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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

2 山腹斜面の集落

 住民の生業

 東・中予地域の畑地卓越山村の住民は、広く畑作を営むものもあったが、地形の制約から普通畑の開発には限界があり、耕地を林野に求めて焼畑耕作するものが多かった。焼畑の村では集落の立地する緩斜面に常畑があり、ここで野菜や穀物を栽培するかたわら自給作物の多くは焼畑に求めた。
 林野の利用では、銅山川流域に別子銅山の製錬用としての製炭業が発達したり、流送の可能な加茂川流域では木材の伐採や搬出などが行われていたが、注目されるのは、木工細工を生業とした木地屋の存在である。木地屋とは轆轤をもって盆・椀・杓などの木工細工をする職人の呼称で、近江の国の小椋郷にその源を発し、惟喬親王を祖師とするという伝説をもつ。「諸国山々切り次第」という御綸旨をいただいたという彼らは、良材を求めて奥山を徘徊し、やがて各地に定住した。上浮穴郡の奥山は彼らの活動の中心地域で、面河村の大味川・笠方、美川村の東川・二箆・大川、柳谷村の西谷、小田町の小田深山、久万町の直瀬などは木地屋集落の所在地であった(写真7―4)。また、銅山川上流域の諸村や、西条市のが大保木、小松町の千足山、丹原町の桜樹など石鎚山の周辺にも木地屋の活動の跡が伝えられている。

 日向斜面の集落稲村 

 山腹斜面の集落立地点としては、南向の緩斜面、すなわち日向斜面を最良とする。それは耕地の開発や住宅建設が比較的容易で、そのうえ日照に恵まれているので、居住環境や作物栽培条件にすぐれていることによる。特に冬季には、冷気の滞留する谷底に比べて、気温の逆転現象のみられる山腹斜面は温暖で過ごしやすい。また雪どけも日陰斜面に比べて早く、冬季の作物栽培に有利である。上浮穴郡の柳谷村は仁淀川の本支流の下刻作用が盛んで、谷底にはほとんど平坦地をみない。集落の大部分は山腹緩斜面、特に日向斜面に立地するが、稲村はその典型的な集落である。この集落は昭和二五年ころには戸数三五を数えたが、五七年には一八戸に減少し、近隣集落とともに過疎集落の典型である。住民は経済の高度成長期に松山市などに挙家離村し、現在四〇歳以下の後継者は一人も残っていない。
 集落は先場・奥稲村・内の子の三つの地区から構成されている。戸数わずかに三五戸の集落が三か所にも分散しているのは、集落を立地さすに足る広い平坦地に恵まれていなかったことによる。中心集落の先場は地すべり地に由来する日向斜面に、奥稲村はその奥の溪流にのぞむ小平坦地に、内の子は前二者より海抜高度にして一五〇mから三〇〇mも高い標高七〇〇mから八五〇mの山腹斜面に立地する。先場・奥稲村が家屋の密集する集村であるのに対して、内の子は家屋の分散する散村であり、集落形態を異にするが、それは集落の成立の差異を反映する。
 内の子は南隣の中津の住民が焼畑小作に入山して定住した集落というが、明治三九年(一九〇六)測図の地形図には家屋の記号がみられないので、それ以降の入山と推察される。上浮穴郡では定住集落の多くは標高七〇〇m以下の山腹緩斜面に立地しているので、内の子の集落は耕作限界に近い居住地といえる。このような集落は、食料自給の必要が緩和されると真っ先に消滅する例が多いが、内の子も経済の高度成長期には挙家離村が激しくなって、昭和二五年の一二戸が五七年にはわずか二戸に減少してしまった。
 稲村の集落の土地利用の構成は、集落に接して常畑があり、その外側をとりまく広大な林野が焼畑として利用されていた(図7―6)。常畑は「さえんば」とか、「こやし」と呼ばれたりしたが、それは菜園に利用されたり、下肥や堆肥などの肥料を投入したことによる呼び名である。一方、焼畑は切替畑とか「アラ地」と呼ばれた。数年の耕作の後に山林に転換されたり、二〇年から三〇年に及ぶ休閑の後に新たに耕地に利用されることにともなう呼称である。
 常畑で作付される作物は、自家用の野菜以外に、夏作のとうもろこし・あわ・きびなどが作られ、冬作には麦が栽培された。永久畑である常畑は平均耕作面積が二〇アール程度であったので、自給作物の多くは焼畑によって栽培された。この地方の焼畑には、春焼・夏焼・秋焼の三形態があった。四月ごろに山焼する春焼の山には、とうもろこしが初年作物として栽培され、七月に山焼する夏焼の山には、初年作物にそばが栽培され、九月から一〇月にかけて山焼される秋焼の山には、初年作物に麦が栽培された。焼畑の耕作反別は一戸当たり五〇アールから六〇アールで、その大部分は春焼であった。焼畑は主として自分の所有山林に造成したが、山林所有面積の少ないものは、収穫の三分の一を地主に現物で収める条件で、焼畑小作するものもあった。焼畑では、とうもろこし・きび・あわ・麦などの自給作物が三年程度栽培された後、三椏が栽培された。明治末年に導入された三椏は大正年間から昭和三〇年ごろまでは、この地方の住民の最大の現金収入源であった。焼畑耕作では、火入れの時の類焼防止が最大の関心事であったので、火入れは集落の住民の労力交換(「イイ」とよばれる)で行われた。
 山腹緩斜面に立地する集落で最も不便なのは、飲料水の取得であった。稲村の先場では、宅地内に井戸のある家は一六戸のうち一戸にすぎず、他は谷川の流水や湧水を木をくり抜いた樋で引いてくるものが多かった。干天になると溪流や湧水が枯渇し、水不足は深刻であった。また家屋は草葺き屋根であったので、火災防止には細心の注意がはらわれ、庭先に防火用水の池を構築していたのはその対応策である。
 もう一つの悩みは、宅地をかまえるのにふさわしい平坦地が得られにくいことであった。稲村の宅地は背後に切りとった崖をひかえ、前面には高い石垣を築いて造成されている。それでも幅一〇m余りの平坦地が得られるだけで、家屋は地形に制約されて、横に細長く並んでいる(図7―7)。この地方には隠居制度が普遍的にみられた。長男が嫁を迎えて四年から五年たつと、老夫婦は畑の三分の一程度をもって別棟の隠居屋に未婚の子女をつれて別居するのを慣例とした。その隠居屋は、この集落のどの家にもあったが、用地の制約から母屋の横に細長く並ぶのが通例である。

