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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

一 郡の成立と消滅

 郡の歴史

 現在、愛媛県内には、東予地域から順に宇摩・周桑・越智、中予地域に温泉・伊予・上浮穴、南予地域に喜多・西宇和・東宇和・北宇和・南宇和の合わせて一一郡がある。しかし、今は郡名を記したのは地図か、町村の所属を示すほかには利用されていない。かつて、郡制といわれ地方行政の単位地域とされたのに有名無実で、単に地理的名称として残っている。
 しかし、郡の設置は県のそれよりもはるかに歴史が古く、奈良時代の大化改新による地方の国郡制によって、伊予国の郡司が置かれたものに、伊余(伊予)、奴麻(野間)、久味(久米)、小市(越智)、風速(風早)があった。中世の延喜式では全国で五九〇の郡が記され、一〇世紀中ごろの和名抄には、同じく五九二、伊予国では宇摩・新居・周敷・桑村・越智・濃満・風早・和気・温泉・久米・浮穴・伊予・喜多・宇和の一四郡が記されている。南予地域が二郡で、東・中予地域が多くの郡に分かれていたことは、それだけ開けていたことを物語っている。
      
 郡制の確立
       
 明治に県が成立したが、その範囲は旧藩領域というよりも郡域を単位としたもので、県域が郡を二分した例はなく、愛媛県でも伊予の全郡をふくんだものであった。ただ、郡をして地方自治制の基礎となったのは、明治一一年(一八七八)の郡区町村編制法による。それは、町村を住民の自治単位として認めるいっぽうで、郡は府県市と同じく行政区として、町村よりも上位にあるとしたものである。県内では、前項で述べた藩政期の一四郡に新しく浮穴郡を上浮穴と下浮穴に分け、宇和郡に現在にも残る東宇和・西宇和・北宇和・南宇和の四郡に分け、一八郡に編成された(前掲図9―1)。この郡制の行政機関として郡役所が設置され、周布と桑村は小松、野間と風早を合わせて北条、和気・温泉・久米の三郡を合わせて松山、その他には、それぞれ川之江(宇摩)、西条(新居)、今治(越智)、久万(上浮穴)、森松(下浮穴)、郡中(伊予)、大洲(喜多)、八幡浜(西宇和)、卯ノ町(東宇和)、宇和島(北宇和)、城辺(南宇和)の一四か所にあった。これら郡役所は、藩政期の諸藩の城下町や在町など地域の中心集落で、人口も多いところであった。このようにして、郡が成立したが、その行政は県の監督下で法令を施行し、郡内を統轄することにあった。

 郡役所のある集落の機能 

 郡を行政区としたことは、役所の所在地となった集落に新しく行政上の管理機能が加わり、中心地としての役割を果たさすこととなったことに意義がある。
 その集落には、郡役所のほかに警察署をはじめ税務署が一郡一署、区裁判所、さらには県立の中学校・女学校・実業学校などの教育機関も次つぎと置かれるようになって、地方行政制度の浸透と社会・教育環境整備の拠点として発展した。
 県内の郡域は、その後、市町村制(明治二一年)や郡制公布(同二三年)、郡分合法(同二九年)などによって、分合をくり返し、周布と桑村が合併して周桑郡(明治三〇年)、越智と野間両郡の合併(明治二九年)、温泉・風早・久米・和気の四郡と下浮穴と伊予両郡の一部を合併して温泉郡が新しく成立し(明治三〇年)、下浮穴郡は僅か一七年余で消滅した。このほか喜多・西宇和・東宇和・北宇和などの郡でも村域の変更、合併などがあって郡域も変おったが、郡そのものは存続した。

 郡制の廃止

 郡が地方自治体として法的に確立されたのは明治二三年の郡制の改正で、郡は法人となり郡会議員は直接国税三円以上を納める郡民の直接選挙で選ばれることとなった。しかし、大正一二年(一九二三)に郡制は廃止されて、その後、郡名は地理的名称としてのみ残ったのである。
 なぜ郡制が廃止になったのか。さきの郡制の改正で、郡の自治体としての性格は変えられなかったものの、それは県と町村の中間的位置にあったとはいえ、基本的には府県に近く、その下部の行政機関としての性格が強くなってきたのである。しかも、郡は課税権がなく、自主財源がないことから郡としての独自の事業がほとんどできなかったため、自治体としての活動の余地が乏しかった。
 しかし、郡は消滅したが、郡役所が置かれた集落は、中心地的機能を備えたことから、県内でも、そのほとんどが後に市制を施行するほどになった。いっぽうでは、周桑郡の郡役所が丹原町に置かれたのに、警察署は壬生川町に、また、卯之町(宇和町)に対する野村町に簡易裁判所と区検察庁が設置されて、機能の分散をはかっている。壬生川町は交通の要地であったし、野村町は野村盆地の中心地であったことによる。これは、御荘町と城辺町との間でもみられた。これら郡役所の機能は、その後、県の地方行政機関へと引きつがれることになる。