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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

4 過疎集落

 過疎地域

 過疎とは、人口減少の結果、その地域がこれまでに維持していた社会的・経済的生活水準さえ保てなくなった状態をいう。それは昭和三五年ごろから、わが国の経済の高度成長とともに人口流出の激しくなった農山村地域に発生した問題である。
 過疎地域は、昭和四五年に成立した時限立法の過疎法をひきついで、五五年に成立した過疎地域振興特別措置法では、①昭和三五年の国勢調査人口に比べて、五〇年の国勢調査人口が二〇%以上減少していること、②五一年から五三年までの財政力指数(基準財政需要分の基準財政収入額)の平均が〇・三七未満であること、以上二つの条件に該当する市町村とされている。五五年現在、この条件に該当する愛媛県の市町村は四〇を数え全市町村数の五七%に相当した。その人口は二六・九万人で総人口の一八%を占め、面積では県全体の五四%に相当する三〇六七k㎡にも達し、いずれも全国水準よりはるかに高い。過疎市町村が広く分布しているのは、東・中・南予の山村地域で、これら山村を含む四国山地は、全国的にみて過疎市町村の特に多い地域である。

 集落の類型と過疎の進行

 経済の高度成長期における人口減少率をみると、県内の山村でも、その比率が大きく異なっている・人口減少率が特に高かったのは、東・中予地域に多く分布する畑地卓越山村であって、南予地域に多い水田卓越山村では人口減少率がそれほど高くない。
 山腹緩斜面に集落と耕地の分布する畑地卓越山村に人口流出が多かった理由としては、第一に自給的畑作農業の崩壊があげられる。焼畑や常畑での自給作物である麦・雑穀などは、山村住民自身の米食普及の前にその存在意義を失い、木材の商品化は焼畑を永久林地に転換させていく。さらに山腹斜面の耕地では農業機械の導入が困難であり、省力化農業の進展がはばまれた。地味良好な山腹斜面の耕地は、手労働の時代にこそその価値を発揮するが、機械化農業の時代には、その有利性を失ってしまった。第二の理由は、交通路の変遷にともない、山腹斜面の集落の交通の不便が相対的に増加したことである。従来の徒歩時代の交通路が山腹斜面の集落をぬっていたのに対して、自動車時代の国道・県道はほとんど谷底に建設された。谷底の幹線道路から支線が延びてくるのが遅れた山腹斜面の集落では、自動車道から取り残され、相対的に交通の不便を増すものが多かった。
 一方、水田卓越山村が畑地卓越山村に比べて、相対的に人口減少率が低かった第一の理由は、谷底平野の水田の潰廃が少なかったことである。南予地域の水田卓越山村は製炭業を現金収入源とするものが多かった。昭和三〇年代にはじまる燃料革命は、この地域の製炭業に潰滅的な打撃を与え、主要現金収入源を失った住民の離村をうながすものであった。しかし稲作は食管制に支えられ、畑作物と比べれば相対的に有利で、かつ彼らの生産した米は、自給米としての意義をもった。これらが畑地に比べて水田の潰廃が少なく、畑地卓越山村ほどの人口流出を激化させなかったものと思われる。第二の理由は、畑地卓越山村に比較して交通が便利であったことである。水田卓越山村の集落は耕地に接して谷底に立地するが、明治末年以降建設された自動車道はこれらの谷底に分布する集落を結んで通じたので、自動車道の通じない集落は少なく、交通上の不便を感じる集落は少なかった。
       
