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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

1 松山と周辺の都市

 城下町の遺制

 県都である松山市の市街地は、松山城本丸のある海抜高度一三二mの勝山をとり囲んで、ほぼ方形の旧城下町を中心とした旧市街と放射状に走る四つの国道に沿って、ヒトデ状に広がる新市街とからなっている。松山平野の北部、勝山とその山麓一帯に城郭と城下町が建設されたのは、慶長七年(一六〇二)から寛永四年(一六二七)の間であった。重信川の南の現松前町の海岸近くから、勝山に城下町を移したのは、その城郭が近世初期の平山城であり、広い農村地帯を南にして城下町を建設するには、所堅固という軍事的な計画された都市づくりに都合のよい場所であったからである(図7―19)。
 城と町の建設に約三〇年の歳月をかけた歴史と、第二次大戦の終わりに空襲で当時の市街の約七〇%を焼失してから、復興して現在に至る三〇余年の歳月を対比してみると、旧市街の勝山を囲む中央部では、高層建築が林立しているものの街区の形は城下町プランを引きついだもので、一度つくられた町割りが、いかにしぶとく残ってゆくかを見せつけている。また、街路がせまく、街区が小さいために、高層化を促しているとみてよい。この旧市街は、明治二二年の市制施行のときに、持田・中村・味酒・立花の各村の一部を合併して、面積約一三八haであった。その範囲は、現在の大きな道路筋でみると、南は中の川通りから外側とよばれた市駅一帯、萱町や松前町など古町一帯から東へ本町、平和通り沿いの高砂町・鉄砲町、南へ上一万から勝山通りなどに囲まれたところで、伊予鉄の市内電車の環状線が通っている一帯だとみてよい。とくに、銀天街や大街道など中心商店街は、藩政期の中ごろから町人町として発展したところで、その宅地割りでも平均一五坪(四九・五㎡)とせまく、多くの過少宅地があって、しかも地価は県内で最高価額を示している(図7―20)。
 明治四五年(一九二二)の人口約四・四万のうち四分の一が士族で、就業者一万人のうち商工業が最も多く四六%、旦雇いが二三%、役人や軍人・会社員・医療などが一九%であって、なお城下町時代の名残りをとどめていた。とくに県庁や連隊が置かれたことは、松山市をして行政管理機能を高めさすこととなった。現在でも、中央部の高層建築群のなかに住宅が残存し、また医院や弁護士事務所なども多いのは、侍屋敷と士族の伝統をつたえるものである。また、北部や古町一帯には、城下町の鎮護の意味でつくられた寺の多くがある。        

 著しい都市化
        
 松山市は、周辺の町村を数多く合併して、市域の拡大と人口増加をみせてきた。これは、とりもなおさず松山市による都市化の勢いを示すものであった。昭和一五年に三津浜や高浜など臨海地区を合併したが、それでも人口は約一二万にすぎなかった。しかし、第二次大戦をへて三〇年に二一万人、四〇年には二八万人、五五年には面積二八九k㎡で人口が四〇万人を超え、県内はもちろん四国でも最大の都市となった。
 集落が、第二次・三次産業の立地によって、都市機能を拡充し、都市的産業の施設が周辺に多くなって農山漁村地域に市街地の拡大をみることを都市化という。それには、都市機能がより高度の産業へと移り、管理業務や商業サービス業が多く集積することと、土地利用のうえで、都市活動にかかわる施設が中央部から周辺へ、そして住宅地がさらに郊外へと広がるという二つの局面をもっている。もちろん、都市化は常住人口と通勤通学・買物などによる一日周期の人口移動の増加をもたらすが、とくに前者は人口の構成で青年層が多くなり、転入者や出生数の増加にも反映されてくる。
 まず市街地の広がりをみてみよう。国勢調査による人口集中地区を市街地としてみると、市制施行のときの約一三八haは、昭和五五年に中央部と三津浜・西部、久米地区を合わせて四九七〇haと三八倍となった。とくに中央部だけでは二六倍の広がりをみせ全人口の約八〇%が住む(前掲表3―3、図7―15)。しかし、旧市街の中央にある番町地区の人口は、この二〇年間に二分の一以上の減少となり、小・中学校の規模も小さくなった。いっぽう南部や西部の新市街では、住宅地化が進み人口の急増から小・中学校区の分離が行われている。大街道や銀天街など商店街をはじめ、官公庁や民間企業の多い中央業務地区をかかえる都市部からは、人口の減少、新市街の人口増加というドーナッツ現象が進んでいる。
 松山市の都市化は、昭和二〇年代から始まった西部臨海地区への帝人その他大工場の立地、三〇年代からの公営住宅団地の地価の安い郊外への建設、さらに県内や四国を管轄する官庁・民間企業の業務の増加などが促進した。とくに、住宅地の拡大は、公営住宅団地の立地によって、道路の改修、バス運行の増加で、飛び地のように周辺へ人口の分散化が進み、これが地価を高くして、市街地との間に農地をとり残して虫くい状態で進んだ。道後や祝谷地区では、山地が間近に迫っていることから、住宅化がさえぎられ、山麓まで削られての土地利用の改変をみている。
 いっぽう旧市街では、中央業務地区の高層化が進み、一四階建ての全日空ホテル、一一階建ての県庁、そのほか市役所、銀行、百貨店などが新増改築で高くなった。業務地区は、伊予鉄道の市内電車沿線に延びて、堀端・本町・勝山通りなどに多くなっている。また、都心部には駐車場が多いのみか高層化していることが特色である。これに対して、卸売業が交通の不便さや合理化のために問屋町などに集団移動し、愛光学園・城南高校など学校の郊外への移転、松山西高の新設、さらに病院や刑務所なども移転していて、離心現象がつづいている。
 このように、都市化の局面は、業務地区・商業地区、そのほか文教・住宅地区など、土地利用のうえで専用化を進め、地域構造が大きく変わりつつある。とくに、国道には新しく松山東・松山西の二つの道路が並行して建設され、これらを結ぶ環状道路も開通し、沿線や交差点には商店、スーパーマーケット、中高層アパートなどが立地して、自動車交通時代の都市化を進めている。

