な湧水が得られ、飲料水の取得に便利でったことである。岩木の住民は大正年間に簡易水道が敷設されて以来、背後の浸食谷より飲料水を得ているが、それまでは山麓に湧出する地下水か、山麓近くの井戸水によって飲料水を得ていた。山麓付近は飲料に適する良質の地下水が得られたのに対して、盆地底では地下水が滞留するので、鉄分をおびた飲料には適さない地下水しか得られなかった(写真7―2)。
第三の要因は、水田を可能なかぎり宅地に潰したくないという農民の心理である。集落は簡易水道の普及後、しだいに山麓から盆地底の方へ移動しているが、古老の話によると、現在の山麓線よりさらに高いところにも住居跡があり、そのような土地は元屋敷などとよばれているという。藩政時代には年貢米の確保のため、「屋敷上り」と称して、いったん平坦地に進出していた住宅が、また山麓線の上の旧屋敷跡に帰っていった例もあるという。
第四の要因は、現在の山麓線が明治年間までは住民の経済活動の中心地であったことである。集落の背後の山地は現在では利用価値に乏しいが、かつては薪炭の採取林や入会採草地があり、また浸食谷には水田も開けていた。さらに山頂の平坦地には畑も開けていた。この畑は「うちとり」といって、共有地を開墾したものが自己の所有地にしたものであるという。一方、盆地底の湿田は明治末年の耕地整理事業までは、相対的に価値の高いものではなかった。山麓はまさに住民の経済活動の中心地であったのである。
松野町野尻
鬼北盆地のなかで、三間盆地は宇和盆地と集落立地が似たすがたを示すが、河岸段丘の発達が良好な広見・松野盆地では、その態様は異なっている。川ぞいの氾濫原と河岸段丘上の地形が生活領域となっている集落では、集落は段丘面に立地し、水田が氾濫原に展開する例が多い。松野町の野尻はそのような集落の典型である。
野尻は松野町役場のある松丸の対岸にある戸数二三戸の河岸段丘上の集落である。水田は前面の氾濫原上に展開するが、そこは昭和一八年と二〇年の洪水には冠水した。集落がすべて段丘上に立地するのは、この水害をさけるためである。段丘上の集落は水害には安全であったが、地下水位が深いため、飲料水の取得には不便であった。明治年間には山麓の谷間と、段丘をきざむ浸食谷、それに段丘崖下に共同井戸があり、これが住民の飲料水をまかなっていた。段丘面に深さ七mから八mの新しい共同井戸が掘削されたのは大正中期から昭和の初期にかけてである。これらのなかには共同あるいは個人で掘削されたものもあるが、昭和四三年に簡易水道が普及するまでは、数戸で利用された共同井戸が多い。このような井戸を「モヤイ井戸」というが、その利用は住民を結合する重要な要素であった(図7―4)。