 面河村草原

 畑地卓越山村の面河村は昭和三五年の一〇二七世帯・四五〇〇人が、二〇年後の五五年には五七五世帯・一四六四人にまで減少し、典型的な過疎の村である。人口減少は村内で一様に進行するのではなく、交通不便な小集落ほど著しい。草原はそのなかでも過疎集落の典型である。この集落は海抜高度一二〇〇mから一五〇〇mの急峻な山地に囲まれた海抜高度八〇〇mの山腹緩斜面に立地する。県道の通じている河谷とは比高にして二〇〇mの差があって、この間には行程三〇分の屈曲の多い小道が通ずるのみである。集落形態は集村で耕地は集落のまわりに約一haの常畑があるだけで、食料は焼畑に求めてきた。焼畑の主作物は夏作のとうもろこし・そば、冬作の麦で、昭和二七年ころまでは、とうもろこし七〇%に麦三〇%を混ぜたとうきび飯が住民の常食であった。現金収入源は明治末年から焼畑に導入された三椏と昭和になってさかんになった製炭業であった。焼畑用地と製炭原木は集落周辺の林野に求めたが、その林野は奥地の国有林を除いては明治中期にすでに私有化されてお
り、林野の私有化の早く進展した集落であった。
 集落の戸数は明治二二年(一八八九)に一八戸であったと推察されるが、分家や転入者によって昭和二七年には三三戸・人口一六三に増加した。しかし、この時が戸数の最も多かったときで、それ以後は挙家離村が続出したことによって人口・戸数ともに急激に減少した。挙家離村の要因は大阪や松山などの都市域からの人口吸引力が高まったことにもよるが、この地域では焼畑耕作や製炭業の衰退、山林労務の減少などによって地元での人口支持力が減退したことにもよる。離村先は松山市や新居浜市で、そこで旦雇労務などに従事したものが多い。離村順位は、転入戸や分家など土着性の薄い土地所有規模の零細なものが早く、次いで土地所有規模が大きく土着性も強い農家に及んでいく。こうして草原は、昭和四一年には九戸二六人の集落に縮小した(写真7-6)。
 挙家離村を伴う激しい人口流出は、集落の地域構成、土地利用と土地所有、集落の社会組織などを急激に変革させた。挙家離村は集落内では不規則に発生したが、中心部の転出戸の空屋は周辺部に住む残存戸によって踏襲されたものが多く、集落は周辺部から荒廃し、集村形態を維持しつつ縮小していった。土地利用では、焼畑は挙家離村の初期の段階でほぽ消滅し、永久林地に転換してしまった。常畑はかつては各農家の所有地が交錯して耕作されていたが、転出した農家の耕地が残存した農家によって引き継がれたものが多く、それは集圃化されて三椏栽培などに利用されている。林野は、昭和二七年に集落領域にあった九二haの私有林のうち、四六%が集落住民のものであったが、四三年には転出した農家のものを合わせても、従来の集落住民の林野は二四%に減少している。この間、転出した農家のみならず残存した農家も外部の大山林地主に林野の多くを売却している。
 草原は明治中期すでに共同体の物的基盤である共有林を喪失していることが示すように、比較的村落共同体的な性格の希薄な集落であった。このような集落の性格を反映して、林野も外部の大山林地主に売却され、残存戸の林業経営拡大にはつながらなかったが、これは集落の社会組織についてもいえる。昭和二七年当時、道普請と葬式の手伝いはこの集落の重要な活動であった。しかし相次ぐ挙家離村は三組あった葬式組を消滅させてしまい、道普請さえ実施困難に陥らせている。組づきあいから脱退した家も二戸あり、社会組織の再編のきざしはなかった。
 昭和五七年五月、この集落を訪れると、この間に老人世帯が四戸脱落し、五戸一一人の集落となっていた。ここ二〇年間に出生をみた家はなく、五二年以降学童は皆無である。土木工事などに出て生活する住民は、自分だち一代でこの集落も廃墟になるであろうと力なく語るのみであった。       

 津島町神田

 水田卓越山村の津島町は、昭和三五年の四八六二世帯・二万三三四一人が五五年には四三七四世帯・一万六〇六一人に減少し、水田卓越山村の多い四国西南地域では中位の人口減少町村といえる。町内で人口減少率が高いのは山間部の小集落で、なかでも神田は典型的な過疎集落である。この集落は海抜高度三〇〇mから五〇〇mの中生層の砂岩・頁岩からなる丘陵性の山地に囲まれ、その間を曲流する神田川の谷底平野に立地する。昭和二四年当時の耕地面積は二四haで、その六二%が水田で、水田耕作と製炭業が生業であった。集落形態は散村で、各戸は宅地の周辺を耕地として所有していた。明治二二年(一八八九)には現在の集落領域内の林野五四五haのうち、九一%は共有林で、集落の住民によって入会採草地として利用されてきた。入会採草地は金肥の普及とともにその存在意義を失い、明治末年以降数次にわたって住民に分割され、薪炭林へと姿を変えていった。
 神田の戸数は明治二二年(一八八九)に二七戸、以後第二次大戦までほとんど増減をみなかった。戦中・戦後の転入などによって、昭和二七年には三三戸・一八五人に増加していたが、これがこの集落の戸数が最も多かった時で、三〇年ごろから始まる製炭業の衰退によって、なだれのように挙家離村が続いた。離村先は町内の平地部や近隣の宇和島市などで、その土地で工員や旦雇労務に従事したものが多い。離村してゆく順序は、転入戸や分家など土着性が薄く土地所有規模の小さい階層から始まり、しだいに中核農家に波及していった。こうして神田は四一年には一七戸八五人、五二年には七戸二四人の集落に縮小してしまった。
 挙家離村が続出したことは、集落の地域構成や、土地利用、土地所有、集落の社会組織などを大きく変えることとなった。挙家離村は集落の縁辺部の散居居住者から始まってしだいに集落の中心部に波及した。縁辺部の居住者の住居・耕地が荒廃していくのに対して、中心部の離村者の住居・耕地は縁辺部の居住者によって踏襲されるものが多い。このようにして、この集落は散村形態を維持しつつ集落の縮小化をはかってきた。離村した農家の耕地・山林は同族を主とした集落の住民に売却されたものが多かったけれども、残存した農家の経営規模拡大にはつながらなかった。それは、残存農家が生産性の低い縁辺部の自己の耕地を荒廃化させつつ、集落中心部の転出した農家の優良耕地を利用してきたことによる。林野は団地化されて残存した農家に集積されていった。また土地利用では水田以外に省力栽培の可能なくり園が増加したことが注目される。
 共有林を基盤に共同体的な性格の強い神田は、田植組の存在、道普譜、葬式の手伝いなど、生産活動や社会生活面において共同組織が強固に機能していた。しかしこれらの共同組織は、戸数の減少から二組の葬式組が一組に合体されたように、縮小再生産を余儀なくされている。
 面河村の草原と津島町の神田の二つの事例を通して、同じ過疎集落でも、地域の特性を反映して集落の衰退してゆく姿が異なることがわかる。特に村落の共同体的性格の強弱は集落の再編成に大きく関与しており、南予地域の山村のように、比較的村落の共同体的性格の強いところでは、集落の再編成がうまく進んでいることは注目される。

