データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

1 砂浜海岸の漁村

 砂浜海岸の漁業の特色

 愛媛県の海岸線は一六二三㎞で、全国第五位の長さを誇る。海岸線には、南予地域にみられる屈曲に富むリアス式海岸、佐田岬半島から伊予市にかけての直線状の断層海岸、瀬戸内海島しょ部のように灘や瀬戸の複雑に交錯する海岸、東予地域の地方部に多い直線状の砂浜海岸と、その形態はきわめて多彩である。これらの海岸線に位置して漁業を営む漁村は、海岸線や海域の自然条件の相違を反映して、成立や機能などが変化に富んでいる。
 東予市から川之江市に至る隧灘沿岸には遠浅の砂浜海岸が続いている。漁業は砂泥質の海底に棲息するえび類を魚獲する小型底曳網漁業や採貝漁業、あるいは固定刺網漁業などが盛んである。古くは遠浅の砂浜海岸を利用したいわしの地曳網漁業もあり、新しくはのり養殖も盛んである。東予市の河原津や伊予三島市の江之元は、このような漁業を営む東予地域の砂浜海岸に立地する漁村の典型である。

 伊予三島市江之元

 伊予三島市の江之元は市街の中心地から西方三㎞に位置する。漁港は砂浜に掘込まれた江之元港(寒川港)で、長谷川の河口に位置するが、漁港としての機能を発揮しだしたのは天保七から八年(一八三六~三七)に西条藩が貧民救済事業として、長さ五〇間、幅一〇間、川入口幅二間の掘溜をつくってからである。大正末年には佐々連鉱山の鉱石積出し港ともなるが、第二次大戦後に大拡張が行われるまでは港に収容しきれない小舟が砂浜海岸に引き揚げられているものが多かった。このような人工の港は自然条件には恵まれず、冬季北西の季節風が吹くたびに入口が土砂で埋まり、年間二回程度の浚渫が必要であった。
 現在の漁業の主体は周年操業する小型底曳網と、四月から二一月の間に操業するさわら流し網でほかに小型機船船曳網、定置網、磯建網、がざみのかにかご、のり養殖などがある。小型底曳網は隧灘一円を操業区域とし、さわら流し網は隧灘から伊予灘にかけての海域で操業する。一方、定置網、磯建網、がざみのかにかご、のり養殖などは地先の共同漁業権内での操業である。第二次大戦前には、いわしの地曳網も三統から四統あったが、昭和三〇年代には消滅した。
 江之元の集落は海岸の浜堤上と、その背後の後背湿地をさけた平地に立地する。集落は三〇〇戸をこす大集村で、その中で漁業に従事するものは六六戸、農業に従事するもの七戸を数える。農・漁業以外の者のなかには漁業から脱落した家が四〇戸もあって、漁村における都市化の影響をみることができる。東予地域の漁村は漂海漁民に起源をもつものが多く、漁業を営む者は漁業専業者が多いというが、江之元でも漁業者は大部分専業で、農業との兼業は見られない。(図7―9)。
 漁家の並ぶ浜堤上の微高地の前には道路が海岸に平行に走り、その前には高さ三m程度のコンクリートの防波堤がある。この防波堤が第二次大戦後に建設される以前には、その位置に高さ一・五m、幅三mほどの石積みがあって、前面には二〇mから三〇m幅の砂浜が広がっていた。砂浜上は漁船の陸揚地で、また網干場でもあった。砂浜には個人の所有権はないが、網の干し場はおのずから決まっていたという。砂浜の後には各漁家の網小屋が建ち並び、網の格納庫や煮干の加工場となっていた。戦後防波堤が建設されてからは、網小屋は防波堤内と漁家の住宅内へと移動した。
 この集落の飲料水は、昭和初期までは個人井戸のもらい水に頼っている家が多かった。一つの井戸は一〇戸程度で利用されたが、もらい水に頼る家は、正月には水年貢として進物を贈るのが慣例であった。昭和一〇年ごろからは各戸に「打抜き」という自噴井が掘られ、水不足は解消するが、それまでは風呂もほとんどないほどに水不足の集落であった。ここの住民が第二次大戦前に苦労したのは水のほかに薪炭の採取であった。薪炭は冬に法皇山脈の山林に求めたが、前山の私有林はその採取が制限されていたので、海抜七〇〇mから八〇〇mの尾根近く、あるいは分水嶺を越えて銅山川流域まで雑木を採取に行った。船底を定期的に焼くための松葉も法皇山脈から採取した。
       