 外港としての三津浜

 かつて藩政期に松山の城下町の港として建設された三津浜町は、西部の臨海地区で宮前川の河口になお昔の姿を残している。この町は、瀬戸内海沿岸で近世の港町として歴史的にも有名である。昭和一五年に松山市に合併されたが、明治二三年(一八九〇)に町制を施行したほどに古く、戦前は西条町・八幡浜町とならぶ三大町のひとつといわれ、人口が多かった(図7―21)。
 この町の機能は、松山市の外港としての港町の機能とともに漁業者のいる町である。水産物の市場があって、市民の台所の一つを担っているばかりか、練製品そのほか水産加工業も立地する。港町の機能には、船具商・回槽店・造船所・倉庫などが集まっているが、船員も多い。港内は改修が行われて、フェリーボートや水中翼船の桟橋につづいて、内港には漁船や渡海船専用、内航貨物船専用に分かれているが、出入船舶量の増加に応じるように新しく外港埠頭が建設され、水産市場も移動した。
 三津浜町は、祓川(現宮前川)の地先で砂州の地を人工的に町づくりをしたところである。松山藩主の参勤交代の港としての建設が最初で、旧魚市場あたりに造船場や船大工の町ができ、番所があって一般の人びとの出入りを禁じた。松前町から商人が移住したりして栄え、稲荷新地の内港一帯は長崎の出島をならって埋めたてたところである。伊予鉄道が明治二二年に松山との間に日本最初の軽便鉄道を開設し、小説「坊っちゃん」にも登場したのは、三津浜港が汽船時代の玄関口として発展していたことを示す。この駅前から港までの約一㎞の細長い住吉町の商店街は、昔に乗降客で賑わったところである。
 三津浜町は、その建設の目的から藩の船奉行がいたり、町政に大年寄がいて自治組織をもっていたことが特色でもあった。現在、商店街の一隅に残る辻井戸は、住民のただ一つの飲用水であったし、「せこ」とよばれるせまい道路と過密住宅は非戦災の古い町の形をとどめている。このせまい道路は外からの人びとを監視するのにも都合よく、三津浜旧市街の閉鎖性にもつながっている。      

 北条市と伊予市

 松山市の北側に接した北条市は、斎灘に面し、北条(風早)平野の農村を市域にもつ小都市で、国道一九六号線と国鉄予讃線が沿岸を通過している。昭和三三年に成立した新市で、その中心集落北条町と浅海・立岩・河野・粟井の各村は、すでに三〇年に合併していた。立岩川の河口左岸の旧北条町の集落は、商業と漁業ならびに海運業を主としたところで、藩政時代には松山城下から四里(一六㎞)の宿場町として栄え、辻町は法善寺の門前町であった。北条の地名は条里制に由来するとも、中世の北条氏の館があったことによるともいわれている。
 立岩川の河口近くには、県内で残り少なくなった綿紡績の倉敷紡北条工場があり、この地域の工業化の先駆となった。戦後には、聖カタリナ女子短大の誘致や県営住宅団地、粟井地区の光洋台団地の建設などが進み、松山市の近郊住宅都市としての性格を強めている。
 松山市から南へ重信川を越え、松前町をはさんで伊予灘に面して伊予市がある。国道五六号線、国鉄予讃線ならびに伊予鉄道郡中線が主要交通路としてあり、とくに郡中線は松山市の近郊鉄道路線の一つで、郡中駅を終点とする。伊予市は、昭和三〇年に郡中町と南山崎村・北山崎村・南伊予村を合併して伊予市となったが、中心集落の郡中が市名よりも広く知られている(図7―22)。
 北条市と同じく、松前町から郡中に至る背後の農村地帯には条里制のあとが認められ、しかも寛永一二年(一六三五)には、大洲藩が現北条市にもっていた飛地領を松山藩領の郡中や松前町とを交換し、生産力の高いこの地方が大洲藩領となった。その後、灘町と湊町を在町として建設し、港をつくり、これが現在の中心集落の郡中町である。
従って、ここは大洲藩の外港として栄え、米の積み出しや明治以降では木材、花かつを、砥部焼などの取扱いで賑わっていた。明治二九年(一八九六)に南予鉄道(現伊予鉄)が松山市との間に開通したことは、この港町が背後地が広く、いかに重要であったかを示すものであった。
 国鉄予讃線の開通(昭和五年)など鉄道交通の発達が郡中港の地位を低下さすことになった。いっぽう地場産業としての花かつを生産は全国的に有名になるなど、水産加工業の町として発展した。国道五六号線の新道が市街地の南側を通過したことから、市役所や警察署などがその沿線に移動し、新しい工場の立地もみる。また、国鉄内山線の分岐点となる予定である。松山市への交通が便利なため同市の勢力圏に入っているが、人口の流出もあって、近郊の衛星都市としては珍しく人口の停滞した小都市となっている。

図7-19 松山市都心部における土地利用区分(昭和39年8月現在 横山原図)

図7-19 松山市都心部における土地利用区分(昭和39年8月現在 横山原図)


図7-20 松山市の市街地

図7-20 松山市の市街地


図7-21 松山市三津浜地区の土地利用(昭和56年)

図7-21 松山市三津浜地区の土地利用(昭和56年)


図7-22 伊予市と松前町の市街地

図7-22 伊予市と松前町の市街地