 日陰斜面の集落田渡野瀬

 上浮穴郡美川村の田渡野瀬は日陰斜面に立地する集落である。戸数は昭和二五年の一三戸から五七年には九戸に減少しているが、上浮穴郡内では戸数の減少も少なく、農業への依存度の高い集落として知られている。その集落は久万川の川床から二〇mないし五〇mほど高く、海抜高度では四五〇m程度の北向斜面にあって、冬季は日照に恵まれた家でもわずかに四時間から五時間の日照時間しかなく、冬至にはまったく太陽の当たらない家もある。
 集落の領域内には「ヒノジ」といわれる日当たりのよい南斜面もあるのに、あえて日照に恵まれない「カゲ」と呼ばれる北斜面に集落が立地した理由としては、次の三つがあげられる。第一は耕地への近接性である。この集落の北斜面の面積は約一七〇haあるのに対して、南斜面の面積はわずかに二六haにしかすぎない。しかも北斜面の中腹には地すべりによる広大な緩斜面が発達していて、ここに集落の主要耕地が存在していた。集落が北斜面に立地することは、耕地に近く営農上の利点が大きかった。第二の理由としては、交通の便である。北斜面には藩政時代以来の土佐への往還が通じ、南斜面に比べて交通が便利であった。そして第三の理由は、集落領域を北斜面と南斜面に分かつ久万川には、昭和二九年まで丸太による橋しか架設されておらず、これが出水ごとに流失し、北斜面と南斜面の交通がしばしば途絶したことである。南斜面に集落が立地することは、丸太橋が流失した時に主要耕地へ通うことを困難にするので、北斜面への集落立地は止むを得なかったといえる(図7―8)。
 この集落の耕地は北斜面と南斜面にあるが、その利用形態は冬の日照量の差異を反映して異なっていた。北斜面の水田と切替畑はともに冬作の麦が裁培できなかったのに対して、南斜面の常畑と切替畑には夏作のとうもろこしと冬作の麦が栽培可能であった。このように南斜面の耕地は気候に恵まれ集約的利用が可能であったが、その面積は狭く主要耕地は、北斜面の海抜高度が六〇〇mから七五〇mにわたる山腹緩斜面に展開する水田と切替畑であった。集落とこれら主要耕地の間には高度差が一五〇mにも及ぶ急斜面があり、徒歩にして三〇分から四〇分を要した。特に米やとうもろこしの収穫物は、簡易索道が架設された昭和三〇年以前には、木馬によって集落まで下ろされた。この搬出作業は一六貫の米俵二俵を積んで壮年の男子が一日六往復するのが限度であったといわれるほど重労働であった。水田の肥料は、第二次大戦前にはもっぱら山嶺近くの入会採草地の肥草を投入した。盛夏の肥草刈りの時期には、一家総出で採草に従事し、婦女子は水田の中の山小屋に宿泊するのが多かったという。集落から主要耕地までの距離の大きいこの集落では、どの家も山腹斜面の水田の中に囲炉裏を切った板ばりの六畳程度の作業小屋を持っていた。この小屋は農具の格納庫であり、雨やどりの場所でもあり、また宿泊所にもなったのである。この集落の第二次世界大戦前の一農家当たりの経営規模は、常畑が二〇ないし三〇アール、切替畑が五〇ないし六〇アール、水田一ha、山林一〇ha程度であった。昭和三〇年ごろからは切替畑は植林されたが、常畑と水田の大部分は現在も耕作されている。昭和五一年には山腹斜面の主要耕地への農道も開通し、作業小屋での宿泊を強いられるような重労働からは解放された。
 田渡野瀬の住民は山腹斜面に立地する集落のなかでは、飲料水の取得には困難を感じなかった。集落の近くを流れる谷川の水を松丸太をくり抜いた樋で家まで導き、これを飲用するのが従来からの取得の方法であった。他に岩の割れ目から湧き出る清水を利用する農家もあった。各家屋の庭先に池が構築されていたのは草葺屋根に対する防火への備えであった。
 田渡野瀬のような日陰斜面は、山腹斜面の集落立地としては恵まれたところではない。この集落が主要耕地の展開している海抜高度六五〇m程度の山腹緩斜面に立地しえなかったのは、日陰斜面にともなう気候の制約による。この集落では高度四五〇mにある集落立地点で積雪が三〇㎝ある時は、高度六五〇mの耕地では六〇㎝の積雪をみるという。また積雪期間も同一高度の日向斜面に比べて長い。上浮穴郡では、集落立地が日陰斜面のものは日向斜面に比べて少ないが、その立地点の海抜高度も田渡野瀬のように低いのが通例である。

図7-6 柳谷村稲村の集落と耕地(昭和57年)

図7-6 柳谷村稲村の集落と耕地(昭和57年)


図7-7 柳谷村稲村の民家(石原利行宅)

図7-7 柳谷村稲村の民家(石原利行宅)