 宮窪町宮窪

 今治市から越智諸島にかけては、灘と瀬戸の交錯する複雑な海域である。この海域の漁業は急潮流に洗れる瀬戸の岩礁に棲息するたい・すずきなどの高級魚を一本釣で魚獲したり、静隠な灘の砂泥質の海底に棲息するえび・かれいなどを小型底曳網で漁獲したりすることに特色がある。この地域の臨海集落のなかには、まったく漁業を営まないものが多く、漁業集落の数は限られている。漁業集落の代表的なものは、今治市の大浜、波方町の小部、関前村の岡村、吉海町の椋名、宮窪町の宮窪、魚島村の魚島などで、大三島、伯方島、岩城島、弓削島などには、漁業を営むものはほとんどいない。漁業集落の多くは入江の奥の砂浜上に立地し、大集村を形成しているものが多い。集落内には農家もあるが、農業を営むものと漁業を営むものははっきりと区別され、伝統的な漁業集落には半農半漁の家はみられない。
 宮窪町の宮窪は越智諸島随一の漁業集落である。第二次大戦前は一本釣、延縄、たこ壷などが主体であったが、現在は小型機船底曳網、一そうローラ五智網、刺し網、一本釣、潜水漁業などが主体である。小型機船底曳網やローラ五智網は燧灘一帯で操業され、刺し網は大島と伯方島の東岸、四坂島周辺が主要漁場である。また、一本釣と潜水漁業は、宮窪町と伯方島の沿岸で行われる。宮窪町から伯方島の地先には、宮窪・伯方共同漁業権が設定されているが、伯方島にはほとんど漁民はおらず、宮窪漁民の独占場である。
 この地方の漁業は、小型機船底曳網、一そうローラ五智網、刺し網などは二人ないし三人で操業され、潜水漁業は四名で操業されるが、いずれも家族が操業の単位であり、個人主義的な色彩が強く、網主――網子、船主――船子などの社会的な関係はみられない。
 宮窪の集落は北東に湾口を開いた砂浜海岸に立地する。四五〇戸を超す大集村で、海岸ぞいの家は専業の漁家で、内陸の家は農家である。漁家と農家ははっきりと区分され、半農半漁の家はほとんど見られない。漁家の並ぶところは海岸ぞいの微高地浜堤上である。漁港は集落の南東部にあるが、昭和九年に防波堤が建設されるまでは、港らしいものはなく、漁船は集落前面の砂浜の上に陸揚げされていた。台風時には避難港がなく、船は砂浜と集落の間にある道路上にまで引き揚げなければならなかった(写真7―7)。
 この集落の漁家は、現在はみかん栽培農家よりはるかに現金収入が多いが、魚の流通機構の整備されていない戦前は、その日ぐらしの貧しい生活で、自分の家屋を持つ者はほとんどなかった。家屋はすべて農家の借家で、目の字型の細長い家は広さは一〇坪程度のものが多かった。狭い借家には、物置も風呂もなく、物置の必要なものは海岸の砂浜上を利用し、風呂は銭湯を利用した。飲料水は共同井戸の水を利用し、二〇戸程度で一つの井戸水を使用していた。
 現在の漁業で最も重要なものは潜水漁業で、小型機船底曳網、ローラ五智網、刺し網、一本釣なども潜水漁業との組み合わせで操業されているものが多い。潜水漁業は大正年間徳島県伊島の漁民の入漁にはじまるが、宮窪の漁民が彼らから技術を伝授されて潜水漁業を始めたのは昭和二三年ごろからである。主な漁獲物は瀬戸貝・うに・なまこ・さざえなどであるが、冬季の瀬戸貝採取の現金収入が最も多い。潜水服に身を固めて三〇mほどにも潜水する瀬戸貝の採取は体力が必要なことから、二〇歳前後の青年が最も活躍できる。漁家の子弟のうち、女子に比べて男子の高校進学率が低いのは、高収入の得られる潜水漁業に従事するためである。

図7-9 伊予三島市江之元の漁村

図7-9 伊予三島市江之元の漁村