 日吉村節安の集落移転

 過疎集落の終着駅は無人の集落廃村である。廃村に至る過程には集落の住民が任意に挙家離村し、自然消滅するものと、住民が集団移住することによって、集落が他地区に移転して廃村となったものがある。後者は集落移転といわれ、経済企画庁や自治省(昭和四九年から国土庁に移管)などの指導のもとに、過疎対策の一環として政策的に推進されたものもある。北宇和郡日吉村の節安は昭和四八年に村が過疎債を財源として、村の単独事業によって集落移転をした例である。
 日吉村は林業を主に農業が副の山村であって、住民は谷底平野で水田耕作を営むかたわら、山腹斜面を利用して栗・しいたけを栽培したり、育成林業を営み現金収入を得てきた。人口は昭和三五年の四四四四人が五五年には二五二八人となって、二〇年間に四三%の人口減少をみせ、南予地域では典型的な過疎の村である。谷底平野に大小三〇の集落が点在するが、役場のある下鍵山を含めて五〇戸以上の規模の集落は二つしかなく、一〇戸から三〇戸の小規模集落が多い。これらの小集落はいずれも人口流出の著しい集落である。
 節安は四万十川の一支流である広見川の源流の谷頭に位置し、役場からは一六㎞、最も近いバス停留所からでも五㎞も隔っている交通不便な集落であった。節安は昔から一六戸といわれ、一人前の百姓と見なされる家は昭和初期まで一六戸であった。彼らの間には林野の所有格差は小さく、そのうえ集落領域の四一%にあたる一五〇ha(実面積は五二一ha)は集落住民の共有林であった。共有林は大正初期に部落有林野の統一に際して村有林に移管されたり、昭和初期には外部の山林地主に売却されたりして消滅したが、この集落は共有林を物的基盤として共同体的な性格が濃厚であった。
 節安が急激な変貌をとげたのは昭和三八年以降の挙家離村の続出によってである。挙家離村をみるに至った動機は、この年に西日本一帯をおそった豪雪と、同年八月の集中豪雨である。豪雪は冬季の交通を途絶させ、この間急病による死者を一名出した。加えて八月の集中豪雨は谷底平野の水田の大半を流出させてしまった。この二重の災害は、折からの経済の高度成長にともなう山村からの挙家離村の続出という社会的動向とも相まって、住民を災害復興に向かわせるのではなく、この奥地集落からの離村をひきおこした。昭和三五年には二五戸・一九五人の集落は、四八年には七戸・二二人の集落に縮小した。この間に離村した家の大半は二〇㎞から四〇㎞も下流の広見町に移動し、この地で農業を営むものが多い。住民の大部分が広見町に移転したのは、先発の離村した農家が後発の離村戸に情報を提供し、離村を誘導したもので、共同体的な性格の強さが離村先を一つの地域に向かわさせたといえる。
 わずか七戸に減少した奥地集落は存亡の危機に直面したが、当時この地区の中学生が通学していた富母里中学校が役場のある下鍵山の日吉中学校に統合されることになった。残存住民はスクールバスの導入か、残存した農家の住宅を役場近くに建設することを村当局に迫ったところ、村当局は残存農家のための公営住宅の建設に応じた。残存していた七戸は昭和四八年一二月に下鍵山の集団住宅地へ移住することによって節安は消滅した。
 奥地の過疎集落が役場近くに移住したことは、移住者に社会生活上の便利さをもたらし、村当局には住民への行政サービスの負担軽減をもたらしたが、一方では、種々な問題点を残している。その一つは移住者の就業対策が欠如していることで、節安の住民の多くは、旧来の山林に通勤林業を余儀なくされている。第二は廃村の跡地利用の問題である。住民を失った耕地は荒廃化し、山林もまた保育作業が次第におろそかになり、林業経営は粗放化されている。第三は国土保全上の問題である。住民を失った集落跡地付近では、林道、山間の小道、溪流などの荒廃が至るところで見られ、自然災害の防止上からは、住民を失った損失は大きい。